ろくでなしの神話3.5

 

「名前は?」
 その男に声を掛けたのは、本当にタダの気まぐれに過ぎなかった。



「どうぞどうぞ。辰巳の若ボン。誰ぞ気に入ったコが居りましたら、遠慮無く言って下さい。」
「・・・。」
 自分の両隣には、娘ほどの年齢の胸ばかり大きい女たちを侍らせながら、顔中を笑いで溶け崩した赤ら顔の年配の男が、そう言った。
「・・・。」
 辰巳(たつみ) 雄一郎(ゆういちろう)は、店の中だというのに外していない真っ黒なサングラス越しに儀礼的な笑みを浮かべながら、店の中を見回した。
 わざとであろう。店は退廃的なイメージのあるヨーロッパ調のインテリアで統一されていた。
 店に出ている(・・・・)若い女たちもそういった雰囲気を助長するような服装をしている。クラシカルなピンク色のガーターベルト。古いヨーロッパ映画で見るようなフリルだらけの洋服。ここは。赤ら顔の男が愛人に経営させている非合法の娼館だった。
「・・・。」
 付き合いとは言え、辰巳は正直。うんざりだった。
 辰巳は、娼婦や男娼を買うほどセックスの相手に不自由はしてなかったし、サングラスに覆われていても充分にソレと分る辰巳の端正な顔に向けられる露骨な欲情にまみれた視線や、彼の持っている権力や財力に(おもね)ってくる笑顔。見飽きていた。
「・・・。」
 オトコが自慢するだけあって、確かに品揃え(・・・)はナカナカのものであるにしても。遊びに来ているハズの自分を値踏みしているような娼婦たちの媚を含んだ視線は、辰巳に不快感しか与えなかった。その時。
「マダム。タバコ買って来ました。」
 ふいに声が聞こえた。媚もヘツラウような響きも持たないゴク普通の男の声。
「・・・。」
 それが、これほどハッキリ聞こえたのは。この場がアマリにも欲望塗れの場所だったからに他ならないだろう。
「・・・。」
 顔を上げた辰巳の目に。
「!」
 男娼としては、(いささ)トウ(・・)が立ち過ぎているだろうオトコの姿が映った。男は辰巳より歳上のように見えた。しかも特に美しい訳でも無く、表情に愛嬌がある訳でも無い。そこらを歩いていたら、タダの草臥れたサラリーマンと間違われるに違いないと思わせる男。だが。うっすらと薄化粧を施している。異様だった。
「・・・こいつも商品か?」
 辰巳は、この店に来て初めて声を発した。
「ええ、まあ。」
 最上級の客を持て成すために辰巳たちの席に張り付いていた、この娼館の責任者であり、赤ら顔の男の愛人でもあるマダムと呼ばれている女は、眉間に皺を寄せて苦笑いをした。
「・・・厄介者ですよ。もう客が付くコトも稀ですしね。実質、娼婦や男娼たちの雑用係をやらせているのです。」
 マダムは憎憎しげに男を見た。
「他のコトをさせようにも、ほら。身体を売る以外したこと無いから、何の役にも立たないんですよ。」
 ウチに置いてやっているのは、ボランティアみたいなもんですよ。
 マダムはそう言って、嘲笑(わら)った。
「あんた、名前は?」
 辰巳がオトコに向かってそう言ったのは。正直タダのきまぐれだった。だが。マダムの侮蔑に満ちた言葉を、俯いて聴いている男の肩は、辰巳の言葉によってビクリと震えた。男は、ユックリと顔を上げた。
「・・・。」
 辰巳は眉を顰めた。男の顔に、媚びるような薄ら笑いが張り付いていたからだ。こんな笑いを自分に向ける人間なら幾らでも居る。汚らしい。辰巳は思った。
 男が名前を名乗らなければ、辰巳は男のことなどスグに忘れただろう。だが。男はこう言ったのだ。
「・・・”しおり”と申します。何か御用がございましたら、何でもやりますのでお呼び下さい。」
 と。
「・・・!!」
 本名では無いだろう。考えればいかにも男娼が使いそうな源氏名だ。だが。
 一瞬。
 辰巳は怒りに身を震わせた。
 それ(・・)を。貴様などが名乗って良い名前だと思っているのか。――――
 男から見れば。
 理不尽過ぎる怒りに囚われて。気が付けば辰巳は、男を凄まじい目で睨み付けていた。
「・・・。」
「・・・。」
 サングラス越しであっても。
 辰巳の怒りが波動となって伝わったのか、その場の空気がギインという音とともに凍りついた。
 罪の無い男は、ヒッという声を上げて固まっている。
「若・・・。」
 耳元で囁かれた聞き慣れた声で、辰巳は正気に戻った。
「ただの源氏名です。若。」
「・・・わかってるさ。不破。」
 幼馴染でもあり。
 幼い頃から常に、影のように付き従っている側近の不破の声に、辰巳は小さく苦笑した。そして。もう一度、『しおり』と名乗った男を一瞥すると、思い切り良く立ち上がった。
「申し訳ない。今日は体調が悪いようだ。」
 辰巳は彼の機嫌を損ねたのではと固まっている、この店のオーナーとその愛人、娼婦たちに向かって、穏やかにそう告げた。それから、優雅な足取りで、席を後にした。振り返ろうとも思わなかった。




