いつか王子さまが

 子供の頃。
 (たつる)の家の近所には、お(ひい)さまが住んでいた。
 名前を、彩子(さいこ)といった。

 彩子は元々は、関西に住んでいたらしいが。建が小学校に上がった年に、3件隣にある安アパートに母親と一緒に越してきた。建より一つ年上だった彩子は。カラスの濡れ羽色の黒髪。大きな真っ黒な黒目勝ちの瞳。小さな赤い唇。彩子は。姉が大事にしていて、建が触ると張り飛ばされる日本人形を思わせる、物凄い美少女だった。
 初めて会った時から。建たち近所の悪童どもは、見た事も無いほど綺麗だった彼女の気を引きたくて、必死で彼女を苛めた。長い黒髪を引っ張る。彼女が持っている人形やぬいぐるみを取り上げる。
 だが結果は。
 姿に似合わず、恐ろしく気が強く、また喧嘩(苛められ?)慣れしていた彩子に。俺たちは一人残らず取っ組み合いで敗れ、泣かされ、子分にされた。
「これから、アタシのことはお(ひい)さまと呼ぶんやっ!ええなっ!!」
 そう命令されたが。建たちは嬉々ととして従ったように思う。綺麗な綺麗な彩子。彼女は本物の姫のようだった。
 彩子が来るまでは、近所のガキ大将だった建は。いつの間にか彼女の一の子分で。正直、あの頃は、本気で彼女を崇め奉っていたと思う。彼女の言うことなら、何でも聞いた。建にとって、この明るく強く美しい一つ年上の少女は、誰よりも大切な存在だった。

 彩子の家は、貧しかった。父親は、最初から居なかったと彩子は言っていた。母親は、明らかな水商売のまだ若い綺麗な女で、一人で居るととても娘が居るようには見えなかった。いや。見えないだけではなくて、本当に母親の資格が無いようなオンナだった。彩子は、彼女の機嫌しだいで、殴られ、蹴られ。綺麗な顔も細い身体も、いつも痣だらけだった。ひっきりなしに引っ張り込む男たちが、アパートに居る間は、雪が降ろうがなんだろうが、小さなアパートから追い出されていた。食事も殆んどもらえなかったらしく、いつもお腹を空かせていた。建はこっそり、食事の残りを握り飯にして、いつも彼女が居る公園に持っていってやったりしていた。
「ええのんよ。」
 建の持っていった白米だけの不恰好な握り飯を、公園の水のみ場の水で流し込みながら、彩子は、綺麗な顔で建に向かって笑ってみせた。
「ええのんよ。いつか、ウチには王子様が現れるんや。王子様が現れて、ウチを幸せにしてくれるんや。」
「・・・シンデレラみたいに?」建の言葉に。
「そうや。ウチはこんなに美人なんやさかい、シンデレラになれるんやよ。オンナは顔や。」
 彩子は、馬鹿な子供に言い聞かせるように、そう言った。建は、彩子の綺麗な母親は王女様にはなってないとは思ったが。子供ながら賢明にも、口には出さなかった。
「・・・ふうん。」
 建は。
 彩子は、こんなに綺麗だから、本当にそうなるかもしれないと思った。そして。少しだけ。
 彼女の王子様が。自分だったら良いのに。と、ぼんやりと考えていたことを、覚えている。





 高校を卒業すると同時に、実家の町の小さな酒屋の3代目を継いでもう5年。
 23歳の白井(しらい) (たつる)は、酒店の名前の書いてあるライトバンから、酒の空き瓶を降ろしていた。高校時代はそれなりにヤンチャもして、近所にも迷惑を掛けた建であったが。酒屋を継いでからは、安売りの酒の量販店に押されながらもキメ細かなサービスで、必死にこの小さな町の酒店を守ろうと働いてきた建を、近所の人たちは認めてくれるようになっていた。
 今日も。何やかやで午後2時を超えても昼食を食べる暇も無く働いていた。その時。
「おい。(たつる)。」
 背後から誰かが、この上も無く偉そうな口調で声を掛けてきた。
 建は。作業を止めることなく、大きな溜息を吐いた。
「・・・伊織(いおり)か。」
「おお。俺だ。」
 やっぱり偉そうな声が、答える。
「何か用か?ご覧の通り、忙しいんだが。」
 建はしぶしぶ振り返って、その声の主を見た。
「一週間もご無沙汰じゃねえか。今日こそ付き合えよ。メシは喰ったのか?」
 谷崎(たにざき) 伊織(いおり)は、建の背後でやや憮然としながら、彼の姿を眺めていた。
「・・・。」
 建は伊織の姿を見上げた。
 伊織はとにかくでかい男だった。
 身長175センチ、中学・高校時代はサッカーでならし、現在は実家の酒屋で酒瓶を毎日担ぎ、スリムではあってもしっかりと筋肉を付けた身体を有する建でさえ圧倒する、肉体の迫力。
 身長は勿論だが、横幅が凄い。プロレスラーかと思うほどの胸板をしていた。
 着ているのは、高級そうなスーツではあったが、何となく派手派手しい色使い。真っ黒いサングラスに阻まれて表情がマッタク読めない。ツンツンと立ち上がっている強そうな短髪。
 その身体中から、立ち昇っている。隠そうとしても決して隠せないような、精力的な押し付けがましさ。
 これは、あれだ。
 多分、10人中10人が間違いなくそう答えるに違いない。
(ヤの付く職業の方・・・。)
「・・・。店に来るなと言っただろう。営業妨害で訴えるぞ。」
 決して世間の評価は間違っていないと思いながら。建は溜息とともに、三つ年上のこのアタリを仕切っている暴力団谷崎組の跡取り息子に向かって、力なく呟いた。
「携帯にいくら掛けても、テメーが無視するからだろ。」
 伊織は、にやりと笑ってサングラスを外す。現れたのは、アイスブルーの瞳。カラーコンタクトを入れている訳ではない。ばあさんが、スウェーデンの人だったとかで、伊織は実はクォーターなのだ。遠い異国の海を思わせるような、深く暗い青い瞳。そして、日本人離れした端正な彫りの深い美貌。
「・・・。」
 どんなにろくでなしでも、この男が美しいということは認めざるを得なかった。
「彩子も会いたがってる。お前、このトコロ彩子に顔見せてないだろ。」
「・・・。」
 彩子が会いたがっている。
 これがこの男の、建に対する伝家の宝刀だった。こう言われてしまっては、建は伊織の誘いを断ることは出来ない。
 ムカつく事に。
 伊織は。この男は、彩子が選んだ王子様であるのだ。
「・・・。」
 建は大きく何度目かの溜息を吐いた。


