六万年後の月の夜に

 

 月の美しい夜だった。

 それだけでは無い。火星が過去6万年だかで地球に一番接近しているらしい。これほど近寄ることは、これから数百年は無いそうだ。

 アト二日程で中秋の名月を迎えようとするその夜。

 見掛け上。夜空では、その月と火星のランデブーだか何だかが行われ、世界中がその天体ショーに酔いしれていた。

「・・・・・・・った・・・!!!!」

 ・・・・・らしい。

「・・・・・・・・助け・・・・!!!!」

 少なくとも。 宗方 平蔵は。

 今、現在。

 今月今夜のこの月も。火星も。ゆっくり鑑賞するようなココロの余裕は持っていなかった。

「うわあああああああああっ!!!!」

 恥も外聞も無く。

 平蔵は悲鳴を上げながら、逃げた。だが、その足が縺(もつ)れる。転んでいる場合では無いのは百も承知だが。

「・・・・・・つあっ!!!!」

 平蔵の意思には関わりなく、彼はもんどりうってアスファルトに顔から激突した。

(もう駄目だ!!!俺は、死ぬ!!!!)

 平蔵は、身体中の力を根こそぎ奪われるような倦怠感の中で、目を閉じた。

(・・・・・あいつの言うことを。ちゃんと訊けば良かった・・・・。)

 

 

 

 ハナシは三日前に遡る。

 

 

 

「・・・・・・。」

 その夜も宗方 平蔵は、六本木の街をそぞろ歩いていた。

 眠らない街。

 平蔵はまだ20歳だったが。

 叔父譲りの美貌のせいか、今まで女性に不自由したコトは一度も無い。酸いも甘いも噛み分けたオトナの女から、男性とは手を握ったコトも無いような深窓の令嬢といった清純な少女まで。タイプに関わりなく、女たちは皆黙っていても、平蔵に群がった。平蔵は、今まで彼の周りに集まってくる女性たちの中から、好みの女性を選びだせば良かった。

 だが。

 今現在。彼には物騒な保護者が山ほど居る、若干じゃじゃ馬系の本命が居る。

 自分でも、これほど真剣な恋愛をしたのは、生まれて初めてだった。

「・・・・・・・・・。」

 どこが良いのか。何に惹かれているのか。上手く説明は出来ないが。

 平蔵は、そのオンナに夢中だった。

「・・・・・・・・・。」

 今夜訪れた行き着けのバーでも、平蔵は何人もの女性に誘いを受けたが。

(・・・・別にまだ、飢えるほどオンナには不自由しちゃいない。)

 六本木のビルの間の天空に明るく輝く満月。彼は数多の魅力的な誘いを全て断って、一人で歩いてた。

 多少の不自由は感じていても、まだ本命にバレて、嫌われる方がはるかに辛いと感じられる初心(うぶ)と言って良いな恋心。

 宗方 平蔵は。

 満月を観ながら、青春時代を満喫しつつゆっくりと歩を進めていた。

 と。

 

 

「・・・・・久し振りじゃないか。宗方組の将来の親分、になるかもしれない男。」

 平蔵は。確かにほろ酔い加減ではあったが、別に油断しているつもりは無かった。宗方組の次代を担う男として、何時いかなる時も周りの気配に気を配るクセのようなモノが身に付いているのだ。だが。

 平蔵はまったく。何の気配も感じなかった。ヒトが居るコトにも気づかなかった。

 それなのに。その男は、背後からいきなり平蔵の肩を抱いた。

「・・・・っ!!!?」

 肩を抱かれるまで何の気配も感じなかった平蔵は、死ぬほど仰天した。呆然と自分の肩を抱いている男の顔を見詰める。

「・・・・げ・・・・・・!?!!!」

 その相手が誰だが認識した瞬間に。平蔵は、思わずのけぞった。

 190センチを超える身長を誇る平蔵が。更に若干見上げるほどの長身。横幅は平蔵が勝っているかもしれないが、体格の優位など何の意味も持たないと思い知らされる、圧倒的な存在感を有した真っ黒な瞳が平蔵を写してきらきらと輝いている。

「か、勝又 翔っ!!!!」悲鳴のような声で叫ぶ。

「何だ?目上の人間をいきなり呼び捨てか?さすがだなあ。平蔵くん?」

 一見。

 20歳前後に見える、天使のように穢れなく可愛い美貌を。これまたカワユラシほころばせながら。

 勝又(ばけもの)は、再び平蔵の肩をガッシリ掴んでニッコリと微笑んだ。

 

