可愛い(ひと) 

「・・・。」
 久能(くのう)は、会社の自分の席でノートパソコンに向かいながら首を捻った。
 現在の時刻は、22時を回っている。それなのに、久能はまだ会社で仕事をしている。他の社員はもう誰も残っては居ない。
(・・・俺のキャラじゃ無え。)
 入社してからコッチ。残業が30時間を越えたことのないという不況の時代の社員のカガミである久能は、首を傾げて考え込んだ。
 何だか最近、異様に忙しい。いや。課が全体で忙しいのなら、まだ納得がいくのだが。どうやら久能だけ(・・)が忙しいみたいなのである。
 理由は簡単。圧倒的に仕事の量が増えたのである。久能の。
 入社して何年も経つが、久能は大きなプロジェクトのリーダークラスを任せられたコトは無い。いや実は。ヤりたいと思ったコトもない。忙しそうだし、責任も重そうだし、部下のコトまで気にしなくちゃならないし。
 良いことなんて一つも無いじゃないか。
 そう久能は、本気で思っていた。
 だから。同僚や後輩たちが、大きなプロジェクトを任されたと言っては目を輝かせているのを、何て奇特なヤツらだ、と感心して見ていた。勿論。出世は出来ないタイプではあるだろうが、そんなコトは久能の勝手というものだろう。
 久能は少なくとも、言われた仕事は誰よりもキッチリやってきた。自分で言うのも何だが、仕事のスピードは速い方だし、自分の任された仕事範囲で矛盾点に気付けば、会議等でキチンと指摘し、他部門との折衝も行った。大抵の場合は部下も付いて居らず一匹オオカミの状態であったが、久能に任せておけばカナリ難しい案件でも何とかしてくれるというのが、一般的な久能の評価だったし、久能はそれに満足していた。
 それが。
(・・・あの野郎のせい(・・)だ。)
 久能は苦々しく、コトの発端となった一ヶ月ほど前の朝のミーティングを思い出していた。


『久能さんに、やってもらいましょう。』
 いきなりそう言ったのは、久能とは因縁浅からぬ後輩であり上司でもある柏崎(かしわざき)という新任の課長補佐であった。
 新規のプロジェクトを立ち上げることになり、一体誰に任せるかというハナシをしている最中であった。
『久能・・・?』
 全員が一斉に久能を見た。
『・・・え・・・?』
 久能は、手の先でクルクル回して遊んでいたペンを机にポトリと落した。
『・・・しかし。久能は、経験も無いし・・・。』しどろもどろに、言葉を継ぐ課長を、撥ね付けるように。
『久能さんホドもベテランが、まだ未経験だとすれば、それは単に怠慢でしょう。』
 柏崎はハッキリと言うと、真っ直ぐに久能を見た。
『久能さん。お願いします。給料分は働いてもらいますよ。詳細は後ほど。』
『・・・。』
 それで、決まってしまった。
 久能が。忙しそうで、責任も重そうで、部下のコトまで気にしなくちゃならない。良いことなんて一つも無い仕事をすることが。


「・・・ちくしょ・・・。」
 久能は乱暴にキーボードを叩きながら、脳裏に浮かんできた滅多にお目に掛かれないような男前面(おとこまえヅラ)に向かって、悪態をついた。ほんの数年前は可愛いと言っても良かったその顔は、現在は渋いとかカッコイイとか言われる類のモノになっていた。いや顔だけではなく、仕事においても。彼の地方支社であげた実績は、どこを突付いても非の打ち所が無かった。鳴り物入りの凱旋で、彼は本社に戻って来たのだ。誰もが憧れる、一級品のオトコ。しかも。そうしたことをを鼻に掛ける様子もマッタク無い。腰は常に低く、絵に描いたような好人物。久能以外には。
