空気と光と友人の愛。これだけ残っていれば気を落とすことはない。
Johann Wolfgang von Goethe
「落ち込んでいるらしいな。」
自宅の居間でコタツに入ったまま、数学の問題集を睨んでいた零一朗の背後から、イヤミなほど自信たっぷりの声が聞こえた。
「・・・・どうやって入った?」
零一朗は舌打ちをした。
「気にすんな。」
大吾は大きな身体を小さく丸めて、おー寒さむと言いながら、コタツに入り込んで来た。女殺しの微笑を浮かべて、零一朗の向かいに席に腰を降ろす。
「気にしない訳ねえだろう!この不審者。」零一朗は大吾を睨みつける。
「・・・・ご機嫌ナナメだねえ。」大吾は溜め息を吐いた。
「うるせえ。」そう吐き捨てると、零一朗は数学の問題集に目を戻した。
「・・・和賀は、大したケガじゃなかったんだろ?」
「・・・・そういう問題じゃねえ。」
零一朗は大きな舌打ちをすると、問題集を大吾に投げつけた。
「わっ!危ねえな。」
大吾が慌ててそれを受け止める。
「俺は・・・。知っていた!ヤルなら徹底的にヤルべきだと。手加減なんぞすると、ロクな事にならないと、知っていたんだ!!それなのに・・・。・・・信じられねえ様な馬鹿な失敗を・・・・。」
零一朗はどうして良いのか分からないといった風に、頭を振って視線を彷徨わせた。
「・・・・・。」大吾は少しだけ問題集に視線を落とすと、それをキチンと閉じて脇に置いた。
「挙句・・・。横浜の倉庫までノコノコ出掛けて行って、和賀にトンデモナイ恥を掻かせちまった。」
零一朗は俯いて、歯を食い縛った。
「・・・・・和賀は。あれが、初めてだった訳じゃねえだろう。」
大吾は苦い顔で呟いた。
「慣れてるとか、どうとかの問題じゃねえっ!」
零一朗は血走った目で、大吾を睨んだ。
「あいつは・・・。俺の事を好きだと言っていた。当然、俺にあんな姿を見られたくは無かった筈だ。少なくとも宗方組が動いていると聞いた時点で、お前に任せるべきだったんだ。お前も、それが分かっていたからワザワザ俺たちに組を見せるカタチで動いてくれていた筈だ。それを、俺は頭に来て・・・。俺ってヤツは・・・・!」
零一朗は天を仰ぐと、コタツを平手で叩いた。
「・・・・零一朗。」
大吾は眉間に皺を寄せた。
「俺は。あの時、頭に来ていたんだ!自分が。あんな餓鬼どもに舐められた事にカッとして、俺は・・・・。和賀の気持ちなんか少しも考えなかった。遠藤も何となく、記憶を残しているみたいだし。・・・俺は、一体何をやっているんだ!?・・・ヘドが出るっ!!自分自身に。」
零一朗の噛み締めた奥歯から、ギリギリという音が漏れる。
「・・・・零一朗。誰だって間違う事はある。」
「俺の仕事は、間違っちゃいけねえんだよっ!」
零一朗のその言葉に。
「そんな事は無えっ!!」大吾は怒鳴った。そして、零一朗の目をまっすぐに見詰めた。
「・・・・・・。」零一朗が大吾の目を見返す。
「・・・そんな事は無い、零一朗。」
「・・・・・・。」
「それに。・・・あれは仕事では無かった。そうだろう?」
「・・・・・・。」
零一朗は大吾から視線を逸らせると、少しだけ目を瞬かせた。
「・・・・何時になったら俺は。・・・もっと他人に優しい男になれるんだろうな。何時まで経っても俺は・・・。自分の事ばっかりで・・・。」
零一朗は、小さな溜め息とともに呟いた。
「・・・・・。」
大吾は悪戯っぽく笑うと、片目を瞑って見せた。
「・・・・皆、そんなモンだぜ?どう言ったって、やっぱり自分が一番可愛いからな。この人間の出来た俺でさえ、最初に考えるのはやっぱり自分の事だ。」
「・・・・馬鹿野郎。」零一朗は小さく笑った。
「・・・そうだ。お前、小林から手紙とか来るか?」
大吾はいきなり話題を変えた。
「小林?・・・そういえば、アマリ来ないな。」
零一朗は首を傾げた。
「・・・やっぱりな。俺にはショッチュウ来るぜ。殆ど三日と開きゃしねえ・・。」
「・・・・・そんなに、仲良かったのか?」零一朗は訝しげに眉を寄せた。
「いいや。」大吾はきっぱりと断言した。
「・・・・・。」