『絶対に。ヤツには近付くな!!!何が起きても、関わるんじゃねえっ!!!』

 心配性で神経質ではあっても、決して臆病者とは思わない父親が、いわく言い難い感情に顔を引き攣らせながら平蔵に厳命した男。

「・・・・・・・・・。」

 平蔵は呆然と。その童顔を見詰めるしか無かった。思い出したように、平蔵は勝又の腕から抜け出そうと足掻いた。だが、特に力を込めているとも思えないのに、どうしてもその腕を振り払えない。

 

 その時。

 

 彼が、平蔵に言ったのだった。

 男は可愛らしい童顔に邪気の無い微笑を浮かべながら。

 何てこと無いように。

 本当に。何てこと無いように。

「・・・・・暫らくの間は、この辺りをうろつくな。・・・特に路地裏辺りはな。」

 平蔵の耳元で囁く。まるで睦言のように。

「・・・・・・・顔の三つくらいあるワンちゃんが、時々お散歩しているらしい。・・・・死にたくなければ、俺の言う事を訊くんだな。」

 本気とも。冗談とも判じかねる表情で。勝又はにっこりと微笑んでいた。

 顔の三つある犬?

 荒唐無稽なその言葉に。平蔵は。取りあえず眉間に皺を寄せた。

「・・・・・・ふふ。」

 勝又は困惑気な平蔵の顔を見つめて、満足そうに小さく笑った。そして。次の瞬間。いきなり、平蔵のうなじに吸い付いた。

「うげっ!?」

 予想もしなかった事態に、思わず珍妙な悲鳴を漏らした平蔵を、項(うなじ)に口付けをしたまま勝又は面白そうに見た。

 うなじに感じる勝又の唇の感触。そして自分を見詰める濡れた大きな瞳。平蔵は、思わずゾクリと肌が粟立った。それが、性的な衝動に酷似しているコトに気付き、平蔵は死に物狂いで暴れて、勝又の身体をもぎ放した。

「なっ!?なっ!!な!!何しやがるっ!!!!!!この変態野郎っ!!!」

「あっははははは。感じちゃったのか?若いなあ。まあ、気にするな。へーぞー。」勝又は、平蔵の下半身に目をやってクスリと笑った。

「・・・・・なっ!!ふ、ふ、ふ、ふざけるなあっ!!!」

 平蔵は真っ赤になって、それでもこの得体の知れない男から少しでも遠ざかろうと、暫らく走ってから勝又を振り返った時。

 童顔の男は、すでに平蔵にすっかり興味を失ったように、すたすたと背を向けて歩き去るトコロだった。振り返ろうともしないその後ろ姿に。

「・・・・・何なんだよ。一体・・・・。くそっ!!・・・・童顔のくそじじい!!変態っ!!!!」

 平蔵は息を荒げて、小さく悪態を吐いた。

 

 

 