「・・・はい?」
 不破は一瞬、辰巳の言葉が分らなかった。
 珍しく早めに仕事を終え自宅に戻った辰巳の着替えを、手伝っている時だった。
「・・・あの男を。呼べ。」
 和服に着替えた辰巳は、不破に独り言のようにそう言いおくとさっさと部屋を出て行った。
「・・・。」
 あのオトコ。不破は眉間に皺を寄せた。不破は辰巳の仕事関係は勿論、プライベートの付き合いもほぼ抑えている。だが。今、このタイミングで呼ばれる『あのオトコ』に心当たりがなく、小さく首を傾げた。それが。
「・・・。」
 三日ほど前に辰巳の逆鱗に触れた『しおり』と名乗った男娼のことではないかと思い当たった時には、不破にしては珍しいほど時間が経過していた。



「若。失礼します。」
「・・・。」
 一人で自室で杯を舐めていた辰巳は、不破の声に顔を上げた。
 無言を許可と取った不破の手により、音も無く障子が開いた。
「遅くなりまして、申し訳ありません。ご所望のモノ。お持ち致しました。」
「・・・。」
 辰巳は右目を眇めた。
「・・・。」
 不破の背後に。磨き抜かれた廊下に膝を付いて震えている貧相なオトコの姿が見えた。小さく苦笑した。何故、この男を呼べなどと言ったのか。辰巳にもわからない。強いて言えば。名前に惹かれたというコトだろうか。
「入れ。」
 辰巳は皮肉気な笑みを唇に浮かべたままで、そう言った。
「・・・は、はい。」
 オトコは顔を上げた。そして、遠慮がちに自分を見ている辰巳を見た。そして。
「!」
 三日前は。サングラスを掛けていたため見ることの無かった辰巳の。信じられないほど澄んだ美しい瞳に、オトコは金縛りになったように動きを止めた。まるで赤ん坊のようも無垢で純粋な、その瞳。囁かれている辰巳に関する恐ろしい噂など、嘘に違いないと思わせる。
 端正で美しい顔立ちもあいまって。オトコは。辰巳に陶然と見惚れてしまった。
「入れ、との仰せだ。」
「・・・あ。・・・は、はい。」
 不破に促され。
 オトコは覚束無い足取りで、ふらふらと辰巳の居る部屋に入ってきた。
「・・・。」
 それを確認してから、不破は静かに障子を閉めた。
「・・・。」
 オトコは障子の前で、所在無げに立ち竦んでいた。やがて。思い出したように畳に正座すると、両手を付いて辰巳に頭を下げた。
「・・・。」
 和室に、高級な英国製の応接セットを持ち込んで、ソファに身を沈めていた辰巳は、面白そうに足元に這い蹲っているオトコを見た。そして。
「どうした、それ?」
 さっき部屋に入ってきた時に見えたオトコの顔のコトを訊いた。
 オトコの。タダでさえ美しくない顔は、明らか殴られたと思しい青痣が目の周りや口の周りに出きていた。
「い、いえ・・・。これは、何でも・・・。」
 オトコは顔を隠すように、更に深く頭を下げる。
「・・・。」
 わかっていた。うろたえるオトコの姿に、辰巳の笑みは深くなる。
 先日、辰巳はこのオトコの名前を聞いた途端に席を立ったのだ。店のモノに、上客を逃したと、バツを与えられたのだろう。
「・・・舐めろ。」辰巳は唐突に言った。
「え・・・?」
「男娼だろ?誰にも相手にされなくても、少なくとも年季は入っているだろうが?」
 辰巳はそう言うと、腕を組んで男を見下ろし足を開いた。


