忠誠の条件

 

 あれは。

 美しい女だった。癖の無い真っ直ぐで艶やかなな黒髪。

 真っ白な肌。赤い唇。濡れたような大きな黒い瞳。長い睫毛。

 細く長い項(うなじ)。

「・・・・・・・・。」

 今までの生涯に。誰にも頭など下げた事が無いだろう。強烈なプライドと誇りに護られた倣岸不遜で自信に満ちた、それでいて繊細で優雅な立ち居振る舞い。

 常に。高いトコロから他人を見下ろしていた女。

 ぞくぞくした。―――――

 あの黒い。尊大で傲慢な瞳に見詰められるだけで。それだけで、どうにかなりそうだった。

 

 和賀家の姫神に田中が出会ったのは。

 大学2年の秋の事だった。

 

 

「葉一さんは、何をされているのです?」

 和賀家の第2秘書田中は。その端正な顔歪めて、広大な庭の真ん中に裸足で立っている少年を見詰めた。

 田中は大学を卒業すると同時に和賀家が絶大な権力を有している、ある宗教団体に事務職員として就職した。名の通った国立大学の法学部を優秀な成績で卒業し、弁護士の資格を有し何かと目端が利く田中は、そこで重宝された。そしてあっという間に、和賀家の第2秘書という。ある意味首相の秘書官などより遥かに権力を持つ地位まで、上り詰めていた。

「・・・・・・・・。」

 昨夜降った雪で、和賀家の良く手入れされた広大な中庭には美しく白い雪が降り積もっている。

「・・・・・・・。」

 その只中で。

 薄いシルクのシャツ一枚。裸足の中学3年生の少年が。震えながら立っていた。見ているだけで凍えそうな光景だった。

「・・・・華信さまと雅信さまのご命令だそうです。」

 まだ若い。可愛いといっても良い、恐らく20代前半と見られるお手伝いが。心底気の毒そうに、葉一を見た。

「・・・・仕様が無いな・・・。」

 田中は舌打ちをして、中庭に面した窓を大きく開いた。

「葉一さん。お入り下さい。そのままでは、凍死してしまいます。」

「・・・・・・・・。」

 まだ幼い。

 だが。類い稀な美貌が、驚いたように田中を見た。

「お二人には私が許しを頂きましょう。」

「・・・・・・。」

 葉一は、一瞬こちらに向かって来ようとしたが。凍えた足がいう事を利かなかったらしく、ヨロメイテ、雪の上に倒れた。そして。

「・・・・・・。」そのまま動かなくなってしまった。

「・・・・・・。」田中は舌打ちをして銀縁の眼鏡を外した。そして窓枠に両手を掛けると、無言で窓を乗り越えた。

 

 

「熱の方は・・・・大丈夫ですか?」

 あの後。慌てて部屋に運んで手当てをしたが。

 結局、葉一は熱を出してしまった。

「・・・・まだ下がらないが、仕様があるまい。心配ない。解熱剤は飲んである。」

「・・・・・・。」

 田中はあきれたように溜め息を吐いた。

 葉一は。和賀家の息子とはいえ、この家では、最も蔑(さげず)まれている存在だった。それは。先刻のお手伝いの女の子を除けば、使用人に至るまで、全員が葉一を敬う必要は無いと考えていた。

 葉一の弟にあたる小学生の生意気盛りの双子にとって、葉一は格好のイジメの対象だった。

「・・・・・・。」解熱剤を飲んでいるとはいえ、葉一の息は熱くて荒い。相当具合が悪そうだった。

「・・・貴方はともかく。お客さまに風邪をおうつしするような事になっては、和賀家の信用に関わるのですよ。」

 勿論。田中自身も例外ではない。言葉の端々に葉一を嘲るようなニュアンスが混じる。

「・・・・・・・・。」

 田中の言葉に、葉一は顔を上げて睨んだ。

「・・・・ご兄弟に訳も無く逆らわれるのも困りますが。何でもいう事を利く必要は無いんですよ。貴方は今。和賀家には必要な人間ですしね。あの姫神の忘れ形見というだけで、貴方を所望される紳士の方々も多い。」

「・・・・紳士ね。」

 葉一は小さく笑った。その紳士たちが葉一に何をするのか。田中は勿論、良く知っていた。

「・・・・・・・。」

 和賀家には葉一の弟に当たる双子のほかに、葉一にとって、年齢的に兄と姉と呼べる人間が一人ずつ居る。

 だが正直。葉一の姫神譲りの美貌は、その兄弟の誰よりも美しい。彼らとて、平均以上の美貌を持っているのだが。葉一はハッキリ言って別格だ。白い肌も。若いというせいだけではなく、しっとりとして滑らかで。まさに美味そうだった。

