盂蘭盆会(うらぼんえ)
<ろくでなしの神話3 番外編>

「カシラ。そろそろ時間ですが・・・。」
「ああ。」
 石黒がそう声を掛けた時。
 海棠(かいどう) 慎司(しんじ)は、自宅マンションの広めのベランダで。しゃがんだ姿勢で何かをしていた。
(ああ・・・。)
 その後姿を見ながら、石黒は納得したように頷いた。
 今日は、8月13日だった。
 真夏日の連続新記録を延々と更新しているこの夏は、夕方になったとはいえ、気温はまだ30度近かった。だがそれでも高層階にある海棠の部屋のベランダには、微かに涼しい風が吹いている。
「・・・。」
 石黒は、ベランダとリビングとの境の窓に手を掛けて、暫く無言で海棠の手元を見ていた。
「・・・迎え火ですか。」石黒が。海棠の手元から立ち上る煙を見ながら、静かに訊いた。
「・・・ああ。新盆(にいぼん)やさかいな。・・・ここ(・・)に還ってくるとは思えんけどな。アレ(・・)には、何の縁も無い場所やさかいな。」
 海棠は小さく笑うと、立ち上がった。
「せんよりマシやろ。」
「・・・そうでんな。」
 石黒も微笑んで、海棠が見ている小さな炎を見詰めた。





「あっちーな。」
 大阪ではそれなりの規模を誇る指定暴力団の末端のチンピラである河合は、ギラギラと容赦無く照りつける太陽を憎憎しく見上げながら、溜め息を吐いた。
 大きな男である。187センチの身長に横幅もそれなりにある。彼の姿を見て、通行人はさりげなく道を避けていく。
(・・・カキ氷でも喰うか。)
 河合は目に付いた「氷」の暖簾が下がっている喫茶店に、躊躇いもせずに真っ直ぐに入った。席に着くとスグカキ氷を注文する。
「ふーーーー。」
 店の冷房で生き返る気持ちだ。河合は黒いネクタイを緩めた。暑いはずだ。今日の河合はかっちりとした喪服を着込んでいた。締め慣れないネクタイまでしっかりと結んでいるのだ。
「・・・真夏に勘弁してくれよ・・・。」
 河合の所属する組の系列にあたる中堅クラスの組の組長が、妾の腹の上で昇天したのは、一週間前のコトである。
「78歳にもなって、良うやるもんや。」
 妾は17歳だったというのだから、恐れ入る。河合は小さく笑った。だが。理由はともかく。れっきとした現役組長の葬儀である。河合の組からは、若頭と若頭補佐が参列していた。
 河合も若頭補佐の護衛に付いていたのだが、ちょっとしたお使いを頼まれ、外に出たついでに、少し息抜きをしているトコロだった。
(やれやれ。)
 氷を凄い勢いで掻き込み、一息ついてから立ち上がった。そして。
「うわっ!!」
 一歩足を踏み出した途端。河合は何かに躓いた。
「ああっ!?」
 ガラガラガッシャーン・・・・。
 反射的に倒れまいと、何かを掴んだ。だがソレは。被害を大きくしただけに過ぎなかった。
「・・・。」
 気が付いたときは。
 飲み物を運ぶ途中だったらしい。空の盆を持って青くなっているウエイトレスと。
 アイスコーヒーを頭から全身に浴びたらしいスーツ姿のサラリーマンが呆然とした面持ちで、河合を見ていた。
「うわっ!?うわっ!!オッサン。ごめんっ!!」
 河合は慌てて起き上がると、手近に有ったお絞りで、呆然自失状態の男の顔と頭をぬぐった。
 だが。白いワイシャツは、見事に茶色に汚れてしまっている。とんでもない事態に、河合が苦りきった声を上げる。
「・・・!!洋服は弁償するさかい、堪忍したって。」
 とても染み抜きで何とかなるレベルとは思えない。
「い・・・いや・・・。」
 サラリーマンはやっと正気に戻ったらしく、自分でもウエイトレスが慌てて持ってきたおしぼりで、濡れた身体を拭う。
「大丈夫だから・・・。」標準語に近い言葉遣い。男は大阪の人間では無いようだ。
「あかんあかん!!こないな迷惑掛けて、そのままにしとったら、組の面子に関わる。」
「く・・・組・・・?」
 その場に居た全員が、ギョッとしたように河合を見る。
「店の被害も弁償するさかい・・・。」
 河合は言いながら、懐に手を入れた。そして。
「・・・あかん・・・。」
 小さく呟く。
「財布を忘れて来てもうた・・・。」