 そして今日。

 平蔵は、大学同士の合コンに参加した帰りだった。

「・・・・・・・。」

 平蔵は、別に勝又の言葉をナイガシロにした訳では無かった。わざわざ声を掛けてきた、タダモノとは言えない男の言葉を反芻するぐらいの分別は、彼にはあった。だが。

 あまりにも。奇妙な話過ぎた。顔が三つもある犬などと。若い平蔵が、勝又にカラカワレタのだと判断しても。これは彼を責めるコトは出来まい。

 その日。平蔵は一人では無かった。大学の同級生である男友達二人と、3人の知り合ったばかりの女子大生が一緒だった。

「・・・・・・。」

 全員、酒も入っていて上機嫌で。賑やかに談笑しながら、二次会予定の誰かが見付けたという穴場のカラオケに行くために、路地裏深くに踏み込んでいた。

 その角を曲がれば、目当てのカラオケ店があるという場所まで来た時。

「・・・・・・・・。」

「・・・・・・・・・。」

 全員が。

 竦んだように、立ち止まった。

 その角を曲がれば。

 賑やかな。普段の六本木の街があると分かっているのに。

 彼らは、動け無かった。

「・・・・・・!!!!」

 平蔵も例外では無かった。総毛立っていた。

 眩暈がするような悪寒が全身を包む。

 全身の毛穴という毛穴が開いたような感覚があった。それら全てから、いやな感じの汗が噴出している感覚がある。だが、身体はピクリとも動かない。

「・・・・・・・・。」

 平蔵は彼の両側に居るハズの、友人を見た。

「・・・・・・・・。」

「・・・・・・・・。」

 彼らも蒼白な顔で、立ち止まっていた。

 オンナの子の一人は、まるで瘧(おこり)に罹ったかのようにガタガタと小刻みに震えている。

 何か居る。

 全員が分かっていた。

 彼らの背後に何かが居る。だが。誰も振り返ることが出来ない。

「・・・・・・・行け。」

 平蔵は、気力を振り絞って彼らに声を掛けた。自分のモノとも思えない掠れた、シワガレタような声が耳朶を打つ。だが、構っているヒマは無かった。

「・・・・・その角を曲がるんだ。」

 平蔵は。蚊の泣くような声で。

 ぎしぎしという骨の軋みを感じながら、両腕を持ち上げた。そして。

「走れえええっ!!!!」

 大声を出すと同時に、平蔵の両側に立っている友人の背中を思いっきり叩いた。

 うわああああ。だのギャアアアアだの、という奇声を発しながら、彼らは弾かれたように、走り出した。だが。

「ぎゃああああああああっ!!!!」

 走り出すのが一瞬送れた左端の女子大生の胸から上が、一瞬で消え去った。まるで、何かに喰われたように。赤いミニスカートに包まれた下半身が鮮血を撒き散らしながら、横倒しになる。

「いやあああああああっ!!!」

 その光景を見て、腰を抜かしてバランスを崩してへたりこんだもう一人の女子大生の頭上にも、何かが迫った。見えた訳ではない。平蔵は気配を感じたのだった。

「ちいいいっ!!!」

 平蔵は女子大生を突き飛ばした。

「逃げろっ!!!!」

「ひいいいいいいいいいいっ!!!」

 よろめきながら走り出す女子大生を庇うカタチで、平蔵は振り返った。

 止めとけば良かったのに。

「・・・・・・・・・。」

 平蔵は、その場から動けなくなってしまった。恐怖のアマリ。顔を上げることさえ、出来ない。

「・・・・・・!!!!」

 頭上から。

 はるか何十メートルの高みから。

 フーッ!フーッ!という複数の獣の息遣いのような呼気が聞こえる。

 確かに。犬の喘ぎ声のような気がしないでもない。だが。

(・・・・ワンちゃんなんて、可愛らしい代物じゃあ。無(ね)えんじゃねえか・・・・?勝又?)

 平蔵は、その何かの気配に萎えそうになる気力を奮い立たせるために、丹田に気を集める。ヨガを齧っている平蔵は、人体のチャクラと呼ばれるエネルギーの集結部のうち、平蔵が操れる部位をフル稼働させた。このままでは蛇に睨まれた蛙だ。気が付いたら、何かの腹の中に居たというコトになってしまう。とにかく、身体が動けるようにしなければならない。

 フーッ!

 フーッ!

 フーッ!

 何かの息遣いが、どんどん近づいてくる。と同時に。

「・・・・・!!!!!」

 ボタボタと何か透明な液体が、平蔵の周りに落ちた。

 その耐え難い臭気は、平蔵の意識をにハッキリと覚醒させた。

「・・・・・・ぐ・・・!!!!」平蔵は胃の中のモノが逆流してくるのを、死に物狂いで抑えた。

 涎(よだれ)だ。――――――

 何かは。

 平蔵を見て、涎を垂らしているのだ。

「・・・・勘弁してくれええええええええっ!!!」

 恥も外聞も無く、平蔵は叫んだ。根源的な恐怖。

 恐慌に捉われて、必死で走る。気配は。すぐ背後に迫った。臭い息が。平蔵の項(うなじ)に掛かった。

(喰われる・・・・・・!!!!)

 平蔵が覚悟したその時。

「ギャンっ!!!!」

 ワンちゃんらしい悲鳴が聞こえた。同時に、気配が遠ざかる。

「・・・・・・・・?」平蔵が勢い余って、もんどりうってアスファルトに激突したのは、この直後であった。

 そして。

 勝又の言うことを訊いておけば良かったと、平蔵が死ぬほど後悔していた。

 その瞬間。

 

 

「あーあ。・・・・・だから。おっかないワンちゃんが、ウロウロしていると言っただろうが?」

 

 

 聞き覚えのある声が、頭上から降ってきた。

「・・・・・・・。」

 その声は。地面に転がった平蔵の目の前に立つ、キチンとスーツを着込んだ2本の足が、発していた。

「・・・・・か、勝又さん・・・・・!!!」

 平蔵は、涙を流すトコロだった。正直。助かったと思った。

「うわっ。いきなり『さん付け』に格上げか?解りやすい野郎だな。」

 勝又は面白そうに、平蔵をチラリと見た。

「だが、別にお前を助けに来た訳じゃねえぜ。俺は零と違って、お前に何の思い入れも無いからな。・・・・・俺の結界に、やっと触れたな。手間取らせやがって。ケルベロス。」