 年季が入っている割には。
 男は信じられないほど下手糞だった。今時、女子中学生でももっと巧いだろう。
「・・・。」
 たどたどしい舌使い。相手が少年なら喜ぶ手合いも居るだろうが。目の前の男の年齢では興ざめだ。身体もごつごつして抱き心地が悪いコトこのうえない。これでは、客が付かないハズだ。
「・・・プロだろうが。もう少しテクニックを磨いたどうなんだ。」
 辰巳は舌打ちをして、ベッドの上で、男の身体から降りた。
「す・・・。すみません。」
 男は荒い息を整えながら、大慌てで起き上がると、ベッドから降り、床に座ると土下座した。
「何で男娼なんかになったんだ?」
 辰巳はベッドで寝転がったまま、タバコを咥えて男を見た。
「・・・。13歳の時・・・。」
 男は辰巳の問いに答えながら。大慌てでベッドサイドのテーブルの上からライターを取って、タバコに火を点ける。愚直なサラリーマンのような容貌と、その仕草は似つかわしくない。まるで長い間公務員をしていたオトコが、いきなり企業の営業に回されたかのような違和感を与える。
「両親が。借金を残したまま俺を置いて、突然蒸発したんです。」
「・・・。」
 辰巳は紫煙を吐いた。珍しい話でもない。自分より子供が可愛い親なんて、そうたいして居ないと辰巳は知っていた。
「・・・債権者は暴力団関係者で。訳も分らず親戚も居なかった俺は、どこかの金持ちのジジイに売られました。俺、別に綺麗じゃなかったけど、若かったから。でもそのジジイはアクマで少年好みで、身体つきがオトナに近くなるとスグ別のヤクザに売られました。・・・それから。いろんなコトがあったけど。最終的にはあの娼館に売られたんです。もう自分でも。自分にどれだけの借金があるのか見当もつきません。俺は一銭も使ってないんですが・・・。俺は。なまじ身体が丈夫だったから、死ななかったんです。」
 死ななかったという言葉に。辰巳はピクリと眉を上げた。このオトコは、生涯で死んだ方がマシだと思った事が何度もあったのだろう。
「ふうん。」
 辰巳はタバコを灰皿で、揉み消した。
「その歳で、男娼はキツイだろう?客が付くのか?」
「・・・ほどんど。でも。娼婦(ねえ)さんたちから見れば、ライバルにもならないし。雑用や相談ごととか。何となく重宝がられて、あそこに居ついているんです。」
「情けねえな。大のオトコが。」辰巳は嘲笑(わら)った。
「・・・。」
 辰巳の言葉に、オトコは辛そうに俯いて愛想笑いを浮かべた。
「・・・落籍()いてやろうか?」
「えっ。」
「俺の持ち物にしてやろうか、と言っているんだ。」
「そ、それは・・・。」
 オトコの表情に微妙なモノが揺れる。若ければ。降って湧いた幸運だと喜んだのかもしれないが。オトコの年齢では、辰巳の真意を探ってしまうのだろう。今の自分をわざわざ引くオトコが、好いた惚れたでないコトは明らかだ。
「分っているだろうが、愛人なんて地位じゃねえ。アクマで毛色の変わったペットとしてだ。ちょっとでも逆らったら、あんたのロクでも無い人生はそれで終わりと思え。」
「・・・。」
「名前は・・・。」
「・・・な、何と、呼んでもらっても構いませんっ!」オトコは慌てたように言った。この間、自分の名前を聞いて顔色を変えた辰巳がよほど怖かったのだろう。
「『しおり』じゃねえのか。」辰巳は、目を閉じた。
「・・・。」オトコは困ったように俯いた。
「『しおり』と呼ぶ。」
 辰巳は言った。何かを振り切るように。



