雨の物語

 

「・・・・・せめて。雨の日に、あのヒトが濡れないように。」

 その女は。

 涙に濡れた瞳でそう言って、男を見た。

 

 

 

 

「・・・・・いらっしゃい。」

 時刻はまだ午後5時半を回ったトコロだった。

「いいかな・・・?」

 開店時間はまだだったが。

 客の黒いスーツと真っ黒いネクタイを目にして、バーテンは小さく微笑んだ。

「構いませんよ。どうぞ。」

「・・・・・・・・。」

 示された席につき、渡された熱いオシボリで顔を拭いて、男は小さく溜め息を吐いた。

「・・・・2、3年前は、ここに良く来ていたんだ。覚えてないだろうが。」

「・・・・・そうですか。」

 バーテンは小さな声でそう言った。

「・・・その当事。付き合っていたオンナが、妙にここが気に入っていて。デートの最後は必ずここに来た。」

「有難うございます。お飲み物は?」

「スコッチを。ダブルで。」

「・・・・はい。」

 時刻には相応しくなかったが。客の目の色には相応しい酒だった。

「・・・・・・・・・・。」

 男は何も口にしないで、酒だけを立て続けに3杯呷った。

「・・・・・何か召し上がりますか?」

「いや・・・。今日は・・・。葬式でな・・・・。」

 少し酔って来たらしい客は、座った目でバーテンを見た。

「・・・・覚えてないだろうが。・・・・ここに一緒に来ていた女の葬式だった。」

「・・・・・・・・。」

「まだ、30歳にもなっていなかった・・・・。交通事故で。あっけなく逝った。」

「・・・・・・それは、お気の毒に。」

「・・・・・・3年前に、俺が捨てた女だ。」

「・・・・・・・・・。」

「ここに来ていた頃。いずれは結婚しようと思っていた。ごく普通のOLで。ごく普通のどこにでも居る女だった。」

「・・・・・・・・・。」

「・・・・俺が。たまたま。常務の一人娘に見初められてな。」

「・・・・・・・・・。」

「天秤に掛けて、そのオンナを捨てた。」

「・・・・・・男の方には、そういう人生もあります。その方と結婚されて、お幸せだったのでしょう?」

「ああ。裕美は・・・・。妻の名だが。良い女だ。上司の娘だと居丈高になることも無い。育ちが良いから、素直で優しい可愛い女だ。裕美を妻にしたことを後悔なんかこれっぽっちもしていない。」

「・・・・・・・・・・。」

「・・・・彼女とは、縁が無かったんだ。タイミングが悪かったんだ。」

「・・・・そう思いますよ。タイミングということは大切ですからね。」

「・・・・・・・・・・。」

 客は更に杯を重ねた。

 いつの間にか。時刻は午後7時を回っていた。

 地下にあるこの店に、どやどやと複数の人間が降りてくる気配がする。

「・・・・いや、マスター。降って来たよ。いきなりの土砂降りだ、参っちゃったね。」

 常連客だった。

 しばらくはバーテンは、常連相手におしぼりや酒を造って、最初に現れた客のことはホッタラカシになっていた。

「・・・・・いくら。」

 酔った目つきで、客は静かに立ち上がった。

「・・・・・・・・・釣りは要らない。」

 一万円札を投げ出して、バーを去ろうとする客に、バーテンは声を掛けた。

「どうやら降って来たようです。傘をお持ちですか?」

 客が訝しげに振り返った。

「いや。」

「では。どうか、この傘をお持ち下さい。」

 バーテンが差し出した傘は。表面は真っ黒で、開くと中に星空が見える凝った造りの傘だった。

「・・・・・・・・・・・!」

 3年前に。客の恋人が愛用していた傘だった。

「・・・・・雨の降る日に貴方が傘を持っていなかったなら。濡れないように渡してくれと。」

 バーテンは小さく頭を下げた。

 目を見開いた客の目から。涙が零れ落ちるのを見ないようにした。

「・・・・・・・・・・・・・・。」

 バーの入り口の扉が鳴る。

 バーテンが顔を上げた時には、既にそれは閉じられていた。

「・・・・・・・・・・・・・。」

 

 

 ・・・・・せめて。雨の日に、あのヒトが濡れないように。――――

 いかにも結婚式に出席した帰りといったイデタチの。

 かつて常連だった女性客が、傘を差し出して自分を見た眼差しを。

 バーテンは、少しだけ思い出した。

 

−fin−

 イルカの名曲とは何の関係もありません(笑)。何となく思いつきました。