 平蔵が顔を向ける事も出来なかった空間に向かって、普段と少しも変わらない、童顔が。不敵な笑みを刻んでいた。

 

 

 

「か、勝又さん!!」

「・・・・・俺の後ろに廻れ。」仕方なさそうに、勝又が平蔵に声を掛ける。

「・・・うん。ご、ごめん。」

 平蔵はがくがくする膝を叱咤しながら、何とか立ち上がった。途端。

「・・・・・・・!!!!!」

 背後のワンちゃんが、吠えた。

「・・・・・・・・・・ぎゃあああああああっ!!!!!!」

 平蔵は耳を抑えた。だが。そんなコトではどうにもならないような、声に込められた悪念が、全身を駆け巡る。皮膚の下に無数の虫が這いずり回るような、その感覚。

 狂う。

「・・・・・・!!!」

 平蔵は思った。今度こそ、意識を手放そうとした。手放した先にどんな悪夢が待っているのか、想像もつかなかったが。

 が。その寸前。

 温かなモノが、全身に行き渡った。

 心地良く、優しいものが全身を包む。

「・・・・・・・。」

 ふと気付くと。勝又が平蔵の肩を掴んでいた。心地良い感覚は、その肩から発せられていた。

 勝又は、倒れた平蔵の肩に右手を当てて、さっきまで何も持っていなかった左手に、青白く光る棒のようなモノを持っていた。口は何かを呟いている。こんな場合だったが。それはまるで。美しい天使が、天上界で詩でも吟じているように見えた。

「・・・・・・・勝又・・・。」

 平蔵は。その美貌にうっとりと見惚れた。それを見た嬉しさに、自然と口元が緩む。

「・・・・・何か、あったかい・・・・・・。」

 平蔵は倒れたまま、呟いた。勝又を見ながら。満ち足りたような笑みを浮かべていたと思う。

「・・・・・・・・・。」

 勝又は少しだけ眉間に皺を寄せて、平蔵を見た。そして。

「・・・・ちっ。とんだ足手纏いだな。・・・・見捨てちまおうかな。どうせ邪魔なだけだし。何の義理も無いしな。」

 そう呟いた。天使の顔。そのままで。

「・・・・・・ええっ!?・・・ちょっ!!!」

 平蔵は、一気に現実に帰った。

 

 

 

「・・・・・・・・。」

 突然、鳴ったケイタイに、大吾は顔を顰めた。名前を確認すると、相手は平蔵だ。

 夜中の11時。

 大吾は当然、一人では無かった。一流ホテルのバーラウンジ。よっぽど無視しようかと思ったが、ジョウ絡みかもしれないと、傍らに居る美女に小さく断って、携帯電話を耳に当てる。

「・・・・何だ。こんな時間に?」

 機嫌の悪さが露骨だったのは止むを得まい。しかし。

「・・・・・叔父貴?・・・・俺。俺、死ぬかも・・・・。というか、実はマジ死にそうなんですけど。」

「・・・・・・・・・!?」

 間違いの無い、平蔵の声で語られる言葉に。大吾はマジマジと携帯電話を見つめてしまった。

 

 

「叔父貴!!叔父貴!!!!助けてくれええっ!!!」

 平蔵は叫んだ。

『・・・・一体、どうしたんだ?平蔵!?』携帯電話から流れてくる声。訝りながらも、平蔵を案じているのが分かる。

「うっ・・・・・ううっ!!!!」

 懐かしく優しい大吾の声に、平蔵は思わず涙を零した。

『平蔵!?』

「で、電話しろって・・・・・・・・。い、言われて・・・・・。」

 平蔵は泣きながら呟いた。

『誰にだ?』

「か・・・・。勝又が・・・・・。」

『勝又ぁッ!?』

 

 

『繋がったのか?』

 受話器の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえた。切羽詰ったような平蔵の声とは違い、どこかノンビリとしている。