 伊織と彩子は。彩子が16歳になるのを待って結婚した。
 学生時代から。
 谷崎組の跡取りとして、組の名に恥じることのない凄まじい暴力でその名前を轟かせていた伊織と。彩子が、どこでどういう風に出会ったのかを建は知らない。
 だが。中学一年生の時には、既にホトンド学校には来なくなり、繁華街で身体を売っているらしいと近所で噂されていた彩子と、暴力団の跡取りで凄い不良だった伊織とは、どこかで接点があったとしても不思議ではない。
 とにかく二人はどこかで出会い、恋に落ち結ばれた。幼い頃から、家庭というモノに縁の無かった彩子は、伊織と出会って、少なくとも帰る家を与えられたのだった。
 建を始め彩子の子分だった幼馴染たちは全員、結婚式に招待された。出席したのは建だけであったが。
 式は。谷崎組の名に恥じることのない、豪勢なモノだった。招待客は、何百人という単位だった。テレビで見掛ける国会議員やタレントも多く出席していた。勿論、筋関係らしい人間も多く、異様な雰囲気に圧倒された建は、震えながら小さくなって席に着いていた。
 彩子の側の招待客は。建を含めても10人に満たないようで、皆やっぱり雰囲気に圧倒され小さくなっていた。建はまだ15歳だったが。これでは彩子は肩身が狭いのではないかと、幼い胸を痛めた。
 だが。ひな壇で伊織の逞しい腕に手を絡めて微笑む彩子は、今まで見たどんな時よりも美しく、幸せそうだった。
 そして、その席で。建は伊織に彩子から一の子分だと紹介され。その日、新婚夫婦が泊まる豪華なスイートルームに招待され、高級ホテルのスイートルームを一目見てみたいという子供っぽい好奇心に勝てずに付いていってしまったそのホテルで。新婚夫婦が初夜を迎えるハズのベッドの上で。

 まだ15歳だった建は、18歳の伊織に強姦されたのだった。

『嫌だ。イヤダッ!!!彩子、助けてっ!!!』
 ベッドの上で、泣き叫ぶ建の髪を優しく撫でながら。
『ごめんなあ、建。けどあんたやったら、伊織も気に入るやろと思うたんや。我慢したって。痛いのは最初だけや。伊織は上手やさかい、スグ気持ちようなるで。なあ?』
『・・・っ!!』
 伊織はニヤリと笑うと。建を抱きながら。建の上で、彩子に熱烈なキスをした。
『彩子。彩子』
 伊織は建を抱きながら、彩子の名を呼んだ。
 訳が分からなかった。
 何故、自分がこんなメに遭うのか。
『・・・。』
 伊織に散々好きにされ、ぐちゃぐちゃのドロドロにされて、ベッドの上で混乱して涙をボロボロ零している建を。今度は彩子が優しく抱いた。いつの間にか、彩子は全裸になっていた。
 伊織はベッドには居なかった。シャワーを浴びに行ったらしかった。
 柔らかく良い匂いのする真っ白な肌。建が、死ぬほど焦がれていたモノ。
『建。可愛いなあ。大好きやで。』
 彩子は建にキスしながら、そう言った。
『彩子。何で?何で?彩子?』
 建は寝返りを打つだけで、激痛の走る身体を庇いながら、彩子の目を覗き込んだ。彩子は我が侭で自分勝手なオンナだったが。子分を無意味に痛めつけたりすることは無かった。いや。敵からは身体を張って守ってくれる親分だった。オトコなのに自分を犯した伊織は勿論だが、酷い目に遭っている自分を彩子が助けてくれなかったコトが、建には信じられなかった。
『建が好きやからや。建やったら、きっと伊織も好きになってくれる。』
『好きにって・・・。好きにってどういうコト?俺、嫌だ。オトコ・・・二度とオトコなんかに抱かれたくない・・・。』
『ごめんなあ。あんたは、オンナも知らんかったやろうに。けどなあ。伊織は、あんたを抱きながら、アタシを抱いとるんや。これからも我慢したって。ちゃんと気持ち良うもしてもらったやろ?それに。なあ、アタシのこと好きやろ?』
 抱きしめてくる、柔い身体。豊かな胸。
『これから、アタシを抱いて良いのは。建だけや。建と伊織だけや。アタシはあんたに抱かれながら、伊織にも抱かれる。建。建。お願いや。』
『彩子』
『伊織にアタシを感じさせてやって。ほんで。アタシにも伊織を感じさせて。』
『彩子。わかんないよ、俺。俺、そんなの分んないよ。伊織が好きなら、伊織以外には抱かれちゃ駄目だ。彩子、そんなの間違っているよう・・・。』
『・・・建は、分からんで良えのや。建は、ホンマにええ子や。真っ直ぐで、真っ白や。全然、歪んでへん。けどな、伊織やアタシは違うんや。伊織はな。アタシを抱けんのや。伊織は生粋のゲイやから。建みたいな可愛いオトコの子やないと、役に立たへんのや。やから。・・・な。建。伊織の熱さを。伊織を熱うさせるモンをアタシにも感じさせて。』
『・・・!!』
 伊織が女性がマッタク駄目な性癖の持ち主だと、建はその時初めて知った。
『・・・伊織はな。前にどっかで建を見たことがあって、ずっと欲しいと思ってたんやて。』
『・・・っ!!・・・まさか!!じゃあ、彩子。今日は最初から、そのつもりで・・・?』
『・・・ごめんなあ。どうしても、あんたの初めての男になりたいて、伊織が言うさかい・・・。』
 それでは。建は、彩子からの伊織への結婚プレゼントだったのではないか。絶望で目の前が真っ暗になった。信頼していた親分が、自分を道具のように扱ったのだ。
『いやだ。そんなのイヤダ。彩子っ。』
 彩子の熱い身体をその身に感じながら。建は泣いた。どれほど嫌だと思っても、身体は正直に反応してしまう。それが哀しくて泣いた。悔しくて涙を零し続けた。
 建は信じられなかった。
 ゲイと結婚する彩子が。ゲイなのに妻をもらう伊織が。だがしかし。