「・・・あの野郎は、お前の事しか書いてこない。風間は元気か?とか。何か辛い思いをしていないのか、とか。ケガしてないか、とか。毎回毎回、まあシツコイったら無いぜ。」
「・・・・・。」
「お前に出すと、シツコイと嫌がられて嫌われると判ってやがるんだよ。」
大吾は笑った。
「・・・・あの馬鹿。」
零一朗は呆然と目を大きく見開いた。それから。
首を振って小さく笑った。
「なあ。零一朗。・・・・ゲーテの詩にもあるだろう?空気と光と。それから・・・・。」
大吾はニヤリと笑った。
「・・・・・。」
零一朗は嫌そうに眉間に皺を寄せた。何かクサイ事を言う気なのか、大吾。
「・・・言わねえから、安心しろ。」大吾は零一朗の考えを読んだように、笑った。
「・・・だが。ありゃ、案外本当かもな。」
「あ・・・・?」馬鹿野郎といった風に、零一朗は顔を歪めた。だが。
「・・・・和賀の事だぜ。」
大吾は急に生真面目な顔をして、零一朗を見た。
「・・・・・。」
零一朗も真面目な顔で、大吾を見た。
「だってお前ら。『女ともだち』なんだろ。」
大吾がそのオトコマエの顔に、惚れ惚れするような笑顔を浮かべる。
「・・・・・・。」零一朗は。大吾を見詰めた。
「・・・・・・。」大吾は。零一朗の視線を、優しげな眼差しで受け止めた。
そして。
「・・・・もう。帰りやがれ。」
零一朗が、苦虫を噛み潰したような顔で大吾を睨んだ。
「茶のイッパイも出ねえのか。」大吾が回りをキョロキョロ見回す。
「出ない。帰れ。」だが零一朗は、ニベも無い。
「やれやれ。」
大吾は笑いながら、立ち上がった。そして玄関に向かって歩き始めてから。少しだけ立ち止まり。
「・・・・だが、正直言ってな。妬けるぜ、零一朗。」
振り返らずに言葉を出した。
「・・・?」
零一朗が大吾の後姿を見上げる。
「・・・お前の。顔以外の良いトコロなんて。・・・解るのは、親友の俺ぐらいだろうと思っていたのにな。」
「・・・・・。」
「・・・小林の間抜けが。間抜けの分際でそれに気付きやがって・・・。次はあの女どもだ。それから、和賀・・・。これからも。多分どんどんお前のその綺麗な顔以外を好きになる奴らが、現れる。」
「・・・・・大吾?」
大吾はゆっくり振り返ると、小さな溜め息を吐いて微笑んだ。
「女ともだち、か・・・。しかし。お前を『女ともだち』呼ばわりするような女どもが現れるとは、流石の俺も。想像もしなかったぜ。」
「・・・そりゃ、俺も同じだ。」
間髪入れずに、零一朗も同意する。
「・・・・・ふ。」
大吾は豪快に笑った。そして。
「だが。お前の一番の親友は、永遠に俺だ。それだけは絶対に譲らねえぞ。例え、女ともだちでもな。」
「・・・馬鹿。真面目な顔して何言ってやがる。」
「ヤキモチは真面目に焼く主義だ。」
「馬鹿。」
「・・・・・。」
大吾はもう一度笑った。
「・・・それはそうと。お前、問題は最後までちゃんと読めよ。」
「・・・何だと?」
「答え。間違っているぞ。」
大吾はコタツの上の数学の問題集を指した。
「・・・・・。」うろたえた零一朗が、慌てて問題集を開く。
「質問と答えが合ってねえんだ。もう少し落ち着いて問題に取り組めば、偏差値も上がるんじゃねえのか?」
「大きなお世話だ。とっとと出て行け!」
零一朗は怒鳴った。短気な零一朗は本気で怒っていた。
「・・・・・。」
大吾は三度。豪快に笑ってみせると、今度こそ居間を出て行った。
「・・・・・。」
零一朗は数学の問題集を閉じた。
そして両手を後頭部で組むと、そのまま寝転んだ。
空気と光と・・・・。――――
「・・・・・。」
大吾の言葉を思い出していた。
そして。
その美貌に。
多分。誰が見たとしても。
間違いなく溜め息を漏らす美しい微笑を浮かべた。そして。
「・・・確かに。お前と居ると、俺は気を落とさんな。」
そう言って。瞳を閉じた。
彼にとっては久し振りの。穏やかな表情を浮かべて。
−fin−
「女ともだち」の第三話の付録です。本編にくっつけても良かったのですが。時間が経ってしまったので、トライアルに入れました。そのうち、場所を移し換えるかも。