 当然、女性社員には、キャーキャーと騒がれ、男性社員には絶大な信頼を寄せられている。
「・・・。」あいつの本性も知らないで、と久能は舌打ちをした。
 久能にだけは。
 柏崎は、他の誰にも見せない顔を見せた。
 歓迎会を兼ねた花見の席で、『泣かせてやる。』と宣言されたのだ。
 柏崎とは、彼が新人の時に仕事上のコトで泣かせたコトがあるから、その真意は多分復讐なのだろう。随分執念深いとは思ったが、だから、いずれ何らかのアクションはあるだろうと思ってはいた。久能は、こう来たか。という気分だった。
 だが。プロジェクトを失敗させて泣かせるのが目的かもしれないと思えば、久能も穏やかでは無い。他人とは張り合う箇所が違うらしく、一見そうは見えないらしいが、実は負けず嫌いである久能家の、先祖代々の血が騒ぐ。
(誰が、泣くか。こんなコトくらいで。)
 リーダーの経験は無いが、久能とてベテランである。手順も遣り方もほぼ分っている。勿論、他人がやるのを補佐するのと自分がやるのでは、雲泥の差だとはいえ、久能はとても始めてとは思えない手際で、順調にプロジェクトを立ち上げた。
 課一番の変わり者と呼ばれる男が、リーダーだということで、メンバーは最初不安を感じていたようだったが、一月たった今では、そうしたことを考えたことも忘れているに違いない。それだけの手際で、コトを進めてきた自負はある。
 だが。その代償が、この連日の残業であった。
「・・・。」
 一匹オオカミだった頃のクセが抜けず、久能は面倒なコトは他人に説明して処理方法を指示し、更に最後にはチェックしてという作業が煩わしく、全てを自分で抱え込む傾向があった。
「・・・柄じゃ無えよなあ・・・。信じられねえ。」
 久能は低い声で独り言を呟いた。と。
「・・・嫌がっていた割には、随分頑張りますね。」
「ぎゃっ!!!」
 誰も居ないと思っていただけに、突然話し掛けられて、久能は無様な悲鳴を漏らした。
「な、な、な・・・!!!」
「どうしたんですか?私ですよ。久能さん。」
 全ての元凶。憎っくき男前(ヅラ)が、久能を見てにっこりと微笑んだ。
「課長補佐。今日は、出先から直帰だったんじゃ・・・?」
 久能は思わず金切り声を上げて、その顔をヒッカキたい衝動を抑えて、冷静に応えた。
「・・・そのつもりだったんですが。久能さんが、まだ仕事しているかもしれないと思って、帰って来たんですよ。」
 殆んど理由になっていない。
 久能は首を傾げた。
 柏崎は微笑んで、右手に持ったモノを示した。
「土産に寿司を握ってもらったんですが、食べま・・・。」
 ぐうううううううううううう。
 柏崎が。食べますか?。と言い終わる前に、久能の腹の虫が返事を返した。


「夕食も食べてないんですか?そのうち倒れますよ。」
 柏崎は日本茶を久能に煎れてやりながら、呆れたように言った。
「スグに帰るつもりだったので。」久能は遠慮なく寿司に手を伸ばしながら、小さな声で言った。
「・・・その丁寧語。いい加減に止めてくれませんか。背中が痒くなります。」柏崎は溜め息とともに久能を見る。
「上司ですから。」
「・・・普段は仕様が無いですが。今は、二人だけじゃないですか。」
 そう言う柏崎を久能は睨みあげるように。
「時と場合で言い分けるなんて、私には出来ませんので。」
 そう言った。
「・・・。」
 柏崎は、溜め息をついて首を振った。
「茶は()れさせても、平気なくせに。」久能に聞こえないくらいの声で、呟く。
「・・・?」
 寿司をほうばりながら、久能が怪訝そうに柏崎を見た。