 翌日から、『しおり』は辰巳の行くところどこにでも付き従い、今まで不破が行っていた辰巳の身の回りの雑用をするようになった。
「・・・。」
 最初は。
 また辰巳のきまぐれが始まったと、眉を顰めていた不破だったが。何日かすると、意外にしおりがつかえる(・・・・)コトに気付いて驚いた。この歳まで男娼などやっているような男。どうせ何も出来ないと思っていたのだ。
「・・・案外。頭も良いようですね。気も利くし。」不破は辰巳の着替えを手伝いながら、そう言った。
「娼館では、娼婦たちの相談相手にもなってやっていたようだ。」
「・・・そうですか。何となく納得しますね。」
 辰巳の言葉に、不破は頷いた。しおりは腰の低い男で、決してでしゃばらないが、どこかヒトに頼られる部分を持っているとは不破も感じていた。
「・・・存外。良い拾い物だったかもしれませんな。」
「ペットだぞ。」不破の言葉を聴いて、意外そうに辰巳が右眉を上げる。
「今はね。」
 不破は笑った。

「しおり。」
「は、はい・・・?」
 辰巳に続く、この家の2らしい不破に声を掛けられて、しおりは立ち止まった。
「何でしょうか?」
 一生懸命勤めているつもりだが。娼館とは勝手が違い、何かと失敗も多い。叱られるのだと思った。だが。
「・・・いずれ、あんたには辰巳の着替えも世話してもらう。」
「え・・・?」不破の意外な言葉に、しおりは呆けたような顔をした。
「スグには無理だろうが。出来るだけ俺の傍に控えて、辰巳の好みやT.P.Oを把握するようにしてくれ。」
「は、はい・・・!!」
 しおりは、顔を紅潮させた。自分が、必要とされていると感じたのは。生涯で初めてのコトだった。年甲斐もなくドキドキとした。あの綺麗な男に必要とされていると。嬉しさで、胸が躍った。



「へえ。ペットねえ。」
 そう言って、しおりを下碑た目で見たのは、同業者でも新参者のタチが良いとはいえないオトコだった。
「命じれば、何でもするんですかい?」
 オトコは酒に酔った濁った目で、辰巳としおりを交互に見た。
「いや。辰巳の若ボンが、娼婦を引いたと聞いたんで、どれほどの美女かと楽しみにしていたもんでね。」
「・・・。」
 しおりは無言で俯いて、キャバレーの床に跪いている。
「靴の裏を舐めろと言えば、舐めますよ・・・『しおり』!」
 辰巳はそう言うと、靴の裏をしおりに向けた。
「・・・。」
 しおりは無言で首を突き出すと、舌を出して辰巳の靴の裏を舐めた。
 やだー。
 汚なぁい。
 キャバクラ嬢たちの侮蔑に満ちた嬌声が響く。
「へえ。こりゃ良いや。若ボン。俺の靴も綺麗にするよう、言ってくれませんか。」
「・・・『しおり』。」
 辰巳は顎をしゃくった。
「・・・はい。」
 しおりは逆らう素振りも見せずに、オトコの靴の裏を舐めた。ある程度歳を取った男の。その従順な様子は男の嗜虐心をくすぐったようだ。
「おら。もっとしっかり舐めんかい!!泥ひとつ無いように、キレイキレイするんだ!!」
 オトコは、若干サディストの気味があったのだろう。跪いているしおりの顔を踏みつけるように、靴の裏を押し付けてきた。
「・・・っ!!」
 しおりが苦しそうに少し咳き込むが、オトコは足に一層の力を入れて、へらへら笑っている。
「・・・。」
 黙って見ていた辰巳の眉間に皺が寄った。その時。