「・・・・・・!?」大吾は耳を澄ませる。

『は・・・・はいっ!!!』

 平蔵の泣きそうな声。続いて。

『櫻。甥が死に掛けているぜ。どうする?』今度はハッキリと声が聞こえた。勝又の声だとスグに分かった。だが、何故、彼が平蔵と?大吾は黙って勝又の次の言葉を待った。

『甥を助けてくれと、俺に土下座でもして見せるか?そうしたら、このお荷物を助けてやっても良いぜ。』

「・・・一体・・・!?」

 大吾は携帯電話を見詰めて、呆然とした。と。

『叔父貴っ!!!頼んでくれええええっ!!!見捨てられるうううううっ!!!』

 ますます切羽詰ったような、平蔵の叫び声が聞こえた。

「平蔵!?へいぞうっ!?・・・・かっ、勝又!?おいっ!!どうしたっ!?」

 

 

「臨兵闘者。皆陳列在前。」

 勝又は、左手に持った青い棒で敵の攻撃をかわしながら、右手に刀印を結び、5本縦に4本横に空中に線を引いた。

「・・・!!!!!!」

「・・・・・ううわあああああっ!!!!」

 平蔵は目を閉じた。空間が九つに分けられたと思った。平蔵の身体もバラバラになりそうだった。

「オンききゃらはらはらふたらんばそっそわか・・・・・。」

 間近に聞こえる勝又の声に、ふいに身体が楽になる。が。

 同時に。

「 !!!!!!!!!!!!!!」

 凄まじい咆哮が。頭上から襲い掛かってきた。

 

 

 

「・・・・・・・ぐあああっ!!!!」

 大吾は呻き声とともに、携帯電話をとっさに放り出した。咆哮は、携帯電話を通して、大吾の耳にも届いたのだ。

 それだけでは済まなかった。

「・・・・!!!!!」

 バーラウンジが、大きく揺れた。

「きゃあああああああっ!!!!!」

 客たちの悲鳴とともに、照明が落ちる。ムードを演出していた間接照明は全て弾け飛んだ。

「・・・・・・・!!!!」

 大吾は、それが、さっきの鳴き声の仕業だとスグに分かった。携帯電話を通して、声だけでこれだけの影響を与えるとは。

 大吾は呆然と立ち竦んだ。

 ホテルだけあって、すぐに自家発電に切り替わる。

 慌てないように。ただの停電だと、ラウンジの従業員たちが客をなだめている声が聞こえる。大吾は投げ捨てた携帯電話を見た。それは。溶け崩れていた。

「・・・・・・・・・!!!生命(いのち)に関わるような大物か?勝又・・・・!!」

 大吾は、今度こそ顔色を変えた。

 

 

 

「・・・・・・・!!!!!」

(勝又・・・・・!!!!!)

 平蔵は、さっきの咆哮とともに自分の傍らまで吹っ飛ばされてきた勝又が、何事も無かったようにむくりと起き上がるのを。地面に伏せた姿勢のまま見詰めた。

「・・・・・・・ちっ。ちょっと油断しちまったぜ。」

 勝又は小さく舌打ちをした。と同時に、口から大量の血液を吐き出した。

「・・・・!!!か、勝又っ!!大丈夫かっ!?」

 平蔵は声にならない悲鳴を上げた。どれほど不本意でも、今現在。頼れるものは彼しか居ないのだ。

「・・・・鬱陶しい野郎だな。いいから、大人しくそこで寝てろ!!!」

 勝又は仁王立ちで口から、血の混じった痰を勢い良くペッと吐き出すと。叫んだ。

「帰命 不空 光明遍照 大印相 慶尼宝珠 蓮華 焔光 転 大誓願!!!!」

「・・・・・・・!!!!!」

 勝又の左手に握った、青白い棒のようなモノが、凄まじい炎を吹き上げた。青白い焔を。

「オンあぼきゃべいろしゃなうあかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたや・・・・・!!!!」