「良いですよ。全部食べて・・・。って。高いネタから遠慮なくいってるみたいですね。」
 柏崎は久能の前に湯呑みを置きながら、苦笑した。
「・・・。」
 久能は柏崎の言葉に、拗ねているのか口の中に寿司がイッパイ入っているからなのか分らないような膨れっ面で、ジロリと睨んだ。
 柏崎は溜め息を一つ吐くと、自分用の湯呑みを手に椅子に腰掛けた。
「・・・一つだけ。上司として言いますがね。貴方は一人で仕事を抱え込み過ぎです。何のためのチームですか。」
「・・・。」
「どうせ、他人に頼むのは面倒くさいとか思っているんでしょう?・・・本当にソノウチ倒れますよ。」
「・・・。」久能は何も言わない。
「都合が悪くなると、だんまりですか?これからは、そうはいきませんよ。何たってプロジェクトリーダーなんですから。喋りもガンガン鍛えますからね。あなたは、好きなコトしかしなさ過ぎです。サークル活動している訳じゃ無いんですから。」
 久能はサスガにムッとしたように、柏崎を見た。
「・・・やることは。やってきたつもりですが。」
「その年齢(とし)で、始めてプロジェクトを持ったのに?仕事を舐めないで下さい。」
 久能は小さく舌打ちをすると、声を荒げた。
「やりたい奴はイッパイいるんだから、そいつらにやらせりゃ良いじゃねえか。」
 柏崎は、ニヤリと笑った。
「・・・久能さんらしくなりましたね。」
「いや・・・。つい。失礼しました。」
 久能は慌てて、視線を逸らせて口篭った。
「・・・。」
「・・・。」
 二人は暫し、黙り込んだ。黙々と寿司を食べる。やがて。
「・・・昔。怒鳴ったこと。私は、悪いとは思ってません。」久能が小さく呟いた。
「分ってます。」柏崎は、微笑んだ。久能は怪訝そうに、柏崎を見た。
「・・・貴方は変わりませんね。」
 柏崎はもう一度、微笑んだ。女性であったなら、腰砕けになるであろう魅力的な笑みが、その美しい顔を彩る。
 久能は。柏崎の真意を図ろうでもするように、暫らく彼の顔を見詰めていたが。
「寿司。ごちそうさまでした。」
 諦めたようにそう言うと、立ち上がってノートパソコンの方に戻って行った。
「・・・。」
 柏崎は、もう一度溜め息を吐いて、久能の食事の後始末を始めた。と。
「この間の花見の時・・・。」
 久能は柏崎の方に少し振り向いて、言った。
「何ですか?」
 柏崎も手を止めると、まっすぐに久能を見た。
「・・・。」
「・・・。」
「・・・いや。何でもありません。」
「・・・そうですか。」柏崎は微笑んだ。
 ひとしきり、机の上を片付けてから。
「もう、明日にしたらどうですか?」柏崎が、腕時計を見ながら言った。
「休日は、休みたいんです。」久能は手を止めずに呟いた。
「彼女に、怒られるとか・・・?」柏崎が、じっと久能の背中を見る。
「・・・あまり放っておくと・・・。ワガママな奴だから。」
「・・・。」
 その言葉に。
 柏崎の右眉が、微かに持ち上がった。
「・・・付き合っていらっしゃる方が、居たんですね。」
「・・・この年齢ですからね。そりゃ一人や二人。」
「へえ。ご結婚はなさらないんですか?」
「まあ・・・。ぼちぼち、とは思っていますが・・・。」
「じゃあ。頑張らないといけませんね。もしかすると、結婚式の時の肩書きは主任かもしれませんよ。」
「・・・。」
 それはケッコウ良いかも。久能は少し手を止めると、もう2年になる付き合いの女性の顔を思い浮かべた。ちょっぴり見栄っ張りの傾向はあった。
「社内ですか?」
「・・・はあ、総務です。・・・あの。ナイショですよ。」久能は少し照れたように、柏崎を見た。
「分ってますよ。」