「・・・『しおり』ニイさん。」

 突然、聞こえた若い男の声。
「!」
「・・・?」
 辰巳のみならず、不破も怪訝な顔でその声の主を見た。
「・・・お、俺がやります。ニイさんの代わりに。」しおりの隣に跪いたその若い男は、このキャバクラのボーイの服装をしていた。
「誰だ?」
 辰巳が、鋭い目で、しおりを睨んだ。
「あ・・・。」
 しおりはうろたえたように、若い男と辰巳を交互に見る。
「昔・・・。」
 しおりは言い澱んだ。視線を床に落す。
「・・・『しおり』ニイさんに、命を助けてもらった者です。」
 ひょろりと背の高い。だが栄養が足りていないような痩せ細った身体付きの。若いというよりまだ子供に近いような男が、震える声で答えた。辰巳の視線を受け止める度胸は無いようだった。俯いてウロウロと視線を彷徨わせている。
「・・・。」
 その。辰巳から見れば、吹けば飛ぶような気の弱そうな男。だが。辰巳の癇に微妙に触った。
「へえ。命の恩人ねえ。」
「・・・。」
 小馬鹿にしたような辰巳の言葉に、しおりは唇を噛んだ。
「彼は(いぬい) 誠一(せいいち)といって。タダのキャバクラのボーイです。」
「ふうん。」
「イヌイ!俺とお前は何の関係も無いと言っただろう!!」
「お、俺。ニイさんが。ヤクザに引かされたと訊いて、心配で・・・。」若い男は、泣きそうな顔でしおりを見る。
「大きなお世話だ。」
「ニイさん・・・。」
 そこまで聞くのが限界だった。
「帰るぞ、しおり。」辰巳は立ち上がった。
 奇妙な苛立ちが、辰巳を包んでいた。
「はいっ。」しおりは間髪入れず肩膝を突いて、脇に控える。完璧だった。不満など無い筈なのに。
「ニイさん、聞いて下さい。」
 若い男の声が、耳に残る。
「やかましい。お前は自分のコトだけ考えていれば良いんだ!!」
 吐き捨てたしおりの声も。
「・・・。」
 しおりはまだ何かを良い募っている乾を置き去りにして、辰巳の後を慌てて追い掛けてきた。



「あのボウヤと寝たのか?」
 その夜。
 何時もより激しくしおりの身体を貪ったアトで。辰巳はしおりを真っ直ぐに見て、そう言った。
 指一本動かすのも辛いハズのしおりは。自分の身体はそのままに、温めたタオルで辰巳の精に汚れた身体を拭っていた。
「・・・遠い昔。あの男がまだ子供で、田舎から出てきたバカリの頃に。」
「今でも充分、若いようだが?」
「16歳になるかならないかの頃だったと思います。・・・要領の悪いヤツで。色んなところで苛められて。真冬の雪の降る日に、行き倒れていたのを拾ったんです。・・・身体で温めてやりました・・・。」
「感謝というのだけでも無い感じだったけどな。」
 しおりは、唇を噛んで、辰巳を見た。
「あいつは。何か勘違いをしているんです。優しくしてくれたのが、俺だけだったから・・・。」
「お前に惚れている訳だ。」
「・・・勘違いです。」
 しおりは、俯いた。
 ニイさんは。昔見た宗教画のマリア様のように、綺麗です。
 イヌイは。
 会う度に、しおりを綺麗だ綺麗だと褒めちぎった。そして。
(例えニイさんに応えてもらえなくても。愛している。)と。
「・・・。」
 しおりは知っていた。イヌイが少ない給料のホトンドを貯金に回しているコトを。それは。
 しおりの借金のため。しおりを娼館から開放するための、金を貯めているのだというコトを。
「・・・愛なんて・・・。」
 しおりは、辰巳に向かって嘲笑(わら)った。
「ちゃんちゃら、可笑しいですよ。何かあれば、そんなモノはスグに無くなってしまいます。イヌイも・・・。騒いでいるのは今だけです。」
 辰巳は、しおりを見た。この男も。今までそれなりの地獄を見てきたのだ。
「・・・しおり。」
 辰巳はゆったりと微笑んだ。
「はい。」
「お前のそういうトコロを。俺は気に入っているぜ。」
「ありがとうございます。」
「目障りだ。あの男。俺の好きにしていいか。」
「お任せします。」
 少し脅されれば。
 イヌイもスグに引くだろうと、この時。しおりは思っていた。