「・・・・・うわあああああっ!!!!!!」

 叩きつけられる。何かからの凄まじい悪意に。

 平蔵は耐え切れずに、頭を掻き毟りながら叫んだ。

「・・・・・・・・・っ!!!!!」

 勝又は青白い焔を、地面に向かって突き立てた。

「大誓願(うん)っ!!!!!居るべき世界に帰れっ!!!ここは、貴様の餌場じゃ無えっ!!!」

「ぎゃああああんんっ!!!!!!」

 確かに。

 犬の悲鳴が聞こえた。

 三匹分。

 凄まじいほどの唸り声と。冷たい風。

 堪えられないほどの生臭い匂い。

「・・・・・・・うわああああああああああっ!!!!!」

 平蔵は叫んだ。

 身体が引きずられる。勝又が棒のようなモノを突きたてた場所に、深い穴のようなモノが穿たれていた。

 凄まじい吸引力で、何もかもを吸い込もうとしている。

 うなり声や叫び声。そうしたものが、深そうな穴の中から聞こえる。

 呪い。

 恨みと呪いの声。

 何か物凄い力が、平蔵の身体を吸い込もうとしている。平蔵は地面に爪を立てた。

「・・・・・・・・・!!!!!」

 爪が割れて血が流れても、平蔵の身体は止まらない。穴に足が触れたと感じた。

 引き摺り込まれる。

「・・・・・助け・・・・・!!!!」

 平蔵が、断末魔のような悲鳴を漏らした瞬間。

「・・・・・・・!!!!!」

 誰かが、彼の背中を踏んづけた。

「ぐえっ!!!」

 平蔵の身体は止まった。見上げると。

「・・・・・・・礼を言え。」

 勝又が、右足で平蔵を踏みつけて笑っていた。

「・・・・・有難うございます。」

 踏み潰された蛙のような格好で、平蔵は勝又に礼を言った。

 こいつはヤッパリ好きにはなれない。心の底から、そう思った。

「オンキキャラハラハラフタランバソッソワカ。」

 勝又は奇妙な形に両手で印を結んでいた。そして、その印に自分の息を吹き掛けた。

「・・・・・・・・!」

 辺りの空気が変わった。

 平蔵にもそれが分かった。

 ・・・・・終わった・・・・?

 そう思ったのを最後に。

 一気に、平蔵の意識は闇に呑まれた。

 

 

 

 どれだけの時間が過ぎたのか。

 一瞬だったのかもしれない。

「何、のん気に気を失ってやがる。」

 情け容赦なく頭を蹴っ飛ばされて、平蔵は覚醒した。

「・・・・ああっ!?」

 平蔵は飛び起きると辺りを見回した。

「・・・・・・やれやれだぜ。」

 勝又はタバコを口に咥えたままで、あきれたように呟いた。

 周囲は、普段の六本木の風景だった。少し路地奥ではあるものの。あの深い不吉な穴は、もはや影もカタチも無い。

「おい!!火。」

 きょろきょろしている平蔵を見下ろして、勝又は言った。

「あ?ああ。・・・・・はい。」

 ポケットを探りながら、平蔵は立ち上がろうとした。だが。足ががくがくして立ち上がれない。

「・・・・何やってやがる。櫻の次はお前が継ぐんだろが。・・・・甘やかされ過ぎだ。」

 勝又は心底呆れたように、ため息を漏らした。

「あれ。あれ。一体何だったんだ?イヌ・・・・・!?」

 平蔵は、ぶるぶる震える腕を叱咤しながら、ライターで勝又のタバコに火をつけた。

「・・・地獄の番犬というヤツだ。・・・・今回は大物が出やがったな。」

「・・・・ケ、ケルベロス、と言っていたよな?あれは。あれは、神話の上だけの生き物じゃ?架空の生き物だろう?」

「あれが。架空の存在に見えたか?お前に見えたかどうかは知らんが、気配は感じたハズだ。荒い息遣いも臭い息も。現実に存在していただろう。」

 勝又は天使のような笑顔を見せた。

「・・・・・・・・・。」

「最近、この辺りで猟奇殺人事件が起きただろう?実は他にもイッパイ死体はあったんだが、宮内庁が隠したんだ。意地汚いヤツで、イロイロ喰い散らかしやがった。」

「・・・・・何で六本木に、そんなモノが・・・。」

 平蔵は生まれてコノカタ培ってきた、常識といったモノが頭の中で見事に崩壊する音を聞いていた。

「・・・・・中東の戦争の影響だろう。必ず大きな戦争のアトはこうしたコトが起きる。どっかの馬鹿が、戦場で神をも恐れぬ所業をしやがったんだろうぜ。オカゲで、世界各国に異界との空間に綻びが出やがるんだ。野郎はそっから現れた。一日のある一定の時間だけな。」

「・・・・・・・・・綻び・・・。」

「神は・・・・。どの神でも。必ず罰を下す。例外は無い。大きな事故だったり、天災だったりもするが。まあ。そうやって、何かのバランスを取っているんだろうぜ。」

「・・・・日本人には・・・・。関係無いだろう?」

「・・・・人類という種に、奴らが区別をつけるもんか。ドーベルマンだろうがアイリッシュコーギーだろうが・・・・・犬は犬だ。俺たちが手を下した訳じゃねえ、といっても済まないんだよ。」