 柏崎はそう言うと。男でも惚れ惚れするような笑顔を見せた。




「・・・信じられない。」
 久能は小さく呟いた。
 時刻は22時。久能はやっぱり会社で、ノートパソコンに向かっていた。
「信じられない。」
 久能はもう一度呟くと、両手で顔を覆った。
「・・・。」
 結婚まで考えていた彼女に。突然、昼休みに振られた。
 まさに。晴天の霹靂(へきれき)だった。
「・・・。」
 若い頃のような、激しい恋ではなかった。
 だが。穏やかで、慈しむような。長い時間を共に生きていくために育んで来た、少なくとも久能はそのつもりだった愛情だった。
「・・・。」
 この年齢での失恋は、案外傷が深い。相手を生涯の伴侶と想定しているし、新しい恋を始めるのが面倒に感じるほどには、歳を取っているからだ。
『・・・ごめんなさい。他に好きなヒトが出来たの。』
 二股を掛けられていたらしい。といっても、彼女の言葉を信じるならば、そのオトコとは、付き合いで参加した合コンでつい最近知り合ったらしかったが。
 凄く良いヒトで、急激に惹かれてしまった。というそのオトコは、大手の都市銀行に勤めているエリートだった。惹かれたのは、そこだろう。と少し見栄っ張りなトコロのあったモト恋人を思った。
 ショックだった。
 彼女とは、このまま家庭を築くだろうと思っていただけに、物凄くショックだった。
 このトコロ。少しもカマってくれなかった。
 それも彼女に言い分だった。
 結婚式での肩書きなぞに、欲を出したばっかりに。
「・・・。」
 久能は目の辺りが熱くなるのを感じた。
「ちくしょう!!それもこれも、全部、あのくそ野郎のせいだ!!!」
 久能は叫んだ。
「くそ野郎って、誰です?」
 突然、背後から声を掛けられて、久能は椅子の上で固まった。
「・・・っ!!」
 小さな舌打ちとともに、久能は声の主を振り返った。
「・・・残業中の俺に、忍び寄って声を掛けるのが趣味なんですか?」
 久能は額に青筋を浮かべながら、少し大きな声を出した。だが、相手はそんなコトにはマッタク頓着せず。
「忍び寄るなんて人聞きの悪い。・・・訊きましたよ、久能さん。」ニヤニヤ笑いながら、久能に近付いて来た。
「何を?」
 柏崎は。こんな場合で無ければ、さすがの久能も見惚れたかもしれない完璧な笑顔を見せた。
「彼女。心変わりしたらしいじゃないですか。」
「なっ!?」
 久能が息を呑む。
 自分だって昼休みに聞いたばかりだというのに。何で柏崎が知っているのか。久能は柏崎に探るような視線を充てた。
「彼女の新しい恋人。実は俺の学生時代の友人なんですよ。」
 柏崎はあっけらかんと、そう言った。
「なっ!?な、な・・・・?」
 久能が椅子に腰を降ろしたまま。呆然と柏崎を見上げる。
「女性には手が早いんですよね。長続きはしませんけど。」
「・・・!!!」
 久能は思わず椅子から立ち上がった。
「ま。選んだのは彼女ですし。子供じゃありませんし。俺も。一応、そのムネ忠告はしたんですが。・・・実のトコロ。彼を彼女に、けしかけたのは、俺なもので。」
「!!!」
 久能は、今度こそ言葉を失った。
 目の前で、ニコニコと微笑んでいる男前を、信じられない思いで見詰める。
「・・・な、何でそんな真似を・・・!?」
 辛うじて搾り出した声は、酷く掠れていた。
「・・・。」
 柏崎は微笑んだ。微笑んで。だが。すぐに真剣な眼差しを久能に充てた。
「お前!!まさか。マサカ、この間の花見で俺を泣かせるとかどうとか・・・。マサカそのために、こんな手の込んだコトを!?」
 久能が震える声で、言った。
