忘れ得ぬ月

 

「ええ加減にせんかっ!!この大馬鹿モンどもがっ!!!!!」

 普段は穏やかで。常に慈父のような笑みを浮かべている老教師の、そのアマリの剣幕に。

「・・・・ここ、ここ・・・・児玉先生・・・・・?」

 彼より15歳ホド若い教頭は、蒼白な顔で立ち竦んだ。

 その教頭を、老教師は更に怒鳴りつける。

「・・・・喧嘩は、双方両成敗じゃっ!!!生徒の日頃の素行や生い立ち。ましてや親なんぞの出る幕じゃないわっ!!!!」

「・・・・・・・・・。」

「・・・・・・・・・。」

「・・・・・・・・・。」

 老教師の凄まじい一喝に。

 職員室は静まりかえった。

 

「・・・・・・・・・・。」

 櫻 大吾は。

 あんぐりと大きく口を開けて、今、窓ガラスが震えるほどの大声で。校長や教頭そして彼のクラス担任、そして喧嘩相手の優等生と彼の父親(国会議員らしい)の秘書だとかいう男を怒鳴りつけた、隣クラスの担任である小柄なベテランの老教師を見詰めていた。

 こんなにビックリしたのは、久し振りのコトだった。

「・・・・・・・・。」

 老教師を見詰める。その、まだ微かに少年の面影の残る男っぽいがどことなく艶のある美貌の口元に、徐々に小さなしぶとい笑みが上ってきていた。

 

 

 校庭を。

 小柄な男がトコトコと歩いてくる。くたびれたポロシャツに草色のジャケット。襷(たすき)掛けにした年季の入った黒い皮性の鞄は、底の辺りが擦り切れている。

「・・・・・・・・・。」

 大吾は校門で、その男を待っていた。

「・・・・うん?櫻?何をしとる。停学じゃろうが。早よう家に帰らんか。」

 隣のクラスの担任である児玉は。彼から見れば、天を突くような大男であろう大吾を見ても、他のどの生徒に対する時と変わらない声音で話し掛けてきた。

「児玉先生を待っていたんですよ。」

「わしを?」

「お礼を言おうと思って。どうやら、退学から救ってもらったみたいだから。」

「・・・・子供の癖に、生意気じゃのお。だから、トラブルが堪えんのじゃ。」

 まだ16歳にもなっていない大吾の。妙にオトナびた口の利き方に、児玉はあきれたように呟いた。

 

