霧の夜話 U

 

「ママー!!ママー!!お兄ちゃんが酷いの、綾香のアイスクリームを盗ったのよ。」

「何だよ、どうせ綾香は食べきれないじゃないか!代わりに食べてやったんだよ!!」

「こらこら、お前達。今日はママのお誕生日なんだから、ケンカするのはよしなさい。」

 どこででも見掛ける一家団欒の光景だった。少しワガママでヤンチャ盛りの子供たちを宥める優しい父親。そして。綺麗な母親。

「そうよ、パパ。今日は私の誕生日なんだから、子供たちの世話は任せたわ。」

 母親は楽しそうにデザートのケーキを食べながら、夫の肩を叩いた。

 港区のホテルのレストラン。バイキング形式で和洋中華何でも食べられ、肩ひじを張らずに食事の出来るこの店は、いつも行列が出来るほどの人気店だ。

 夫が自分の誕生日のお祝いに、わざわざ連れてきてくれた店だが、子供は相変わらず手間が掛かるし、ゆったりと贅沢な気分に浸れるわけもない。だが、子育てにも協力的で、いつも優しい夫の気遣いが嬉しくて、彼女は今日は一日中笑っていた。

「ママ、いつもご苦労さま。」夫が笑顔で、彼女の目の前のグラスにワインを注ぐ。

「ありがとう。でも今度はコブ抜きで来たいわね。」久し振りのアルコールに彼女は上機嫌だった。

「そうだな。」

 二人は子供に聞こえないように囁きあって、笑いあう。

 幸福。

 平凡かもしれないが。これが、何にも代え難いモノだ、と彼女は窓の外に見える美しく整えられたホテルの庭を見た。

 ガラス窓に、少し疲れた中年のオンナの姿が映っている。多少くたびれてはいるが、若い頃から美人と言われていた顔立ちは、その気になれば、まだまだイケルわと彼女は一人でほくそえむ。そして。

「あ・・・・。」

 何故だかは分からない。ガラスに映る自分の姿を見ているうちに、彼女の中で、幼い頃の誕生日の記憶がふいに甦った。すっかり忘れ果てていたその記憶。

「どうしたの?」

 急に声を上げた彼女を、夫が不思議そうに見ている。

「何だか、子供の頃のコトを思い出しちゃった。ほら、私。ハヤクに母を亡くしたでしょう?だから幾つだったのかしら。本当に小さな頃よ。誕生日プレゼントにお母さんを買ってきてといって、父を困らせたことがあったわ。すっかり忘れていた。急に思い出したわ。」

「・・・・お義父(とう)さん。お気の毒に。困られただろう。」

「そう・・・。父と、カーカーが・・・・。ほら、私の親代わりだった父の同僚よ。そう、確か、まだ名前がちゃんと呼べなかったから、カーカーって呼んでたわ。父のコトはカーカーが呼ぶ名前からレーレーって・・・。」

「ふうん、そうだったんだ。あの、お義父(とう)さんを、レーレーねえ。

 夫は何だか可笑しそうに、妻を見た。妻の父親はどちらかと言えば、強面だったから。

「やだ。すっかり忘れていたのに、どうしてかしら。急に思い出したわ。その時、レーレーはお人形を買ってきて、カーカーはエプロンを・・・。私は怒って・・・・・。子供心にも誤魔化されたのが悔しくて、家を飛び出して、どっかの家のガレージに入り込んで隠れていたの。」

「そりゃ、心配されただろう。」

「ええ。二人とも私を見つけた時は、真っ青な顔で・・・。カナリお尻をぶたれたわ。」

 そう言ってイタズラっぽく笑う妻の頬を。夫は優しく撫でてやった。

「・・・・すっかり忘れていたのに、何で急に思い出したのかしら・・・?」

「・・・。」

 少し不思議そうに小首を傾げる妻を、夫は微笑んで見た。

 

 

