春咲く櫻。
冬の雪。
夏の入道雲。
秋の満月。
日本は。こんなにも美しい。
太平洋戦争末期。――――――
その青年は。
学生服に身を包んで、土手にある大きな櫻の木の下に佇んでいた。
秋の夜。
晴天では無かったが、雲間からまん丸の月が時折朧(おぼろ)に顔を覗かせていた。
「・・・・・・・。」
青年は。右手を櫻の大きな幹に右手をあてて、その潔癖そうな眼差しを頭上に大きく張り出した裸の枝にそそいだ。
「・・・・もう一度。お前が満開の花を付けるのを見たかったよ。」
青年は小さく笑った。
近所の幼馴染たちとともに。彼は何度もこの櫻の下で遊んだ。木に登って、近所の頑固親父に怒鳴られ逃げ回ったこともある。
「・・・・・・・・。」
青年は微笑みを浮かべたまま。櫻の下に跪くと、学生服とその下に着ていたカッターシャツの前のボタンを外した。大きく前をくつろげて肌を見せると、懐から小刀を取り出した。
「・・・・・・・・・。」
手の当たる部分に和紙を巻き付ける。そして。それを右手に持って、もう一度空を仰いだ。
美しい月の柔らかな光が。青年を照らしていた。
青年は両膝を地面に付けたまま、腰をわずかに浮かした。右手に握った小刀に月光が反射する。
「・・・・・・待って下さい。」
小さな声が懸かったのは。
その瞬間だった。
「・・・・・栞(しおり)殿・・・・。」
櫻の大木の陰から現れたのは。
セーラー服にオサゲ髪の。小さな少女だった。
青年の家の近所に住む小さな剣道場の娘。幼い頃から泥まみれになって遊んだ幼馴染の一人だった。
少女は。手に一振りの日本刀を持っていた。
「・・・・・赤紙(あかがみ)が来たと、おばさまに伺ったので、こちらにいらっしゃると思ってお待ちしておりました。」
「・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「・・・・栞どの。」
「はい。」
「私は、死ぬのが怖い臆病者では無い。」
「はい。」
「・・・・誰も殺したくはないだけなのだ。例え、それが敵国の人間であっても。」
「はい。」
「・・・誰にも分かってはもらえまい。だが主張を曲げる事は、私の誇りが許さない。そして主張を続ける事は、家族に信じられないほどの苦しみを与えることになるだろう。」
「はい。」
「・・・・幸一に伝えてくれ。」
それは。少女と青年。そしてもう一人の親しい幼馴染の名前だった。
「・・・・臆病なのでは無いと。考え方が違うだけなのだと。」
「・・・・・・・・。」
臆病者と。青年を罵った幼馴染。死ぬのが怖いのだろうと。非国民。と。真っ直ぐな瞳で、青年に殴り掛かって来た。
「・・・・・介錯を。させて下さい。」
少女は。鈍く光る刀身をスラリと抜き放った。
「『羅刹』か。」青年は日本刀を見詰めて呟いた。
「はい。」
「・・・・・有難う。気持ちは有り難く頂く、栞どの。だが。始末は全て自分で付けるつもりだ。・・・見なかった事にして、この場を去ってはくれまいか。」
「・・・・お一人で。首の頚動脈を掻き切るまでには。・・・・かなりの時間を要します。多分。かなり痛くて苦しいでしょう。もし無様な姿をお晒しになる事になっては・・・・。」
「・・・・覚悟の上だ。恐れてなどいない。」
「嘘です。」
「・・・・・・・!」
「それはやせ我慢です。死が怖くない人間などおりません。」
「栞どの。」
「介錯をさせて下さい。・・・・それとも。私の剣の腕が、信用出来ませんか?」
「・・・・・・・。」
まさか。
青年は小さく笑った。
道場の門弟の誰も。剣の腕においては、このおさげ髪の少女の足元にも及ばなかったものを。
「必ず。一撃で。・・・・切り落としてみせます。」
少女の大きな濡れたような瞳が。青年を見詰めた。
「・・・・・・・・。」
あったかもしれない未来。
それを青年は少女の瞳の中に見た。
こんな時代に生まれなければ。
はるかに続いたかもしれない。自分たちの夢見た未来。
「・・・・・お願いする。」
青年は少女に向かって頭を下げた。
「はい。」
少女は。今夜、初めての笑顔を見せた。
春咲く櫻。
冬の雪。
夏の入道雲。
秋の満月。
「・・・・日本は。こんなにも美しい。」
青年は。
小さく呟いた。そして。
「・・・栞っ!!介錯をっ!!!!」
叫んだ。
「・・・・・御免っ!!!!」
青年の傍らに寄り添っていた少女が。大きな叫び声とともに。
彼女の家の剣道場に代々伝わってきた、鬼をも切り裂くと言われる神剣『羅刹』を。青年の逞しい首筋に振り下ろした。
ガゴッ!!!!
鈍い音が響くと同時に。
「・・・・・・・・。」
血飛沫(ちしぶき)が空を舞った。
月の光が赤く染まる。
傍らの櫻の大木を。
佇む少女を。
それは。
真っ赤に染め上げた。
「・・・・・・・・・。」
少女は。
『羅刹』を振り下ろした姿勢のまま。
暫く動こうとはしなかった。
柔らかな月光が少女の身体を包む。痛いような静寂の中。
やがて。
少女はゆっくりと瞳を閉じた。
「・・・・・・鬼になりたい。」
少女の桜色の唇から、囁くような声が漏れる。
「鬼になって。貴方を臆病者と罵った人間たちを、残らず喰い殺してやりたい。」
一月後(ひとつきご)。
土手の櫻の大木は。秋だというのに、満開の花を咲かせた。
それは。
その後一年間。散る事はなかったと。
その界隈(かいわい)で語り伝えられている。
−fin−
・・・・やってしまいました。切腹。作法等。ほとんど知らないのに・・・。ま。この主役もあまりヨク知らなくても不思議じゃないかもしれませんが。
もし、あからさまに可笑しい箇所がございましたら、教えてください。しかし苦情等は、勘弁して下さいね。