「・・・・・ケルベロスを・・・・殺したのか?」

「恐ろしいコトを言うな。あんなもん人間に殺せるか。丁重にお帰り願っただけだ。自分の居るべき世界にな。せいぜいがトコ。その位が関のヤマだよ。人間さまとしてはな・・・・・。」

 勝又は、そこまで言うと。

「・・・・・・!」

 彼は、自分の背後の路地の方を見て、微かに眉を上げた。

 複数の車が、停まる気配が路地に響いたのだ。

 たくさんの人間の慌(あわただ)しい気配も。

「・・・・・・勝又!!!・・・・平蔵。無事か!?」

 叫び声とともに、駆け込んで来た大柄な影。

「叔父貴!!!」

 平蔵は、思わず駆け寄った。大きな身体に、無意識に飛びつく。子供のようだと分かっていたが、安心感で思わず涙が零れた。

「・・・・・!!!!犬が!!犬が・・・・!!!犬なんだけど!?イヌじゃなかったんだ!!!」

 訳のわからないだろう平蔵の叫びに、大吾は、彼も子供に対するように頭を撫でてくれた。

「・・・・よしよし。怖かったな。ケガは無いか、平蔵?・・・・・勝又?お前は大丈夫か?」

 大柄な平蔵の身体を支えてもビクともせずに。大吾は、勝又の方に目を向けた。

「・・・・・とんだ足手纏いだったぜ。・・・もう少し。イロイロ教えておくんだな。」

 勝又は紫煙を吹き上げながら呟いた。そして。

「・・・・・貸しだ、櫻。・・・・これは、高くつくぜ。」

 にやりと笑うと、立ち上がった。

「・・・・・・・・・・・。」

 大吾は平蔵を、背後の組員に預けると、勝又の傍に歩み寄った。そして。

「・・・・・・痛(つ)っ!!!!」

 勝又の前に立つと、問答無用で勝又のスーツの上着の前を開いた。

「・・・・・・!!!!」

 ダーク系のスーツだったので分からなかったが。

 勝又のワイシャツの腹の辺りは裂けて、血まみれだった。

「・・・・大物だったからな。無傷って訳にはいかなかったさ。」勝又は笑った。

「・・・・勝又!!医者だ・・・・!!!」大吾は血相を変えて叫んだ。そして勝又の身体を抱えようとした。だが。勝又は、自分に触れようとした大吾の身体を突き飛ばした。

「・・・・・民間人の世話にはならん。これは、俺の仕事だ。」

「・・・・・このままじゃ、出血多量で死ぬぞ!!!意地を張るな!!」

「だから、どけよ。」

 勝又は、もう一本タバコに火を点けると、大吾の肩を押しやって傷を片手で抑えるとゆらりと歩き始めた。

「勝又!!!」その様子を見ていた平蔵は、勝又のケガよりも、大吾の必死の形相に驚いた。どちらかというと天敵。宗方組にとっては、死んでくれた方が有難い存在だと思っていたから。

「・・・俺よりぼうやを診てやれ。精神的な後遺症があるからな。零やジョウに恨まれるのはゴメンだぜ。」

 たばこをふかしながら、勝又は小さく笑う。

「・・・・勝又。頼む。」大吾は請わんばかりに、顔を歪めた。

「医者には行く。心配するな。俺は、プロだぜ。」

「・・・・・・・・・土下座しろと言っていたな。」

 大吾はそう言うと、地面に膝を付いた。

「・・・・・叔父貴・・・。」

 平蔵は。今度こそ仰天した。一体、何が起こっているんだ。そりゃ、平蔵は勝又に生命を助けられたが。確かに大吾は恩を感じているのだろうが。

 

 