 建は。それからずっと、現在に至るまで。彩子と伊織の愛人という立場であった。
 どれほど拒んだところで。伊織は力で建を思い通りにしたし、彩子を拒むコトは。建にはどうしても出来なかったのだ。


「・・・っ!!あっ!あっ!・・・伊織っ!!よせっ!!いやだ・・・っ!!」
「黙ってろ!!さんざん焦らしやがって・・・。どれだけお預け喰ったと思ってやがる。俺は犬か!?今度、こんな真似をしたら、てめえの店先で、親父やお袋の前で、犯すぞ!!」
「た・・・!!たった一週間・・・!!」
 だが。建の抗議はあっさりとかき消される。
 伊織は乱暴に建のジーンズと下着を剥ぎ取ると、自分はスラックスの前を寛げただけで、荒々しく圧し掛かってきた。
「あっ!!ああっ!!」
 連れて来られた伊織と彩子のマンションで。建は伊織に、有無を言わさず寝室に連れ込まれた。
 飢えたように建に圧し掛かってくる伊織に、組み敷かれ足を開かされ。乱暴に揺さぶられながら建は悲鳴を上げた。
「忘れるなよ。建。てめえは俺のモンだ。俺が初めてこの身体を開いて、ここまでに仕込んだんだ。」
「・・・ううっ・・・。ん・・・!!」
 建は喘ぎながら伊織にしがみ付く。
 圧倒的な力で、自分に圧し入ってくるオトコ。その熱さ。
「・・・っっ!!!」
 建は。その何もかもどうでも良いと思いそうな強さに、涙を流した。
 忘れられない。と。