 そしてそれは。

 もしかすると、いずれは姫神のようなカリスマ性を有して、この宗教団体の象徴となるかもしれない、といった予感を田中に微かに感じさせないでも無かった。もしそうなれば。

 和賀家の権力分布図は大きく変わってくる。

「・・・・・・・・。」

 だが、その時はその時だと田中は考えていた。そうなれば、上手に葉一の機嫌を取れば良いのだと単純に考えていた。仕事ではどれ程厭らしい権謀術数を行っても、田中はある意味、徹底した合理主義者で楽天家でもあった。

「・・・・・・・。」

 田中は葉一を見詰めた。

 誰より美しく。そして蔑(さげず)むべき存在。高貴だった母親。葉一は何と人間の嗜虐心をソソルことか。まさに御誂え向きの生け贄だ。

 田中は小さく笑った。

 今日は神殿の奥で、和賀家主催のパーティが行われている。

 和賀家に資金やその他の手段で貢献している信者向けのVIP専用パーティである。

 最高級の食材と料理人を使ったディナーに最高級のお酒。そして。

 食後には、甘く美味しいデザートが付く。

 溜め息の出るような美女や少年たち。その時々の客の趣味に合わせて、どんなデザートでも調達する。

 その粒よりの品々の中でも。

 姫神の血を引く葉一は、最高級のデザートだった。

 姫神の柔肌に。指一本触れる事を許されなかった男たちが、葉一でその思いを叶えるのだ。その歪んだ執着と欲望。

「・・・・・・。」

 だが。田中は彼らを嘲笑する気にはならない。

 彼とてもそう思っていた。姫神の御足に指一本でも触れさせてもらえるのなら、どんな事でもすると思った事が確かにあったのだ。

 それは。

 姫神が葉一を孕むまでの事だったが。

 子供を孕んだ事に気付いた姫神はもはや”神”とは程遠い存在に成り下がった。

 ウロタエきって泣き叫ぶ姫神はもはや、醜く、単なるワガママ放題に育った金持ち女に過ぎなかった。

 腹が大きくなるに従って荒れていく肌。太っていく身体。どんどん醜くなる精神。

 田中は失望した。

 それは。憎しみに近いほどの失望だった。

「・・・・・・・。」

 葉一が身体をふらつかせる。田中は舌打ちしながら、それを支えた。

「・・・大丈夫だ。会場ではこんな姿は絶対に見せない。」

 額に汗を浮かべて、葉一がうわ言のように呟く。

「・・・・・・・・。」

 田中は自分でも訳の分からない苛立ちに駆られて、もう一度舌打ちをした。

 

 

