「何だ?凄い霧だな。ここはロンドンか?」
港区の。ある有名ホテルから出た途端、1メートル先も見えない真っ白な霧に巻かれて、勝又は呟いた。
「本当に。一体、これはどうした事でしょう。迎えに来ているはずの車まで居ない・・・・。」
「・・・・・・。」秘書と護衛を兼ねた部下が、少しうろたえたように辺りを見回している。勝又にも分かっていた。彼らの周りから、人の気配が消えてしまった。どこか・・・・。
(別次元に落ちたな・・・・。)勝又は眉根を寄せた。疲れてるのに、面倒臭い。今年、還暦を迎えた勝又は、無理の利かなくなった肉体に、微かな苦笑を漏らした。
「車を探して参ります。ここにいらっしゃって下さい。」秘書がばたばたと走っていく。無駄だ。と勝又には分かっていたが、止めなかったのは、何かの予感があったからかもしれない。
「・・・・・・・・・。」動くなと言われたが、勝又は躊躇わすに前方に向かって足を踏み出した。まだまだ能力には自信があるし、未知の世界に対する恐怖心より好奇心の方が強かった。と。
「うわっ!」
いきなり、何かに蹴躓(けつまづ)いた。
「・・・・・・!」膝を強打して、声も無く悶える勝又の傍らで。
「痛ってええ・・・・・。」
誰かが呻く声が聞こえる。
「誰だよ?人のわき腹を思いっきり蹴飛ばしやがって・・・・・。」
「・・・・貴様こそ・・。何で、こんなトコロで寝転んでやがる!?」
「こんなトコロって・・・・。あれ?ここ、どこ?」
まだ若いらしい男は、びっくりしたように叫んだ。確か、居酒屋で飲んでいて、トイレのドアを開けただけなのに・・・。とか何とかブツブツ呟いている。
「・・・・・・・。」勝又は霧の中で目を凝らした。だが、それほど男と距離が離れているとは思えないのに、どうしても顔が見えない。
(ま。いいか。そういう決まりなんだろう。)勝又はあっさり諦めた。所詮、こういう妙な世界で起こることは、自分たちの世界の常識にあてはめてもどうにもならない。
「何か・・・・。妙な世界に来てしまったようだな。じいさん。」若い男は、案外落ち着いているようだった。
「そうらしいな。くそガキ。」勝又が返す。
「・・・・・。吸う?」若い男が、乾いた声で笑いながら、勝又に煙草の箱を差し出した。
「・・・・・・。」勝又はこの5年間。禁煙していたが。
なぜだが、煙草を受け取った。そして、若い男が差し出すライターの火を受ける。
「・・・・・・・。」
煙を深く吸い込む。久し振りの煙草の煙が身体中に染み渡り、頭をふら付かせる。禁煙する前と同じ銘柄のそれを。勝又は笑いながら見た。
(やっぱり、これは身体に悪いな。)
「あんたは一体どこから来たの?」男が勝又に話しかける。
「ホテルを出て一歩踏み出したら、お前に躓(つまづ)いた・・・・・。」勝又はもう一口、紫煙を吸い込む。
「・・・凄いな。何だか、タバコに飢えていたみたいに見える。」
「・・・・・・・。」
飢え、か。―――
勝又は小さく笑った。ここ数年。何かに飢えた事などない。全てが順調で、満たされている。
「ああ。上司が心配してるかな?」若い男が、背後を振り返りながら頭を掻く。
「・・・・上司と飲んでたのか?」勝又は特に何の気も無く訊いた。
「滅多に無い事だってのに。」若い男が舌打ちをする。
「変な奴だな。上司と飲むのが嬉しいのか?」
「・・・・こいつは特別だ。ずっと落としてやろうと狙っていたからな。酔わしてしまえば、こっちのモノさ。」
「・・・・・・。」勝又は小さく笑った。何だが昔の自分を思い出す。
「・・・その上司が大吟醸を飲んでるんだったら、諦めろ。物凄いウワバミだと相場が決まっている。」
「・・・・えっ?そ・・・そうなのか?」
「!?」
うろたえたような若い男の声に、勝又はゆっくり男の方に目をやった。勝又が吸っていたタバコの銘柄は、そこらの自動販売機で買える様なモノでは無い。わざわざ、業者に頼んで輸入してもらっていたものだ。
「・・・・・・・。」
1メートル先も見えない、霧の中。
自分と同じ銘柄のタバコをのむ男。大吟醸を飲む上司。
その時。
「・・・・・・・。」
霧の中から、ノックの音が聞こえた。
「・・・おっと。俺の方は、元の世界と繋がったようだ。」
若い男は立ち上がった。身長は2メートル近かった。
霧の中に、長方形のドアの形が浮かび上がる。ドアの微かな隙間から、明りと居酒屋っぽい喧騒が聞こえてくる。
「じゃあな。じいさん。楽しかったよ。」男がドアに向かう。
「・・・・・待・・・・・。」勝又は思わず膝立ちになって、男を引きとめようとした。その時。
「・・・・どうした。つぶれたのか?」
扉の向こうから。低く良く通る、美しい声がした。
「・・・・・・・。」
懐かしい。
その響き。勝又は生唾を飲み込んだ。
「・・・・・・・。」
ドアがゆっくりと開く。ドアの向こうに居る人物のノブを握った左手が見えた。
「・・・・・・・。」
勝又は食い入るように、それを見詰める。
ドアを開いた人物に背後の明りが届く。うつむき加減のその男が。ゆっくりと、顔を上げようとした。
「!」
「勝又さん!」
背後から声が聞こえたのは、その瞬間だった。
「・・・・・・・・。」
いつの間にか、霧は消えていた。周りには見慣れたホテルのエントランスが広がっている。
「・・・・・どうかしましたか?」部下の声が聞こえる。
「・・・・馬鹿野郎。」
「は?」
「なぜ、あと10秒。・・・いや。3秒待てなかった。」
「は・・・・?」
「・・・・・・・・・。」
勝又は瞳を閉じた。
「・・・・貴様はクビだ。」そう言うと、勝又は一人で、ずんずん歩き始めた。
「はあ・・・!?か・・・勝又さん!ちょっと、待・・・。どちらへ!?」
「・・・・・・・・。」
部下たちの声が遠くに聞こえる。
「・・・・・・・。」
お前が殺したいほど羨ましいよ。勝又は、霧の中で出会った若い男を思った。
「・・・・・・・。」
そして。手に残ったタバコを。もう一度深く。
深く吸い込んだ。
もう一度。貴方と会う事が出来るのなら。
それがこの世でなくても。例え人でなくても。かまわない。―――
「・・・・・・・。」
勝又は、自分の頬をとめどなく流れるものに気が付いた。だが、それを拭おうともせず正面を見詰めながら歩き続けた。
―fin―
これと似た話は。
実は、にゃむにゃむが高校生の頃に書いた事があります。覚えている方もいらっしゃるでしょう。あれは主役が「彼方の声」シリーズの勝又でしたね(名前を使い回すなよ。笑)。
そして、この勝又は・・・・。
え?誰だかにゃむにゃむ知らないよ。だって試作品の小説だもん。誰かが死んだかどうかなんて知らないもん。可愛こブリッコしてスキップしながら、去っていくにゃむにゃむ。