「・・・あれから。もう8年だ。」
 情事の後のベッドの上で。
 うつ伏せに横たわったまま小さく呟いた建の言葉に、ベッドヘッドに凭れ掛かっている伊織は、咥えたタバコに火をつけながら建を見た。
「うん?」
「あの頃は15歳だったが。俺も。もうオッサンだ。」
「だから?」
「何時まで、俺にこんな真似をする気だ?そろそろ、あんたの守備範囲外だろう?」
「守備範囲かどうか決めるのは、俺だ。それに。彩子が、お前にあきたと言わんコトにはな。」
「あんたは、もう飽きているんじゃねえのか・・・見たよ。銀座で。凄い美少年を連れてたトコ・・・。」
 配達先からの帰り。高級そうな料亭から少年を抱きかかえるように出てきた伊織。まだ十代だろう少年を、大切そうに腕の中に抱いていた。
「何だ。ヤキモチか。可愛いコトも言えるじゃねえか。」
 伊織は形の良い眉を上げると、クククと笑った。
「違う!!あんな愛人が居るんなら、俺はもう必要無いだろうと言いたいんだ。それに・・・。」建は最後まで言えなかった。伊織が遮る。
「怒るなよ。お前は自分の仕事が忙しくて、抱きたい時に居ねえんだから、仕様が無いだろ。だからあんなショボイ店、さっさと畳んで、俺の傍に居りゃ良いんだ。そしたら、あんなガキはお払い箱だ。」
 伊織はタバコを灰皿に苛立たしげに押し当てた。
「・・・。」
 銀座で見た美少年と言っただけで、伊織には誰のコトだか分かったようだった。出入りの激しい伊織のたくさんの恋人たち。今まで、そんなコトは一度も無かった。
「俺は、ヤクザなんかになる気は無いっ!!」建は吐き捨てた。
「ヤクザじゃねえ。俺は青年実業家だ。」伊織が怒鳴り返す。
「・・・っ!!!」
 確かに伊織の肩書きは、組の看板は掲げていないどこかの会社の社長だった。だが。実質がヤクザなのに変わりない。
「酒屋の経営は厳しいだろう?今は量販店が、酒を安売りする時代だからな。」
「うるせえ。」
「あの立地じゃ、コンビニにしても、儲けはタカが知れてるだろうしな。」
「大きなお世話だ。」
 イチイチ口答えする建に、伊織はチッと舌打ちすると憎々しげに睨んだ。
「・・・好きなオンナでも出来たのか?それとも縁談でもあったのか?」
「はあっ!?」
 建はガバリと起き上がると、伊織を見た。
「言っとくがな、建。俺を裏切ったら、ちょん切るぞ。」
「ちょん・・・!?」
「穴さえ有りゃ、コト足りるんだ。」
「・・・っ!!!」
 嘘吐けっ!!建は叫びそうになるのを、死に物狂いで絶えた。建のペニスをいつまでも愛おしげに、咥え舐めしゃぶり。いつまでもその手で弄んでいるのは、どこの誰だ、と。言いそうだった。
 建は息を整えて、言った。
「俺はっ・・・!!彩子のコトをもっと考えてやれと言っているんだっ。」
「・・・。」
 伊織は、一瞬眉間に皺をよせて、建を見た。
「・・・。」
 建がドキリとする眼差し。そのブルーの奥に微かに揺れる光に。建はいつも落ち着かない気分にさせられた。
「俺をおもちゃにして・・・。他にも愛人が居る・・・。彩子がどんな気持ちか・・・。少しは考えてやれよっ!!」
「・・・。他の愛人は皆、遊びだ。彩子が嫌だと言うなら、スグ切るさ。」
 伊織はそう言うと、ベッドから降りた。バスルームに向かう伊織の裸の逞しい背中に、建は声を掛ける。
「・・・彩子の具合は、どうなんだ?」
「あんまり良くない。先週アタリから、ホトンド部屋で寝てる。」
「・・・。」
 彩子は。
 幼い頃、食事も満足にさせてもらっていなかった。そして、虐待もされていた。彩子に聞いたコトは一度も無いが。多分、母親が引っ張り込んだオトコたちの何人かにも。性的な虐待を受けていたと思う。
 そのせいなのか、どうか。
 いや。繁華街で身体を売っていると言われていた頃には、生活は乱れに乱れ、酒タバコ、シンナーは勿論、何かのクスリをやっていると言われていた。それのせいかもしれない。
 20歳を過ぎてから。彩子は、寝込むことが多くなった。
 真っ白な肌は、透き通るようで。あれほど強く逞しく生きていた彩子は。
 儚くなってしまった。
 建が握ると。折れそうなほど細い手首。
 伊織の子供を生もうと。必死で行った人工授精も、彩子の身体には良くなかったのかもしれない。

「何故。お前の子を仕込まない。」
 伊織は、建に何度もそう言った。
「お前の子なら、俺は大事に育てる。オトコでもオンナでも、きっと物凄く可愛いだろう。」
 だが、それでは意味は無い、と建は思っていた。
 彩子にとっては。
 伊織の子で無ければ、誰の子でも同じ。建の子ならややマシ程度に過ぎないのだと。

「建に会いたがるんだ。もう少し、マメに顔を出してやれ。」
 伊織は少しだけ振り返ってそう言うと、そのままバスルームに向かった。
「・・・。」
 10代の頃から狂犬と言われるほど荒い気性で知られていた伊織だが。彩子には本当に優しかった。多分お気に入りという位置付けの建でさえ、何でも無いような理由で、親にも見分けが付かないほどの顔になるまで殴られるコトもしょっちゅうだったが。彩子には、伊織は一度も手を上げたコトが無い。彩子がどんな我が侭を言おうと、いつも慈しむような笑顔を浮かべ、彩子をギュッと抱きしめるのだ。彩子が拗ねている時は、言葉を尽くして機嫌を取り、キスをする。彩子との子供を本当に望んでいたのも、建は知っている。
「・・・。」
 深い強い愛情が。決して身体を合わせるコトの無い二人の間には確かに流れているのだ。そして。
「・・・。」
 そんな二人を見続けるコトに。建は限界を感じていた。
 建はもう何も分からなかった15歳の子供ではない。何も言わずにここにいることは、自分でその立場を選択したコトになるだろう。そんな自分にはなりたくなかった。
「・・・。」
 そして、本当は分かっていた。伊織は確かに建に執着しているが、建が本気で逃げようとしたならば、最後には追っては来ないだろうというコトを。


「・・・来てたんや。」
 彩子はベッドの上で。その白い頬に笑みを浮かべた。
 真っ黒な大きな瞳。赤い小さな唇。光に融けてしまいそうな透明感をたたえる彩子は、益々綺麗になっていく。
「伊織には、会うたんか・・・?」
「ああ。伊織に連れて来られた。彩子が会いたがっているからと、店先から拉致された。」
「あはは。ごめんな。伊織も会いたかったんやろ。最近、来てくれへんから・・・。こっち来てえな、建。」
 彩子が、建に向かって細い腕を差し伸べる。
 伊織には俺でなくても居る、という言葉を噛み締めて、建は彩子の隣に滑り込んだ。
「・・・。伊織は仕事が残っていると言って、さっき出掛けたよ。」
「ほうか。伊織も夜は、出来るだけ傍に居ってくれるんやけど。今日は建が居るから、出掛けたんやな。」
「・・・。」
 建は、彩子の肩口に鼻を摺り寄せた。
「何や。甘えん坊さんになっとるな。」
 彩子が優しく微笑む。
「彩子は。相変わらず良い匂いだな。」
「・・・ほうか?」
「俺も。伊織も歳を取って醜くなってしまったけれど。彩子だけは、綺麗なまんまだ・・・。」
「・・・。アホやな。アタシみたいなオンナが綺麗な訳ないやろ。綺麗なのは、建や。建だけが、子供のコロの綺麗なまんまや。」
「彩子。」
「・・・アタシと伊織が。一生懸命、守ってきたんや。」
「・・・。」
 そんなコトは無い。
 建は泣きたい気分で、そう思った。人を憎むコトも。恨む事も。羨むことも。俺は覚えた。
「彩子。俺今日、ここに泊まっていって良いか・・・?」
「勿論や・・・。」
 彩子はまるで聖母のように微笑んだ。ずるいと分かっていても、建はその温かさに縋る。
「久しぶりに。()よか。」
 悪戯っぽく笑いながら、自分の着ているシルクのパジャマのボタンを外し始める彩子を。
「・・・。」
 建はしっかりと抱き締めた。