「・・・泣かせる?おや?泣いていたんですか?彼女にフラレタから?」
 柏崎は、首を傾げて久能を見た。唇に、ヒトの悪い笑みが浮かんでいる。
「!!!」
「・・・じゃあ。間接的ではありますが。俺が泣かせたコトになりますかね。」柏崎が、そう言い終わる前に。
「これは!!!花粉症だっ!!!!」
 久能は怒鳴った。
 両手で、鼻や目の周りをゴシゴシと擦る。
「おや?失礼。そうですよね。失恋くらいじゃ、泣かないですよね。」
 柏崎の笑みが深くなる。
「・・・!!!」久能は唇を噛んだ。
「お・・・。俺を、泣かせようと・・・!?こんな真似を?」
 赤くなった目で。久能は柏崎を見た。
「さて。どうでしょう。そんなヒマそうに見えますか?」柏崎はふいに視線を外すと、そう言った。
「いや・・・。」
 久能は正直に呟いた。柏崎が忙しいのは、同じ課の人間として、良く知っている。確かにそんな嫌がらせに時間を割くほどヒマだとはとても思えない。
「ヒマじゃありませんよ。勿論。・・・しかし。」
 柏崎は笑みを消すと、久能を真っ直ぐに見た。
「・・・俺は。久能さんと彼女を別れさせたかった。」
 しっかりとした口調で、そう言った。
「な・・・!?何故だっ!!お前には、関係ないコトだろう!!!」
 久能が思わず喚く。柏崎は少しだけ笑った。笑いながら。
「貴方を。誰にも渡す気はないからです。」
 そう言った。
「ど・・・。どーゆー意味だ?」
 久能は呆然と柏崎を見る。
「・・・。」
 柏崎も、久能を見返した。
 7年前。
 久能が、自分の教育係に決まったと知った時。
 柏崎はすっかり浮き足だってしまった。二年先輩の。初めて会った時から気になっていた、睫毛が長くて綺麗な瞳をした久能に、マンツーマンで仕事を教えてもらえると、天にも昇る気持ちになってしまったのだ。
 その綺麗な瞳が。自分だけを映しているのだと思うと、叱られるコトすら嬉しくて。
 結末は、最悪だったけれど。
「・・・。」
 遠くなった久能を。あの一件以来、課における立場すら悪くなったらしい久能に。柏崎は一人胸を痛めていた。
 久能に能力(ちから)があるコトは分っていた。それなのに久能は、自分の同期や後輩に追い抜かれ使われる立場になっても、全然気にする様子も無くボーッとしていることに腹が立った。自分が上司(うえ)になって、引き摺り上げるしかないとまで思い込んだ。だから、死に物狂いで働いた。誰にも何も言わせないホドの実績を引提げて、本社(久能のモト)に帰って来たのである。

「柏崎!!どーゆー意味だと、訊いているだろう!?」
 何も言わない柏崎に、焦れたように目の前の久能が喚く。悔しげに唇を噛み。柏崎を睨む赤い目元に、何かが薄く滲んでいる。
「・・・ご自分で考えて下さい。おや?まさか、それは涙ですか?」柏崎は天地神明に恥じることないといった風に悠然と微笑むと、揶揄うように言った。
「これは!!!花粉症だっ!!!!」
 久能はもう一度叫ぶと、机の上をガタガタと片付け始めた。混乱していた。
「お帰りですか?」
「悪いかっ!!!」
「・・・久能さん。」
「お先っ・・・!!」
 自分の傍らを通り抜けようとした久能の腕を、柏崎は咄嗟に掴んだ。
「・・・。」反射的に。自分より長身の柏崎を睨み上げてくる、その目。長い睫毛は水滴を湛え。綺麗な瞳は微かに潤んでいた。
「そんな。艶っぽい目をして・・・。」柏崎の唇から。思わずという風に、感嘆の溜め息が漏れた。他の人間はいざ知らず。柏崎にとって、久能という男は・・・。
「な・・・なに!?」
「そんな風に見たら、食べられてしまいますよ。」