「ニイさんニイさん。」
 だが。イヌイは『しおり』をあきらめなかった。
 驚くべき愚直さで、『しおり』を行く先々で待ち伏せて、説得しようと試みた。すなわち。
 ニイさんは、ヤクザなんかと関わるヒトではない、と。
 辰巳の舎弟たちに。どれだけの暴力を受けようと。
 腕や足をへし折られ、仕事を辞めざるを得なくなっても。
 隙あらば。しおりに一緒に逃げようと誘い続けた。
 ニイさんが好きなんです。だから。と叫びながら。
 綺麗な人生を歩んで欲しいと。祈りながら。


「ムカつくガキだ!」
 辰巳は机を叩いた。
「愛だの何だのと。うるせえ。」
「も、申し訳ありません。」
 しおりは部屋の隅で、小さくなって頭を下げていた。
「・・・そんなコトを言って、ここまで想われれば嬉しいだろう。」辰巳は唇に皮肉気な笑みを乗せて、しおりを見た。
「・・・とんでもありません。愛なんて・・・。うざったいだけです。」
「そうだよな。お前は親にだって見捨てられた。お前の親は、息子がどんな人生を送ったなんて知ろうともしないで、楽しく暮らしているだろうからな。」
「・・・。」
 しおりは、唇を噛んだ。
「・・・まあ。良かったよ。お前が俺と同じ考え方で。」
「え・・・?」しおりが、顔を上げる。
「ちょっとやり過ぎた(・・・・・)かと思っていたんだけどな、実は。・・・良かったよ。」
「・・・。」
 辰巳の。今まで一度も見たことも無い晴れやかな笑顔を見て、しおりは。どうしようもなく嫌な予感に捕らわれ、身を震わせた。



 辰巳に連れて行かれたもうアマリ使われていないのではないかと思われる古いビルの地下室。一階のフロアから地下に下る階段に向かった時点で、なんとも言えない妙な匂いがした。
「・・・。」
 思わず顔を顰めるしおりを。
 辰巳は振り返って、愉快そうに見た。
「・・・。」
 何かがキシムような妙な音が聞こえる。地下の。扉から明かりが漏れている部屋から。
「若。お待ちしてました。」
「うむ。」
 唐突にそのドアが開かれ、大柄な男が出てきた。そのオトコに小さく頷くと、辰巳はしおりに、部屋に入るように促した。
「・・・。」
 しおりは躊躇った。何だか入りたくない気分だった。救いを求めるように、辰巳の傍に立つ不破に目を向ける。
「・・・。」
 このビルに向かっている間。上機嫌な辰巳とは対照的に、不破はずっと不機嫌だった。明らかに気乗りしてはいなかった。
 だが。不破は。苦虫を噛み潰したような顔のまま。しおりに、顎をしゃくった。
「・・・。」
 もう。どうしようもない。
 しおりは、一瞬の間を置いて、足を踏み出した。辰巳の機嫌を損ねるのが。何より恐ろしかった。