 パーティ会場は薄暗い。

 葉一以外のデザートは。既に会場に入っているようだった。

「・・・・・・っ。」

 田中の隣で会場を見回していた葉一が。思わずといった風に、小さな呻き声を漏らした。

「・・・・・・?」

 怪訝に思って、葉一の視線を辿る。その先には。

「・・・・・・・・・。」

 温厚そうな紳士。一見。が居た。

「・・・・・・・・。」田中は小さく3度目の舌打ちをした。

 彼は世界的に有名な精密機器メーカーの創業者社長の孫で、3代目を継いでいる。穏やかで

教養のある人物として名高いが、実は真性のサディストであった。

 葉一は。

 彼に殺されかかった事があった。いや。誰かが止めに入らなければ、間違いなく殺されていただろう。

「・・・・大口の寄付者ですからね。和賀家には大切な方です。」

 田中は葉一に言った。

「・・・・・分かっているよ。」葉一は紫色の唇で、呟いた。

「・・・・・・・。」

 その男が葉一に気付いた。

 顔がパアッと明るくなり、微笑みながら近付いて来る。

「・・・・・・・・。」葉一の身体が一瞬大きく震えたのを、隣に居た田中は感じた。

「これは葉一君。今日は会えないかと思ったよ。」

 男はにこやかに微笑みながら、葉一の手を取った。

「・・・・彼の。今日の予約は?」

 男は穏やかな笑顔に隠された、爬虫類のような感情の無い眼差しを田中に向けた。

「いえ・・・。」

 田中は一礼して、一歩下がった。

「そう。じゃ、ボクの相手をしてもらっても構わないね。」

「・・・・・・・・。」

 その瞳に見詰められた葉一が、引き攣ったような、それでも必死に笑顔を見せる。

「・・・・・・・・・・・。」

 田中は頭を下げたまま、無言だった。

「・・・部屋に上がるよ。」

 男は上機嫌で田中に言った。腕は葉一の肩に回されている。

 パーティ会場の上階には、デザートを賞味するための部屋が幾つか用意されていた。

「・・・・・・・・。」

 田中は葉一を見た。曖昧な微笑を浮かべた葉一は、誇り高い獣のように、決して田中と目を合わせようとしなかった。

「・・・・・・・・・。」田中は目を眇めた。

「葉一君。行こうか。」

 男は葉一を促す。

「はい。」

 今日の体調では、命に関わるかもしれない。だが、葉一は男に微笑んでみせた。

 その時。

「・・・・・・お待ち下さい。」

 それは。

 決して田中の意思ではなかった。無意識のうちに声が出ていた。

「・・・・・・?」

 葉一の肩を抱いた男が、怪訝そうに振り返る。

「・・・・申し訳ありませんが。葉一さんは今日は体調を崩しておりまして、貴方のお相手は出来かねる状態です。どうか、ご容赦下さい。」

「・・・・・・!」葉一が目を見開いて田中を見た。

「・・・・それはどういう意味だ・・・。」

 驚いたのは、男も同様だった。いかにも癇症っぽく、身体を震わせて田中を見た。

「・・・・・サディストの相手をするには。体調が悪すぎると申しております。」

 だが。田中は。

 下げていた頭を上げると、開き直ったように男を見た。

「・・・・無礼者っ!!」男は甲高い声で、田中を罵った。

「・・・・・ご不快でしたら、申し訳ありません。しかし今夜はご勘弁願います。」

「・・・・き・・・貴様!!タダでは済まさんぞっ!!!」

 男はその屈辱に口から泡を飛ばした。

「・・・・お怒りですか。止むを得ません。・・・和賀との付き合いはこれきりということで。」

「な・・・何だとっ!!!?」

 田中は。近くに控えていた職員に声を掛けた。

「お客様がお帰りだ。」

「田中・・・・。」葉一が呆然と、田中に声を掛ける。

「・・・・・田中さん・・・?」職員もあせった様子で田中に話かける。

「・・・彼は。大口の寄付者です。1年間で5億は・・・・。多少の無理は止むを得ません。」田中が先刻承知の事を耳元で囁く職員を、田中は冷たい目で見た。

「・・・・・・・。」

「き・・・貴様。このままでは済まさんぞ。思い知らせてやる!!!!」男は口角に泡を飛ばしながら、田中に怒鳴った。だが。

「・・・・ほう。」

 田中は小さく笑った。

「・・・・・・・。」

「和賀家の第2秘書の。この田中に・・・?何を思い知らせて下さるのでしょうか・・・・・?」

「・・・・・・・。」

 田中の声音に何を感じたのか。男は黙った。

「・・・・おっしゃって下さい?この田中に何をなさると・・・・・?」微かに笑う。男は押されたように後退した。

「た・・・・田中さんっ。」職員が慌てたように叫ぶ。だが。

「・・・・・黙れ。」田中は職員を見た。端正な顔から、笑顔は完全に消えていた。

「・・・・・・・・。」

 職員は蒼白な顔で黙った。

「・・・・・お客様がお帰りだ。」

 田中はもう一度言った。

「・・・・・・。」

「・・・・・・。」

 外人並の体格のボディガードたちが、どこからともなく現れ、男を出口へと導く。態度は限りなく慇懃であった。

「・・・・・。」男は何か捨て台詞を残そうとしたようだったが。田中の目に浮かぶモノを見て口を噤んだ。そして、肩を落とすとパーティ会場から出て行った。

「・・・たかが。5億。和賀家にとっては、はした金に過ぎない。思い上がってもらっては困る。」田中は小さく呟くともう一度微笑んだ。

「田中・・・。」葉一が田中に声を掛ける。呆然とした面持ちで。理解出来ない何かを見るように。

「・・・・・・・別に貴方のためではありません。一晩で壊されるデザートと彼の寄付金の額を考えた上での妥当な策です。」

 田中は素っ気無く答えると、葉一に背を向けた。

 

 

 