 夜半だった。
「・・・。」
 彩子を腕に抱きしめて眠っていた建は。
 他人の気配に目を覚ました。
「・・・。」
 背後を振り返る。
 部屋のドアの傍で。ベッドの上の二人を見詰めている伊織の姿が目に入った。明かりを点けていないから、伊織の表情は読めない。だが。
 この数年。時折見る、伊織の瞳に浮かぶ独占欲のようなモノの気配を、建は感じた。彩子に感じているのか、建に感じているのかは分からなかったが。
「・・・伊織・・?」
「ああ。」
「仕事、終わったのか?」
「ああ。」
「・・・お前もココで寝るか?」
「・・・。」
 建の言葉に、伊織は答えなかったが。無言で、スーツを脱ぎ始めた。
 全裸になって建の背後に身体を滑り込ませると、建に。そして建ごと彩子の身体に腕を回した。
「彩子と寝たのか?」
「・・・。」
「搾り取ったつもりだったが、余力があったとみえるな。」
「・・・伊織。」
 伊織が背後から、建の身体に手を這わせ始める。
「ヤメロ、伊織。」
「拒む言葉は、いい加減聴き飽きた。」
 伊織はそう言うと、建の顎に手を掛け、無理矢理振り向かせて唇を合わせた。
「・・・伊織。勘弁してくれ。もう、無理だ。」
 口腔を開放されて、建が呟く。
「俺は平気だ。眠いなら、寝てろ。」
 そう言いながら、建の尻の割れ目をまさぐる。
「・・・伊織・・・。」
 建の身体を知り尽くした愛撫に、自然に息が上がる。
「・・・彩子が、起きる・・・。」
 建はのけぞりながら、腕の中の彩子を見る。
「・・・。」
 彩子は大きな目を開いて、建を見ていた。
「・・・彩子・・・。」
「・・・建。」
 彩子は建の唇に吸い付いてきた。
「・・・ん・・・。」
 八年間の間に。
 こうしたセックスが無かったとは言わないが。
「・・・ああ・・・。」
 彩子が建のペニスに触れる。
「んん・・・。」
 ほぼ同時に。
 伊織が建の中に入ってきた。昼間充分潤されたそれ(・・)は。ホトンド抵抗を示さない。
「・・・建・・・。」
 前立腺を刺激され。立ち上がってきた建のものを、彩子は自らの体内(なか)に導く。
「・・・ん。んんっ・・・。」
「・・・いお・・・り・・・。」
 喘ぐ彩子の声が聞こえる。
 伊織。
「・・・。」
 彩子の王子さま。
 建は泣きたい思いで、唇を噛んだ。
「・・・彩子。」
 彩子に呼応するように、自分の身体越しに、彩子の頬に触れる、伊織の逞しい腕を感じる。
「・・・ああ・・・っ・・・。」
 伊織の突き上げと同時に揺れる身体から漏らす、彩子の艶かしい喘ぎ声。
「・・・好きや。好きや・・・っ。」
「俺もだ・・・。俺も、愛している。」
「・・・。」二人の声を耳元で聞きながら。
 建は。醒めていく自分を感じていた。
「・・・ハッ。ハッ・・・。」
 伊織の刻むピッチが、限界を教えるように早くなる。
「・・・抜け・・・。」
 建は唇を噛んで、そう言った。
「ハッ・・・。なに・・・?」
 建の腰を掴む伊織の腕を振り払う。
「抜くんだっ!!!伊織っ!!!」
 叫んだ時には、建は体勢を入れ替えていた。
「建っ!?」
「・・・!!!」
 伊織の身体を背後から抱くと。
「ああああああっ!!!!」
 そんな力が、どこから出たのかは分からない。
「・・・っ!!!」
 腕に抱いていた彩子ごと、大きな伊織の身体を抱き込んだ。
「さ・・・さいこっ・・・!!!」
「ああ。・・・ああ、伊織。」
 二人はしっかり抱き合った。
「・・・っ!!!」
 フィニッシュ直前だった、伊織が大きく身を震わせて、彩子の中にスペルマを放出する。
「・・・伊織っ・・・・!!!」
 彩子の悲鳴に近い声が。
 歓喜の声が。
 その瞬間。寝室に響いた。




「子供を見に来て欲しいと、社長夫婦が申しております。」
「・・・。」
 店先に久々に現れたベンツから降りてきたオトコは。
 伊織と同じ種類の人間だったが、伊織では無かった。どことなく見覚えのある男ではあったが、伊織では無かった。かつて。伊織が建を迎えに来るのを人任せにしたことは、一度も無かった。
 あれから一年近く。
 二人から連絡は無かった。建も連絡をしなかった。特に会いたいとも思わなかったから。いや、会いたくなかったというのが本音かもしれない。
「・・・。」
 かつては一週間会わなかっただけで、あれほど文句を言っていた伊織も。この決して短くは無い期間。何も言ってこなかった。
「・・・生まれたのか。」
 建は複雑な気分で、呟いた。
「はい。男の子です。」
 オトコは嬉しそうだった。伊織の性癖から、子供は望めないと思っていたのだろう。
「・・・。」
 彩子と伊織の子供。建はぼんやりと空を見上げた。