「ママー。パパー。お兄ちゃんがあ・・・!!」

「うるさいぞ。綾香!!」

「こらこら。」

 レストランを出て、タクシー乗り場に向かう間も、悪戯盛りの子供達は少しも大人しくしていない。

 子供達を追い掛け回している夫を見ながら、彼女は少しぼんやりしていた。

「やれやれ。オシッコだそうだ。ちょっと二人を連れて行って来る。」夫が苦笑しながら、妻に向かって言う。

「ええ。ごめんなさい。久し振りのワインが少し回ったみたい。待ってて良いかしら。」

「ああ。大丈夫か?」

「平気。少し外で風に当たっているわ。」

 彼女はそう言うと、先ほど見ていた庭園の方に足を向けた。

(・・・・何故、急に。あんな昔のコトを思い出したのかしら。)

 彼女は庭の隅にあるベンチに腰を下ろして、ぼんやり考えた。

(あの時は、確か・・・・・・。)

 何だか、大事なコトを忘れているような気がする。

『お前は、必ず幸福になる。俺たちは、知っているよ。』

 現在(いま)は、もう居ない父と、父親以上に自分を可愛がってくれた父の職場の同僚が、まだ学生だった自分に向かって良く言っていた。確か、父が亡くなるその日の朝も。仕事に出掛ける自分を見送りながら、父はそう言ったのではなかっただろうか。