「・・・・勝又。俺に医者に連れて行かせてくれ・・・・。」大吾は真剣な顔で、手を突こうとした。

「・・・・うわあ。男らしいなあ、櫻。」

 だが。勝又は笑いながら平蔵を見下ろした。

「・・・・・俺は、お前のそういうトコロが心底嫌いだよ。どんな無様(ぶざま)な真似をさせても、妙にカッコ良いからな。」

 本当に憎々しげな勝又の言葉。大吾は一瞬眉を寄せた。だが次の瞬間には、小さく笑う。

「・・・・・・・・。何だ、勝又?もしかして俺に惚れたか?」

「・・・・これだ。あきれるぜ。大体、てめえなんぞに心配してもらわなくても、何で、こんなバカ餓鬼のために俺が死ななきゃならん。」

「ば・・・がかがき・・・・。」

 平蔵は、ため息を吐いた。だが、今回はそう言われても仕方無い。

 勝又は鼻を鳴らした。

「貸しはいずれ、しっかりと返してもらう。それなりのカタチでな。」

 勝又は。最後に底冷えのするような眼差しを大吾に向けると。

 素早く踵を返した。歩くすぐ先に、ダーク系のベンツが停まり、勝又はすぐにそれに乗り込んだ。宮内庁の車だろうか。

「・・・・・宮内庁って・・・・。」平蔵は、そのベンツが走り去るのを見送りながら、呆然と呟いた。

「・・・・・・・。」

 大吾は立ち上がった。

「・・・・世の中は、イロイロな局面を持っている。自分たちに見える世界も。そうでない世界も。」

 大吾は平蔵を振り返った。

「しかし。都合良く勝又が現れたモンだな。ついていたじゃねえか。」

 それは、大吾の本音だった。勝又が居なければ、多分今頃平蔵は生きてはいない。

「いや・・・・・。多分。」

 平蔵はうなじに手を当てた。

 大吾は訝しげな顔をして、平蔵のうなじに指を這わせた。赤いうっ血のアトが残っていた。

「・・・・・・・これは?」

「オトトイの晩。勝又がイキナリ吸い付きやがったんだ。その時は腹立ったけど。多分・・・。さっき結界だとか何とか言っていたから・・・・。これのコトだったんじゃないかと。」

 自分を喰おうとした、ケルベロスが、いきなり悲鳴を上げて離れていった。その理由は、これしか考えられなかった。そして理屈は分からないが、多分これにケルベロスの息が罹ったから、勝又はヤツの居場所が分かったのだろう。

 お前を助けに来た訳じゃねえ。

 勝又はそう言った。確かにそうだろう。だが。

 このマークを。何故つけた。

「・・・俺を。護ろうとしてくれてたのかな。・・・ジョウの関係者だから?それとも別の・・・・い、イテエッ!!何だよ、叔父貴っ!?」

「・・・・・・・。あ。すまん。」

 大吾は、少し力を入れ過ぎたらしい指先を。平蔵の項(うなじ)から外した。

「あいつ。何で、俺を助けてくれたのかな?勝又って、本当はジョウの親父さん以外はどうなっても良いと思っているんだろ?」

「・・・さあな。あいつは気まぐれな野郎だからな。だが多分俺に嫌がらせをするためなら、何でもする男だから、良い貸しが出来たと思ったんだろう。」

(・・・・それが、一番妥当な考えだ。)

 大吾は微かに笑うと、勝又が去った方向にもう一度目を向けた。そして、夜空を見上げる。

(ちゃっちゃと。医者に行けよ。勝又。)

 6万年振りに地球に恐ろしく近付いているらしい。赤い星が、ハッキリくっきり見える。

(・・・・6万年も経てば、お前も少しは・・・・。)

 大吾は、自分のコトをとことん嫌っている童顔の天使のコトを思って、小さく溜め息を漏らした。

 

 

「・・・・なあ。叔父貴とあの男って。ジョウの親父さんを挟んだ恋敵(こいがたき)なのか?」

 平蔵が躊躇いがちに大吾に声を掛けて来た。

「何でだ?俺は零一朗の親友だぞ。何であんな男の恋敵なんぞにならにゃならんのだ?格が違うわ。」

「・・・・・・だって。勝又は、どう見てもそのつもりだろ?ビンビン敵意が伝わってくるぜ。何だかんだ言っても、叔父貴からも・・・・。」

「・・・・俺は、そんな気はねえ。勝又がどう思っているなんて知るか。あんな複雑怪奇な男の考えているコトなんか。考えるだけ無駄だ。」

 大吾は、不愉快そうに吐き捨てた。

 そして。とっとと帰るぞと、平蔵に言うと背を向けた。

 実際のトコロ。

 大吾は、これから勝又が自分か宗方組に、どんな無理難題を吹っ掛けてくるかと考えるとそっちの方が気が重かった。

 勝又はやると言ったら、必ずやる。

 大吾は、重い溜め息を吐いた。そして。

「・・・・・何にしろ。6万年は長過ぎるだろう・・・・。」

 大吾は、もう一度夜空を見上げて小声で呟いた。それから顔を顰めると、車に乗り込んだ。

 

−fin−

 2003.09.11

 

 うーん。ちょっと「節分企画」よりになっちまったかも。でもtrial系列なので、皆様、アマリ気にしないで下さいね(笑)。