 男に連れてこられたのは、あのマンションでは無かった。谷崎組の本家であった。
「・・・。」
 彩子は。やっと伊織の嫁と認められたのだなと、建は思った。
 本家は華やいでいた。
 跡取り誕生の祝いの品や、お祝いに訪れる客が耐えないようだった。
「・・・?」
 玄関先で擦れ違ったそうした客の一人に。建は足を止めた。
「・・・。」
 谷崎組の若い者が回りを固めている相手も足を止めて、建を見た。
「・・・建さんですか?」
 綺麗な少年が、建を見ていた。
 高校生だろうか、大学生だろうか。
 学生の匂いがするその少年は、じっと建を見ていた。
「・・・。」
 どこかで見たような、と思ったトコロで思い出した。
 銀座で、伊織の腕の中に居た少年。
 一年近く続いているのか。
 建は力を抜いた。
 伊織の本気が感じ取れた。その瞬間。
「建。」
 屋敷の奥から、聞き慣れた声が響いた。
「よう、来てくれたな。彩子も待ってる。来い。」
「・・・。」
 一年近いブランクなど、屁とも思っていない傲慢な男がそう言って、近づいてきた。
「・・・?」
 そこで始めて、少年の存在に気付いたようだった伊織は。
 少しバツの悪いような顔をした。
「・・・伊織さん。僕は、これで。自分のマンションに帰ります。」
「む・・・。」
 少年の方を見ない伊織に、微かに微笑んで、少年は建を見た。
「それでは、失礼します。」
 少年は頭を下げると、仕えているかのような谷崎組の組員を従えて、廊下を去って行った。
「・・・。男の子だってな。」
 建は少年を見送りながら、傍らの伊織に声を掛けた。
「お?おお。谷崎組の跡取りだ。建、彩子が待っている。」
「うん。」
 建は微笑んで、伊織の後を追った。


(たつる)。」
 母となった彩子は。
 言葉に表せないほど美しかった。
 ありとあらゆる煩悩を削ぎ落とすと、人はこれほど清廉になれるのか。
「見てえな。建。アタシの子や。アタシと伊織と。アンタの子や。」
 彩子は。腕に抱いた赤ん坊を、嬉しそうに建に見せた。
「・・・彩子。」
「可愛いやろ?綺麗やろ?」
「うん。」
 ほんとは。生まれたての赤子は、正直、真っ赤で猿みたいだった。だが。
 彩子が産んだというだけで。どうしてこんなにも、愛おしいのだろう。
「・・・。」
 建は、目頭が熱くなるのを抑えるコトが出来なかった。
「彩子に似てるよな。」
 彩子と建の背後から、二人を包み込むように腕を回していた伊織が、嬉しそうに呟く。
「伊織にそっくりや。」
 彩子が微笑みながら、答える。建は。
「・・・。」
 今度こそ。
 自分の役割が終わったコトを知った。
「・・・。」
 熱くなった目頭から、涙が一粒零れる。それは熱くはなく、氷のように冷たかったが。
「建。建にも似てるな。」
 彩子は小さな笑みを見せて、左手で建の涙を拭ってくれた。
「・・・。」
 建も、微笑んだ。
 様々な感情が、胸のうちに渦巻く。だが。嬉しいのも事実なのだ。幸福なのも本当なのだ。
「彩子。おめでとう。お母さんに、なったな。」
「・・・。」
 この瞬間の。
 彩子の聖母のような笑みを。建は生涯忘れまいと、心に刻んだ。

「・・・伊織さん。」
 組の人間が伊織を呼んだ。
「・・・。」
 無言で席を外す伊織を。
 建は、じっと見詰めた。
「・・・建・・・?」
 彩子は、付き合いが長いだけに、建の異変に気付いたようだった。微かに美しい眉を寄せる。
「・・・彩子。俺も・・・。子供が欲しくなったよ。」
「・・・。」
「・・・だから。俺を、二人から開放してくれないか・・・?」
「建。」
「・・・スグじゃ無くても。俺も、彩子に負けないような気立ての良い嫁さんをもらって、子供を作りたい。」
「建。」
「そろそろ、開放してくれないか?」
「・・・。」
 彩子は黙って俯いた。
「・・・彩子。」
「・・・。」
 彩子は唇を噛んでいた。
 だが。顔を上げた時には、微笑んでいた。
「・・・せやな。建を・・・。建がそう望むなら・・・。」
「・・・。」
「心配しな。伊織には・・・。アタシの目の黒いウチにはあんたに指一本触れさせへん。」
「彩子。」
「幸せになってな、建。あんたは・・・。アタシの天使やった。」
「て・・・天使・・・?」建はさすがに目を剥いた。彩子は微笑む。
「あの公園で。あんたにもろた握り飯。あんな旨いモノ。アタシは食べたコトあらへん。生涯で一番温こうて、一番美味しかった。ホンマに。ほんまに美味しかった。」
「・・・。」
 冷や飯の握り飯。子供だった建は、塩をまぶす知恵さえ無かった。
「建。あんたのお陰で。あんたが、アタシを見捨てんでくれたから。アタシは生きてこられた。ありがとう。」
 彩子はその細い腕で。
 折れそうなほど儚い手で。
 建を力いっぱい抱き締めてくれた。
「さ・・・いこ。」
 その命を。
 永久に未来へと紡ぐ、母の手で。
「愛しとるで。ホンマや。伊織は、アタシに帰る家をくれたけど、アタシに生きる糧をくれたんは、アンタや。アンタはほんま。」
 アタシの天使やった。
「・・・。」
 伊織が戻る前に、帰れという彩子の言葉に従って。
 屋敷をアトにした建は。
 涙を零した。声をあげて号泣した。
 彩子。彩子。お前こそ。―――――