 部屋の中は。信じられないほど蒸し暑かった。
 ムッとするような奇妙な匂いは。間違いなくこの部屋から漂っていた。
「・・・?」
 入った瞬間、しおりの目は。部屋の中央に置かれている、明らかに場違いな大きなダルマ(・・・)に吸い寄せられた。
 それは。ゆらゆら揺れながら、奇妙な音を出していた。いや。
「!!!!」
 しおりは目を限界まで見開いた。
 ダルマは。
 人間だった。
 手足の無い人間が。黒っぽい布でぐるぐる巻きにされて、安定しない身体をゆらゆら揺らせていた。
 奇妙な音と思ったものは。
「・・・ヒッ。ひっっ・・・。」
 到底、正気とは思えないそのオトコが漏らす、悲鳴のような呻き声だった。
 焦点の定まらない目。顔中から涎や鼻水。涙を垂れ流している。不快な匂いは。狂った彼の身体から垂れ流されているありとあらゆる体液の匂いだった。
 彼は。

「うわああああああああああああああっっっ!!!!!」

 気が付くと。
 しおりは大声を上げていた。床の上に膝から崩れ落ちる。
「・・・両手両足を素面で切り落とされ、痛みと恐怖で気が狂うまで、お前をあきらめるとは言わなかったそうだ。」
 笑いを含んだ辰巳の声が頭上から、降ってくる。
「・・・こ・・・。こ、こんな・・・っ・・・!」
 しおりの全身は(おこり)に罹ったかのように、震えていた。
「俺の好きにして良いと、言ったのは、お前だろう?」
 辰巳は、この上もなく愉快そうだった。
「・・・。」
 しおりは無言で、目の前の青年を見詰めた。
 自分のコトが好きだと言った青年。
 自分をマリア様のように美しいと言った青年。
 純粋で純粋で。愚かにみえた青年。

 もはや、涙も出なかった。だが。

「・・・鬼・・・。」

 しおりは、小さな声で呟いた。
「そりゃ、光栄だな。」
 辰巳はにこやかに微笑んだ。だが。
「・・・自分の。・・・コトです・・・。」
 しおりは青年を見詰めたまま、辰巳に応えるでもなく言った。独り言のように。
「なに・・・?」辰巳が眉間に皺を寄せる。
「何故。・・・このオトコの真心に応えてやらなかったのだろう・・・?」
「・・・。」
「・・・怖かったんです。このオトコを信じて・・・。裏切られるコトが怖かった。皆が俺を裏切ったから。両親もトモダチも。愛したヒトも。信じた俺を嘲笑いながら、酷い裏切りをくれたから、俺は。怖くてこのオトコの言うコトを信じられなかった。分っていたのに。このオトコの真心を。嬉しいとさえ思っていたのに。怖くて。弱くて、応えられなかった・・・。」しおりは、頭を抱えて床に蹲った。
「・・・。」
「・・・。」
 暫くは。誰も口を利かなかった。青年の漏らす狂った悲鳴だけが、部屋に響いていた。だがやがて。
 しおりはゆっくりと起き上がった。そして。
「弱かったんだ、俺は。・・・鬼になるほど!」
 しおりは虚ろな目で、辰巳を見上げて言った。
「・・・俺は。自分でも気付かないウチに鬼になっていた。何も信じず。鬼になって、この男の人生を喰らってしまった。喰らい尽くしてしまった・・・。」
「・・・。」
「・・・。」
 しおりは。辰巳から視線を逸らすと、かつてイヌイだったオトコに、呆然とした目を向けた。
「・・・イヌイ・・・。」
 しおりは、オトコに向かって手を伸ばした。
「・・・イヌイ・・・。」
 誰も止めなかった。
「・・・イヌイ。・・・ごめん・・・っ!!」
 しおりはそう叫ぶと、イヌイの顔を引き寄せた。そして躊躇うことなく涎を垂れ流すその唇に口付ける。舌を差込みイヌイの舌を引き出し絡め取る。そして。
「がああっ・・・・!!!」
 イヌイの悲鳴が轟き渡った。
「・・・っ!!!」
 次の瞬間には。がぼっ。とかごぼっという音が聞こえ。
「・・・。」
 全員が呆然と見守る中。
 イヌイは口から鮮血を撒き散らしながら、しおりの胸に倒れ込んだ。
「・・・。」
 しおりは口に。
 引き千切られた。イヌイの舌を咥えていた。
「!!!!」
 全員が呆然としおりを見詰める。
「・・・。」
 しおりは。ソレ(・・)をゆっくりと咀嚼(そしゃく)した。咀嚼(そしゃく)しながら、ゆっくりと咽喉仏が動く。飲み込んだ。青年の舌を。
「・・・。」
「・・・。」
 誰もが目の前に起こった惨劇を。声もなく見詰めていた。だが。
「しおり。」
 辰巳だけは。
「・・・若・・・。」
 不破が、辰巳に目を向ける。
「しおり。こっちを向け。」
 辰巳は懐から愛用の拳銃を取り出すと、真っ直ぐしおりに向けた。
「そんなガキは、どうでも良いと言っていたじゃないか?」
「・・・。」
 辰巳に背を向けているしおりは、振り返らない。
「しおり。そのオトコを捨てて、俺を見ろ!」
 辰巳は低い声で、そう言った。だが。
「・・・。」
「俺を見るんだっ!!!そんな汚いモノは、捨てろっっ!!!」
「・・・。」
 しおりは小さく首を振った。首を振って、小さな麻痺を続けているイヌイの身体を離さずに。強く。
「!!」
 一層強く、その胸に抱きしめた。