「田中。お前は俺を抱かないな。」

 その日。

 結局、高熱を出して歩けない状態になった葉一を田中は部屋まで送った。彼の部屋を出る間際に、葉一は笑みを含んでそう言った。

「・・・・愛玩動物には興味がありません。誰にでも尻尾を振ってついていくような。」田中が微かな笑みを漏らす。

「・・・・お前は俺の母親に心酔して、ここに来たのだろう?高慢な人間が好きなのか?」葉一がベッドに寝転んだまま、小さく笑う。

「・・・・高貴で。強情で。プライドが天より高い。そして誰にも落ちたことが無いような人が好みですね。そういう人を屈服させるのはゾクゾクしませんか?」

「・・・・・・・・・。変態。」葉一がくぐもった声で笑った。

「勿論。私は面食いですから、美しくなくては話にもなりませんが。」

 田中は大真面目だった。本気で言っていた。

「・・・・・・そんな人間が居るもんか。この変態野郎。」葉一は付き合ってられないという風に、田中に背を向けた。

「・・・・・理想は高く持つ主義なんですよ。もし・・・。」

「・・・・・?」

 口籠もった田中に怪訝そうに、葉一は目を向けた。

「もし。私の理想を叶えてくれる人間が現れたなら・・・・・。」

「・・・・・・・。」

 田中はニコリともしないで、葉一を見詰めた。

「私の忠誠は・・・・。生涯、その人のモノです。その人のためなら、私は何でもすると誓えますよ。」

「・・・・・・・。」

 葉一は一瞬、目を見開いた。田中の生真面目な顔をまじまじと見詰める。何と言って良いのか分からないようだった。

「・・・・ところで。葉一さんは?」

「何?」

「理想のタイプは?」

「・・・・・しつこくない人間だな。終わったらさっさと開放してくれるヤツ。」

「・・・・・・。客の話ではありませんよ。」田中は眉間に皺を寄せた。

「・・・馬鹿馬鹿しい。俺が誰かに惚れるなんて。そんな事、考えてみたことも無い。あ・り・え・な・い。」

 葉一は生真面目な顔で断言すると、嘲笑した。愛というモノなど信じてなどいない、と少年の瞳が雄弁に語っていた。

「・・・・・・・・。」田中は眉間に皺を寄せた。

「まあ。顔だけは、美形に越した事は無い。・・・・俺も面喰いだからな。」

 ふいに思いついたように、葉一はそれだけ付け足した。

「・・・・・氷と風邪薬を持ってこさせます。何か召し上がりますか?」

「要らない。」

「それでは。おやすみなさいませ。」

「田中。」

「はい。」

「今日はありがとう。俺のためでは無くても、助かった。」

 葉一が田中に背を向けたまま、消え入りそうな小さな声で言った。

「・・・・・・・・。」

 その言葉に、田中は葉一の小さな背中を見詰めた。そして無言のまま一礼して葉一の部屋のドアを閉じた。

「・・・・・・・。」

 そしてそのまま。

 田中は暫く閉じたドアを見詰めていた。

「・・・・・・・。」

 どれほどの失望を味合わされても。

 田中が生涯で愛を感じたのは。和賀家の姫神ただ一人だった。

 その女の子供。

 一時期は。全身全霊を掛けて欲した唯一の女が。

 泣き叫びながら、産み落とした子供。

 堕胎(お)ろそうとしても。決して堕胎(お)りなかった子供。

 母親の腹と精神を食い破り。生まれてきた葉一。

「・・・・・・・。」

 彼のことが憎いのか。それとも愛して執着しているのか。

 田中にも正直、良く分からなかった。

 やがて。

「・・・・・・馬鹿馬鹿しい。」

 田中は首を振って小さな溜め息を吐くと。和賀家の長く冷たい廊下をゆっくり歩き始めた。

 その端正な顔には、もはや何の表情も浮かんでいなかった。

 

−fin−

 2003.03.21

 初めてのキリリク。結構、緊張しちゃいました。

 最後に。次の文章を入れるかどうか。最後まで悩みました。だって。この文章を入れる前提で本当は書き始めた話だったのですよ(笑)。

 「彼らが。

  風間 零一朗という男に出会うのは、これから数年後の事である。」

 ・・・・無い方が良いよね?

  しかし。勝又と並んで、にゃむにゃむの小説では珍しい悪党系の田中。イメージとしてはちょっと邪悪なコバヤシなんだけど(笑)。