 俺の女神だった。




 彩子が、その短か過ぎる生涯を閉じたと聞いたのは。それから半年後のコトだった。
 建は驚かなかった。彩子は命を懸けて子供を生んだのだと、わかっていた。その尽きる前の命の最後の炎を。彩子は子供に与えたのだ。もう二度と生きては会えないだろうと。あの時二人とも分かっていた。
「・・・。」
 彩子の言葉通り。伊織はその半年間、建に何も言って来なかった。それは、他に愛しむ存在が出来ていたからかもしれないが。

 谷崎組あげての彩子の豪華な葬儀に、建は出席した。
 ガキの頃。
 彩子の子分だった人間をほぼ全員、斎場で建は目にした。
 言葉を交わすことは無くても。見交わす目に。彼らの万感の思いが伝わってきた。
 彩子は。
 本当に頼もしく子分思いの素晴らしい親分で、子分皆の憧れで自慢のお(ひい)さまだったのだ。


 焼香を終えた建を。
 どこか、見覚えのある男が呼び止めた。
「伊織さんが、お話したいと・・・。」
「・・・。」
 拒む理由は思いつかなかった。

 屋敷の奥まった座敷で。
 淡い光に照らされて、伊織が座っていた。
 胡坐の間に、赤ん坊を抱いていた。
「・・・似合わねえーー。」
 建の言葉に。
「うるせえ。」
 伊織は苦虫を噛み潰したような顔で、言った。その赤子を建は覗き込んだ。
「・・・。」
 母の死も知らず。赤子は皆に愛されて、すやすやと眠っていた。
「俺が見るときはいつも、寝てるな。」
 微笑む建を、伊織は真面目な顔で見た。
「・・・目の色が見たいか?」
「いや・・・。」
 実際のトコロ。伊織の子か建の子かは、五分五分だと建は思っていた。だが。どうでも良い。この子は彩子が産んだのだ。
「・・・どうでも良いよ。」
「ああ。俺もどうでも良い。この子は、俺とお前と彩子の子だ。」
「・・・。」
「お前は、彩子の天使だった。俺は夫で父親だった。そしてこの子は。」
「・・・彩子の王子さまだ。」
 伊織の言葉を遮って、建は呟いた。
「・・・。」
 伊織は優しいまなざしを、建に充てた。
「王子が来て、彩子を幸せにしてくれるんだと、彩子はずっと言っていた。そして。王子がやって来て、彩子は幸せになったんだ。」
「ああ。」
「良かった。」
「ああ。」
 オトコ二人は、眠る赤ん坊を見詰めて、微笑んだ。
「・・・建。彩子が妊娠している間お前に会わなかったのは。醜くなった身体を見せたくなかったからだ。俺は醜いなど思いもしなかったが、お前の前ではいつも綺麗でいたかったらしい。」
「・・・」
「俺はとんだトバッチリだ。伊織だけ会うのはズルイと言われてな。」
「・・・。」
 建は目を閉じた。
 女は刹那を生き、その生命を永劫に伝え続ける。男には決して成せないコトを成す。
(彩子。)
 声にならない声で、その名を呼んだ。

(たつる)。」
 どこか緊張を孕んだ、その声に。建は目を開いた。
「・・・。」
 見たことも無い真剣な顔で、伊織は建を見ていた。
「戻って来い。」
 建も、真剣に伊織の目を見た。アイスブルーの深い瞳。その真意を知りたいと願ったのは、いつだったろう。
「・・・彩子はもう、どこにも居ないのに?」
「俺が居る。」
「・・・。」
 建は小さく笑った。
「俺が信じられないのか?」
「信じたコトなど、一度も無いさ。」
 ただ。愛しただけだ。
 建は目を閉じた。
「言葉にすれば、信じられるのか?」
「・・・安っぽく聞こえるよ。」
(たつる)。」
「・・・。」
 無言の建に苛立つように伊織は一つ舌打ちをした。そして。
「俺は。お前が中学生だった頃に、お前を初めて見た。」
 小さな声で呟いた。
「・・・。」
 建は顔を上げて、伊織を見た。
「悪ガキそのものだったな。」
「何だよ、それ。」建は苦笑した。
「眩しいほどだった。」
 伊織はそう言うと、本当に眩しそうに瞳を眇めた。
「・・・。」
「一目惚れだった。」
「・・・。」
(たつる)。」
「・・・。」
「戻って来い。」
「・・・。」
 建は笑った。笑って、伊織を見た。
「俺の傍に、居ろ。」
 その傲慢な男はそう言って、しぶとそうな笑みを唇に掃いた。
「・・・居て、どうする?」
「それなら、いつでも抱ける。」
「舐めてんのか?」
 アマリの身勝手な言い様に、建は眉間に皺を寄せた。だが。
「舐めたいのさ。」
 伊織はしれっと、呟いた。
「・・・。」
 建の身体が震える。
「手元に置いて、ずっと舐め回していてえ。」
 伊織の建を見る目が告げていた。本気だと。
「・・・。」
 言葉を失ったのは。
 背筋が震えたからだった。だが。
「・・・無理だ。」
 搾り出すように、そう言った。
 何故か。
 嫌だとは、言えなかった。
「・・・こう見えても。酒屋の社長なんでね。」
「・・・。」
 伊織の拳が震えるのが見えた。唇を噛んで建を見るその表情に、建は2、3発は殴られるかもしれないと覚悟した。だが。
「・・・。」
 伊織は溜息を吐くと、寂しそうに微笑んだ。目じりに浮かんだ笑い皺を。建は必死の思いで見詰めた。もう二度と。恐らく生涯二度と出会うことのない。恋を。目に焼き付けるように。
「・・・。」
 建は、ゆっくり立ち上がった。
「・・・さよなら。」
 建の言葉に、伊織は一瞬、顔を強張らせた。それに気付かない振りで、建は伊織と赤ん坊に背を向けた。
「・・・・行くな、建。」
 背後から。伊織の唸るような声が聞こえた。
「行かせねえ・・・。」
 建が障子を開いて部屋を出ようとした時。
 その声に呼応するように、伊織の部下らしいオトコ達が、建の前の廊下を塞いだ。だが。
 建は小さく笑った。笑って少しだけ伊織を振り返った。
「・・・。」
 振り返って、丁寧に頭を下げた。
「・・・。」
 伊織は建を見詰めたまま、何も言わなかった。
 建は頭を上げると、何事も無かったように廊下に足を踏み出した。建の背後の伊織の顔を伺っていたらしいオトコたちが、今度は素直に道を空けてくれた。
「・・・。」
 伊織にも分かっているのだ。
 建が自分で立ち止まらなくては意味が無いというコトを。力づくで何とかなるのならトウにやっている。
 だが、建は立ち止まらなかった。粛々と足を進める。
 その瞬間。
 背後から。