「何で。助けてくれたんだ?」

 学校の近くの土手を歩きながら、大吾は少し砕けた口調で児玉に尋ねた。

「お前を助けた訳じゃない。喧嘩はアクマで両成敗が、この学校の方針じゃ。」

「けど。相手は上級生で成績優秀。オマケに親は国家権力も握っている。」

「・・・・・・・・。」

「どっかのヤクザの私生児なんぞより、学校にとっては大切な存在で当たり前じゃねえか?」

「・・・・お前は、本当に生意気じゃのお。」児玉は笑った。

「いくら教師だって、霞(かすみ)を喰っては生きていけねえハズだ。私立だし、利益を出さねえとな。」

「ほほほ。言いよるの。小僧めが。」

 百戦錬磨のベテラン教師は、大吾の言葉をどこ吹く風と受け流した。

「・・・この狸め。・・・・・糠(ぬか)に釘だな。」大吾は苦笑した。

「ほほほ。」

「・・・・・ほほほほ。」大吾は児玉の笑い声を真似をした。それを聞いて、児玉は更に笑った。

「・・・櫻。喧嘩には、どっちも言い分があるじゃろう。大概、水掛け論になるわな。イチイチ子供の言い分を訊いとったら、キリが無い。そのための方針じゃ。」

「・・・・・・・・・。だが。俺は中学の頃から札付きだが、相手は生徒の間でも信頼の厚い優等生だぜ?俺の方に非があると思って当然だろうが。」

「そうじゃな。じゃが、先入観が入りそうな事例では。特にルールを曲げてはいかんのじゃ。教師の鉄則じゃ。」

「・・・しかし。あいつの説明は、見事なもんだった。対して俺は、何の弁解もしちゃいねえ。あいつの言う通りだったからだとは、思わねえのか?」

「・・・・・・・何の弁解もせんかったのは出来なかったのでは無(の)うて、自分以外の何かを守ろうとしたからかもしれん。」

 児玉は。ゆっくりと大吾を見上げた。

「・・・・・!!」

 大吾は大きく瞳を見開いて、小柄な老教師を見下ろした。老教師はゆったりと微笑んだ。

「それは、お前にしか分からんコトじゃ。それに。・・・・・子供の言い訳なんぞ。訊いておったら、キリが無いでのう。」

「・・・・・・・・。」

「口が上手くて得をするのは、社会に出てからじゃ。その時になって、自分の正当性を主張出来んような奴は、モノの役には立たんじゃろう。じゃが。それは今じゃない。」

「・・・・・・・・。」

 大吾は無言で足を止めた。そこは。土手の桜の老木の真下だった。

「喧嘩は、基本両成敗じゃ。それがウチの方針じゃ。」

 児玉も立ち止まる。そしてもう一度大吾にそう言った。

「・・・・・・・・。」

 不思議なモノを見るような顔で。黙って自分を見詰めている大吾に、児玉は微笑んだ。そして。

「・・・・・昔。・・・・戦争中の話じゃがな。ここで、一人の学生が自殺した。聞いたことないか?」

 少し懐かしそうに。大吾の背後の桜を見上げて、老教師はそう訊いた。

「・・・・・・・?知らねえ・・・。」 

 大吾はちょっと薄気味悪そうな顔をして、その場から少し離れた。

「赤紙が来たその日の夜に・・・・。この木の下で、腹を切って果てたんじゃ。」

 児玉は桜を見詰め続けていた。

「あの夜。天空には、秋の満月。地面には。その男の生首が転がっておった。」

「・・・・見たのか?」大吾は顔を歪めて、尋ねた。

「男は、わしの仲の良い友だちじゃったからの。」

「・・・・・・・。」

「・・・・変わった男での。人の命は、敵だろうが味方だろうが、同じ重さだなどと甘ったれた事を・・・・。あの非常時に。」

「・・・・・・・。」

「敵を殺したくないだけだというその男を、わしは責めた。わしだけでは無い。友だちは全員が。その男に向かって、臆病者と。お前は死ぬのが怖いから、そんな事を言うとるのだと。その男はわしらの非難を、聞くに堪えない罵倒を。何の弁解もせずに黙って訊いとった。震える両拳を血が出るほど握り締めながら。」

「・・・・・・・・。」

「オトナであったなら、ちゃんと自分なりの主張を口にしたじゃろう。だが。彼は学生じゃった。何も口にしない事が潔いと。馬鹿で。・・・・純粋じゃったんだろうのう。」

「・・・・・・・・・。」

「じゃがな。介錯人によって見事に一撃で切り落とされた、その男の生首のカッと見開いた澄み切った瞳が。自分は死ぬのが怖かったのでは無いと、主張しておった。言葉以上にな。」

 老教師はそう呟くと、桜の老木をもう一度見上げた。何かを思い出しているように。

「・・・・・・・・。」

 大吾は。小さく咳払いをすると、少し困ったように言った。

「・・・・・なぜ俺に。そんな話を?」

「・・・・・どうしてじゃろうな。お前が、なぜ自分を罰しないのかと問うたからかのう。」

「・・・・・・・・。」

「そして。やっぱり何も弁解せなんだからか・・・・。」

 恐らく、死んだ男以上に苦しんだであろう瞳が、静かに大吾を映した。

「・・・・・・・・。」

 大吾は無言で、桜を見上げた。

「・・・・・児玉。その男が死んで、哀しかったのか?」

「・・・・・人が、簡単に死ぬ時代じゃったからのう・・・・。」

 児玉は小さな声で答えた。肯定とも否定とも取れる言葉を。

「・・・・・後悔したのか?」大吾はもう一度問い掛けた。

「どうじゃろうなあ。今でも。何が悪かったのか、良くわからんような気もする。・・・じゃがなあ。」

 児玉は溜め息を吐いた。

「・・・・・・もう二度と、あんな思いはしたくは無い。誰にも、して欲しく無いのう。」

 児玉自身が。あの夜に失ったたくさんのモノ。

 死んだ男が、最後に考えた事。

 彼を介錯した人間が、呟いた言葉。

 それら全ての想いを吸い取ってなお。

「・・・・・・・・・・・・。」

 黄金色に輝いていた、あの夜の美しい満月。

「妙なことに。・・・・・それほどの凄惨な現場だったのというのに、今では、はっきりと思い浮かぶのは、天空に輝いておった満月だけじゃ。他の事は、全てが何となく曖昧になってしもうた。・・・・人間というのは、そういうものなんじゃろうのう。」

 児玉はそう言うと。ゆっくりと桜に背を向けて、土手を歩き始めた。

「・・・・・児玉。」

 大吾は何かに駆り立てられるように、老教師に声を掛けた。

「早よう、去(い)ね、櫻。停学中は充分、反省するんじゃぞ。」

 児玉は少しだけ振り返って、大吾に微笑んでそう言った。

 それから再びゆっくりと、歩き始めた。

「・・・・先生。今日は有難うな。」

 大吾は小さな児玉の背中に向かって、そう言った。

「・・・・・・・・・・。」

 今度は児玉は振り返らずに、右手を上げて大吾の言葉に応えた。

 

 

 

「・・・・・・・・。」

 去って行く小柄な老教師の姿を見詰めながら。

 大吾は想った。

 児玉の瞳に、今もなお映っているだろうその日の血に染まった月を。

 

「・・・・・・・・。」

 桜の老木を見上げる。

 今は何の花も付けていない、枝の向こうに浮かぶ爽やかで美しい青空。

 

 何だか胸が小さく痛んだ。

 

−fin−

 2003.05.01

 trialを読んでいる方は気付いたでしょうが。

 ちょっと「狂い咲き」とリンクしているかも(笑)。

 いかがでしたでしょう?暗過ぎたかな?児玉の人間性に深みを持たそうとしたのですが(汗)。