「?」
「・・・悪いオオカミに。」
 柏崎は久能の耳元に。吐息を吹き込むように囁いた。同時に掴んだ腕に力を込める。
「!!!」
 久能が怒りにまかせて、柏崎を更にキツク睨み上げた瞬間。
「!!!!!!」
 久能は息が出来なくなった。
「!?」
 柏崎が、シニカルな笑みを片頬に刻んで。なぜか、久能の鼻を摘んでいた。
「な・・・!?」
 久能が大きく口を開いた。途端。力任せに、唇が重なってきた。
「んん!?・・・・ぐぐぐ。」
 訳が分らない。
 容赦なく入り込み、蹂躙し、絡まり吸い上げようとする他人の舌の熱さに、久能はうろたえまくって後ろに下がろうとした。だが、背後にあった机に躓き、体制を整えようとしたところを椅子に足を取られ。
「うわあああああ!!!」
 悲鳴とともに。久能は、ものの見事に引っくり返った。そして。
 がん。ごん。バキ。グワッシャアアアア。
 といった風な擬音を道連れに、久能は床に叩きつけられる。
 ハズだった。だが。
「・・・。」
 硬い床に叩きつけられたハズの身体は、少しも痛くなかった。何か柔らかなモノが身体の下にあり、それは、恨みがましい声を上げた。
「・・・痛ってえ・・・。」
「・・・一体、何なんだ?お前は一体、何がしたいんだ?」
 久能は身動きすら出来ずに、震える声で呟いた。
「・・・。」
 久能を庇って、床に倒れた体制で、柏崎は微かな笑みを浮かべた。自分の上で呆然としている久能を見詰める。
 長い睫毛はそのままに。
(あなたは、少しも変わらない。)
 柏崎は微笑んだ。
「・・・。」
 遠く離れた九州で。
 夢に見た。
 その長い睫毛が、涙で濡れるのを。
 泣き叫んで許しを請うこのオトコを、許さない自分を。
 この腕の中に、閉じ込めて。ベッドの上に縫い止めて。
(・・・そのためなら、何だって出来る。)
「・・・。」
 柏崎は瞳を閉じて、暫らく息を吐いた。そして。
 再び目を開いた。
 長い睫毛の。可愛いヒト。
 憧れが、独占欲に変わっていったのは何時だっただろうか。
「・・・逃がしませんよ。」
 柏崎の言葉に。
「!!!!」
 久能は物凄い勢いで柏崎の身体から身を離すと、脱兎の如くオフィスのドアまで走った。さすがの柏崎が呆然と見ているしかないほどのスピードだった。
「・・・。」
 その久能は、オフィスのドアに手を掛けた状態で柏崎を振り返ると、震える声で呟いた。ココロナシ怯えたような瞳が、柏崎を映している。
「お前・・・。へ・・・・・・。変態・・・?」
 柏崎は床からゆっくりと起き上がると、再びヒトの悪い笑顔を浮かべて久能を見た。
「おや?もしかして泣いていますか?俺が、怖くて・・・?」
「これは!!!花粉症だっ!!!!」
 久能は叫んだ。
「・・・。」
 柏崎は、腹を抱えた。
「・・・可愛いですね、久能さん。・・・大好きですよ。」声を上げて笑う。
「・・・っ!!!!」
 からかわれたと思った久能が、一気に顔を真っ赤にした。
「・・・覚えてやがれっ!!!」
 サラリーマンとは思えないような捨て台詞を残して、ドアが大きな音をたてて閉められた。
「・・・。」
 柏崎は座り込むような体制で、声を上げて笑い続けた。そして。
「・・・可愛いヒト。二度と・・・。絶対に、逃がしませんよ。」
 そう呟くと、久能が去ったドアを。底光りのする瞳で、静かに見詰めた。

−fin−

2004.04.08

 要望が多かったので、続編を書いてみました(笑)。柏崎。まだまだ、先が長そうですね。
 じゅん様。バック動かないようにしてみました。どうでしょう?