「ぎゃぁあーーーーーーっっ!!!」


 まさに火の点いたような」赤ん坊の泣き声が、轟き渡る。
「・・・。」
 建は苦笑した。
 さっきまで、あんなにすやすや眠っていたのに。
 伊織が足でも(つね)ったに違いない。微妙に姑息なオトコだ。
「・・・。」
 だが、建は足を止めなかった。真っ直ぐに玄関に向かう。伊織は追って来なかった。
「・・・。」
 玄関で。組の若い者が用意してくれた靴べらを使って革靴を履くと、建は躊躇無く外に出た。
 古い日本家屋の暗さに慣れた目に、秋晴れの日差しは眩しくて、一瞬、目が眩んだ。


「・・・(たつる)さん?」
 玄関先で立ち尽くしていた建は、声の方に目をやった。
「・・・?」
 綺麗な少年が、澄んだ瞳で建を見ていた。
「・・・。」
「二度目ですね。ボクは、伊織さんの・・・。」
 誰だかスグに分かった。
 銀座で、伊織の腕の中に居た少年。
「・・・。」
 口ごもった少年に、建は頷いて微笑んだ。
「知っているよ。前に一緒のトコロを見た。」
「そうですか。」
「・・・。」
「伊織さんは。僕と初めて会った時、『建』に似ているなと言いました。」
 少年の言葉に、建は吹き出してしまった。
「・・・似てねーよ。これっぽっちも。どこが、似てるんだよ。」
 建は笑った。こんな美少年と自分の、一体どこが似ているのだ。伊織の頭は腐ってる。
「僕もそう思います。だけど、伊織さんには、僕と若いときの貴方は似ているように見えたみたいです。」
「・・・。目がどーかしてる。もう耄碌しやがったのか。」
 笑う建を。少年は真剣な表情で見ていた。
「・・・伊織さんは。貴方のことを・・・。」
 建は少年の言葉を遮った。
「・・・伊織を。頼むな。」
「・・・。」
 少年の綺麗な目が見開かれる。
「ろくでなしの極道だけどな。」
「・・・。」
「ちょっとだけ、良いトコロもある。」
「・・・。」
 少年は唇を噛んで俯いた。
「・・・。」
 建は無言で、少年に背を向けた。


 白い砂利道を、建は無言で進んだ。
「・・・。」
 何も考えなかった。ただただ。足元の白い砂利を見詰めていた。
「・・・。」
 建は。何故だかぼやけていく視界に首を傾げながら、小さく鼻をすすった。鼻を啜って初めて。建は自分が泣いているコトに気付いた。
「・・・。」
 建は笑った。泣きながら。そして、小さな溜め息をひとつ吐く。
 彩子。俺は、後悔はしていない。―――
「・・・。」
 だが、頬を伝う涙を拭おうとは思わなかった。
 流れる涙はそのままに、建は空を見上げた。ぬけるような青空。彩子を送るには相応しい。
「・・・。」
 建は目を閉じた。
 そして小さな声で、鼻歌を口ずさみ始めた。

 ディズニーのアニメで有名なその曲。
 『Some Day my Prince will Come − いつか王子様が−』


 それは。
 (たつる)の。
 大切なお(ひい)さまに捧げる。最初で最後の。

 鎮魂歌(ラブ・ソング)

−fin−

2004.11.11

 いやはや。3Pは難しかった(←注:そんなリクエストでは無いっ!!笑)
 いやホントは詳細はリクエストとは違うのですが。ごめんなさい。ある程度アレンジして下さいというお言葉に甘えました。下房さま、気に入って頂ければ、幸いですが。
 風邪を引いてしまって、予定より一週間ほど遅れてしまいました。皆様にご心配をお掛けしてしまったようで、メールいろいろ有難うございました。

 しかし。やはりリクエストをもらうと、自分では考え付かないような設定を頂けるので嬉しいです。やっぱり、ヤメラレナイ(笑)。