 銃声が響いたのは、その瞬間だった。
「若っ!!!」
「!!!!」
 鬼の形相を浮かべた辰巳が。
 抱き合っている二人に向かって、ありったけの弾丸を叩き込んでいた。
 二人が血塗れになって倒れ。弾が当たる反動だけで、跳ね上がるようになっても。辰巳は引き金を引き続けた。
「若っ!!もう死んでいますっ!!!」
 不破は辰巳に駆け寄って、全力で彼の腕を抑えた。
「・・・。」
 辰巳は血走った目で、不破を振り返った。そして銃を床に投げ捨てると。
 血まみれで横たわっている二人に走り寄った。
「・・・っ!!」
 辰巳は二人のモトに歩み寄ると。その亡骸を蹴った。蹴り続けた。
「・・・若・・・。」
 不破は唇を噛んだ。
 もう止めようとは思わなかった。
 誰も止められなかった。


 辰巳が去った地下室で。
「・・・。」
 不破は、二人の遺骸を無言で見詰めていた。
 『しおり』と名乗った男。
 不破は目を閉じて、首を振った。
「・・・片付けろ。」
 そう言うと。不破は二人の亡骸に背を向けた。




 翌日。
 予定通りの一日を送っていた辰巳は。
 午後の気だるい信号待ちの車の後部座席で。妙な気配を感じて顔を上げた。車の窓越しに外を見る。
「・・・?」
 見慣れた、アスファルトの歩道。
 申し訳程度に植えられた植栽の傍らに。

「!」

 男が二人立っていた。
 彼らは。全身を血に染めたまま、辛そうに哀しそうに。恨めしげに辰巳を見詰めていた。
 黄色く濁った目から、血の涙を流しながら。
「・・鬼哭愀愀・・・か・・・。」
 辰巳は頬を歪めて皮肉気に微笑った。二人に対して。辰巳は、一片の後ろめたさも感じてなど居なかった。後悔も感じてなどいない。怖ろしささえも。だが。
「・・・。」
 誰も。見えない(・・・・)場所に立つ二人の腕。それは、しっかりと互いの身体に巻きついていた。
 お互いをしっかりと抱き締め合った体勢で。二人は泣きながら辰巳を見詰めているのだった。
「・・・幸せそうじゃないか・・・。」
 辰巳は小さく呟いた。声には。敗北感が溢れていた。

「・・・何か・・・?おっしゃいましたか・・・?」
 助手席の不破が、辰巳の様子に気付いて控えめに声を掛ける。
「・・・。」
 辰巳は答えなかった。

 何も答えずに眉間に皺を寄せると、辰巳は静かに目を閉じた。

−fin−

2004.07.17

 3.5という何とも微妙なタイトルで(笑)。3に出てきた、一部の方(?)に人気のあった辰巳の歪み具合を書いてみたかったのです。
 やっぱり。不幸な男です。畳の上では死ねそうもありません。 

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