『知っているんだ。』

 モトモト美しいヒトだったが。その朝の笑顔は、本当に染み入るように美しかった。彼女は、その時の父親の笑顔をぼんやりと思い出していた。その時。

「・・・・・?霧・・・?」

 気付くと。

 アタリはいつの間にか、霧に閉ざされていた。

「やだ・・・。一体、何で・・・・?」

 彼女は、慌てて立ち上がる。夫や子供が心配しているだろう。10センチ先も見えない。

「あ・・・?」

 子供の泣き声が聞こえる。小さな女の子だ。

「綾香・・・?」

 自分を見付けられなくて、泣いているような気がした。慌てて、声のする方に足を進める。

「ママー。ママー。」

 やっぱり、綾香だ。足を速めた。すると、ふいに。

「・・・・・え・・・?」

 霧が晴れて、目の前にどこかの倉庫のような光景が広がった。

「ママ・・・?」

 その倉庫の隅っこで。小さな少女が泣き濡れた瞳を上げて、自分を見ていた。綾香ではない。知らない少女。いや。

「・・・・。」

 彼女は呆然と立ち竦んだ。

 彼女は、ハッキリと思い出した。

 あの時。

 あの幼かった自分。母親が欲しいと父親たちを困らせていた自分の。

 ガレージの隅で泣いていた、その自分の前に。

「ママなの?」

「・・・。」

 現れたのは。今夜見た、あのガラスに映っていた中年の女性。

 自分は、その(ひと)を、てっきり誕生日プレゼントの母親だと思い込んで・・・。

「ママ?」

 少女が両手を広げて、駆け寄ってくる。

「ママ。ママ。私のママ?」

 少女は幼すぎて呂律の回らない可愛い声でそう言いながら、彼女の腰のアタリにしがみ付いた。

 ああ。そうだ。そうだった。

 幼稚園の友達たちを迎えに来る、オシロイの匂いのする優しいお母さんたちが羨ましくて。

「・・・・。」

 彼女は、屈むと少女を抱き締めた。

「ママー。」少女のミルクの香り。柔らかな肌。綺麗なフリルのついたワンピースは、父とカーカーが、選んでくれたモノだった。

「・・・・好い子。良い子ね。」

 確かそうだった。そう言って、その綺麗なオンナの人が自分を抱き締めてくれた。そして。

「・・・居たかっ!?」

「こっちには、居ないぞ!!」

 その時。

 切羽詰ったような、複数の若い男の声が聞こえてきた。だんだん近付いてくる。見なくても誰だか分かった。二人の男。良く知っている。

 次の瞬間にはガレージのドアが乱暴に開かれて、少女の名前を二人が呼ぶ。

「あっ。レーレーとカーカーだ。」

 少女が振り返る。

「・・・・。」

 この頃。

 二人は、まだ自分より若かったのではないだろうか。

 彼女は、そんなコトを思いながらゆっくり顔を上げた。

「・・・・・。」

 少女の名前を呼びながら、蒼白な顔で彼女を抱き締める男。そして。傍らで額の汗を拭う男。

「レーレー。カーカー。」

 彼女は震える声で呟いた。

「・・・・?」

「?」

 少女を抱いていた男が、怪訝そうに彼女を見た。

 懐かしい。その顔。

 彼女の記憶に残る顔よりも、ハルカに若く、美しい。

「誰だ・・・?」

 そして彼ら親子を護るように傍らに立つ、長身の男。

 記憶に残る童顔そのままの。

「・・・・・・あたし。・・・あたし、幸せになったわ・・・・。」

 彼女は振り絞るように、声を出した。

「?」

「・・・?」

 二人は不思議そうに自分を見ている。

「あたしっ・・・!!!」

 彼女の周りを、再び濃厚な白い霧が包み始めた。

「あたし!!!優しい夫と、可愛い二人の子供が居るのっ!!幸せよっ!!!どうしようもなく幸せっ!!!」

 霧は視界を覆い隠そうとしていた。

 男二人は、自分を見ている。

「夫は公務員で!!ハンサムで凄く優しいのっ!!子供はヤンチャだけど可愛いわ。凄く元気!!男の子と女の子!!お兄ちゃんは、残念ながら、お父さんには似てないわっ!!!」

 彼女は大声で叫んだ。叫び続けた。

 ついに、一度も言えなかった言葉。あんな風に、突然の別れが待っているとは思ってもいなかったから。嫁に行くときにでも言えば良いと、心でどれホド思っていても、ついに直接、口にすることは無かった。

「大好きよっ!!死ぬホド、愛しているわっ!!!!」

「ママッ!!!」

 背後から、ふいに強い力で抱き締められて、彼女は我に返った。

「ママ!!どうしたっ!?」

 夫が蒼い顔で、自分を見詰めている。

「・・・・・レーレーとカーカーが・・・・。」

「ママ・・・?」

 彼女は泣き濡れた瞳で、夫の顔を見詰めた。

「・・・・・父は、言っていた。私が幸せになるコトを、知っている(・・・・・)と。カーカーも・・・。」

「ママ・・・。」

「・・・・私の声は・・・・。届いたわよね・・・・。父は・・・・。」

 きっと、それを確信したまま。安心して、()った。

「・・・!!!!」

 両眼から、涙が溢れた。溢れても溢れても、それは止まらない。

「お父さん・・・・・。」

 泣き続ける彼女を、夫は強い力で抱き締めてくれた。

「まま。」

「ママ、泣かないで。」

 二人のやんちゃな天使が、彼女のスカートの裾に纏わり付き、心配そうに覗き込む。大切な宝物。得がたい家族。

「嬉しくて。泣いているの。」

 彼女は泣きながら笑った。

「・・・・。」

「最高の。誕生日プレゼントをもらったの。」

 二度と会えないハズのヒトたちと。

「ママ。」

「ママー。」

「・・・・。」

 あの頃。

 母親は確かに居なかったけれども。

 自分は幸せだった。

 二人は溢れるほどの愛情を自分にかけて育ててくれた。

「・・・・あなた。私は本当に幸せな、少女時代を過ごしたの。」

 彼女は夢見るように呟いた。

 抱き締めてくれる大きな手。優しい声。

「・・・・。そうだろうね。きっと、そうだったと思うよ。」

 夫が彼女を抱き締めたまま、背中を優しく撫でる。

「ありがとう。・・・私と結婚してくれて。」彼女は小さく呟いた。

「それは、ボクのセリフだよ。有難う。ボクなんかと結婚してくれて。君は綺麗で、強力なライバルもたくさん居た。ボクを選んでくれるなんて思ってもいなかったよ。」

「・・・・。」

 彼女は夫の背中に回した腕に力を込めた。

「もう一人。子供をつくる?」

「馬鹿・・・。」

 楽しそうな夫の声に、彼女は泣き笑いを浮かべた。そして。

 

 

「・・・少しだけ・・・。」

「ママ・・・?」

「今夜は少しだけ・・・・。」

 少女に戻って・・・・・・。

 

 

 お前が幸せになることを。俺たちは知っているよ。

 

 

 

 イマはもう居ない。優しいヒト達のことを。思い出させて欲しい。

「・・・。」

 彼女は、夫の優しい腕に顔を埋めた。

−fin−

2004.02.02

  一体、誰かしら?ふふふ。ノーコメント(笑)。