「ほんまにほんまに!!申し訳ない!!!」
 河合は、膝に額がつくくらい、頭を下げた。
「いや。本当に、気にしないでくれ。」
 二人並んで歩きながら(サラリーマンは小走りで、河合を振り切ろうとしているようだったが)、河合は、引き気味のサラリーマンの肩をガッシリと掴んだ。サラリーマンは小柄で、河合から見れば体格は少年のようだ。
「少しだけ付き合うて。すぐ金は返すさかい。」
 結局。河合のカキ氷代。その他モロモロの金は、この縁も所縁も無いどころか。頭からアイスコーヒーをぶっ掛けられた被害者であるところのサラリーマンが立て替えてくれたのだ。信じられないオヒトヨシである。
「い・・・。いや・・・。」
 サラリーマンは明らかにビビッテいた。河合が暴力団関係者だと分ってしまったからだ。
「あかん!!俺は確かにチンピラやが、堅気さんに迷惑掛けるんは本意や無いんや。それに、あんた東京モンやろ?大阪のイメージを悪うしとうないんや!!」
「い・・・いや・・。」
「スグ其処や。すぐやさかい!!」
 河合は強引にサラリーマンの腕を取って引き摺る。正しいことだと思っているだけに、容赦が無い。
「分った。分ったから、腕を放してくれ。痛い!!」
 サラリーマンが悲鳴を上げる。
「あ。ごめん。」
 河合は慌てて、腕を放した。河合は身体大きさに比例した馬鹿力だ。
「・・・。」
 掴まれた腕を痛そうに擦っているサラリーマンに、河合は遠慮がちに言った。
「俺は、河合言うんや。この大阪で何かあったら、出来るだけ力になるさかいな。連絡してくれ。」
 そう言って、ケイタイ番号の入った名刺をサラリーマンに渡す。
「・・・あ?ああ。俺は・・・。」
 サラリーマンはホトンド反射的と言って良いような仕草で、胸ポケットから名刺入れを取り出すと、中の名刺を河合に渡した。渡した瞬間。シマッタという表情が浮かんだのを、河合は何となく愉快な気分で見ていた。今年21歳の河合よりはカナリ年上だろうが、何となく可愛げのある男である。
「建設会社の人なんや。出張か何かなんか?・・・へえ。こんなん言うたら、気を悪うするかもしれんけど、顔に似合わん綺麗な名前やな。」
 河合は名刺の名前と、サラリーマンの顔を見比べた。
「良いよ。言われなれているから・・・。」
 サラリーマンは小さな溜め息を吐いて、そう言う。
「・・・気にしとるんか?ごめんな。」
「良いさ。」
 サラリーマンはもう一度溜め息を吐いた。そして。
「お葬式?」
 河合に訊いて来た。
「うん。ウチの系列の組のな。義理ごとや。この暑いのに・・・。」
「何か。そう言えば、新聞に載っていたような気がするな。君が出るの?」
「まさか。ウチの若頭補佐のお供なんや。ちょっと用を頼まれて、外に出てチョット息抜きしとったんや。」
「タイヘンだね。」
 サラリーマンは笑った。
「ウチの若頭補佐は、カタギに迷惑掛けたらごっつう怒るんや。若いけど古いタイプの極道でな。時代遅れやとかイロイロ言うヤツも居るけど、俺は好きや。誰に対しても筋が通っとるヒトやさかいな。凄い男前やしな。」
「ふうん。」
 サラリーマンの笑みは、深くなったようだった。
「けど。敵が多いのも確かや。一年くらい前から、東京とトラブっとるんで、ちょっと周囲がピリピリしとる。」
「一年も前から・・・。いまだに・・・?」
 サラリーマンの眉間に皺が寄る。
「まあ。・・・面子の稼業やさかいな。海棠さん・・・。ウチの若頭補佐の名前やねんけど、海棠さんが直接関わった訳や無いんやけど、東京の組のお家騒動に巻き込まれて、逆恨みを買うたみたいや。・・・とんだ、とばっちりや。」
「・・・そうか。」サラリーマンは小さく息を吐いた。
「あ!!そこなんや。ちょっと待っててな。誰かに金を・・・。」
 葬式が行われている屋敷の門が見えてきた。河合はサラリーマンに言い置いて、足を速める。だが。
 その時。見覚えのあるメンバーが屋敷から出てきた。
「あっ。やばい。もうお帰りや。」
 河合は走って、門の方に向かう。見覚えのあるベンツが、庭先に廻っている。少しアセって、本来の持ち場に戻ろうとした。その時。

『右だ。』

 耳元で声が聞こえた。
「え?」
 声の方を振り返る。そこには。ほとんど河合にくっつくように。先ほどのサラリーマンの顔があった。
「うわあっ!!!」
 河合は叫んだ。何の気配も感じなかったのに。一体。それに、あれほどビビっていたのに。なぜ、付いて来たんだ。
「右だ。」
 サラリーマンはもう一度言った。
「え・・・?」
 河合は右を見た。何も無い。サラリーマンを振り返る。居ない。
「あれ?」
 河合は慌てて周囲を見回した。
 居た。
「おい!?」
 思わず声を上げた。
 サラリーマンは門の中。どうやって入ったのか。とにかくベンツの右方向の砂利の上に立っていた。
(何時の間に・・・!?)
 河合は焦った。
「てめえ・・・!!一体・・・!?」
 叫びかけて、息を呑む。河合を振り返ったサラリーマン。その向こうに。人影が見えた。門の上によじ登り。松ノ木の枝の影からライフルらしきものを構えている。ベンツの方角に向かって。
「!!!!」
 河合は、反射的にサラリーマンを見た。
「!!!!!」
 その時には。
 サラリーマンは、その場に倒れていた。身体中が血に染まっていた。

「い、石黒さんっっ!!!か・・・・!!!!かしらあああああっ!!!!!!」


 河合は叫んだ。

 ベンツの傍らに姿を見せた石黒が、河合の声を訊いて彼を見た。そして、河合が指差している方向に顔を向ける。
「・・・!!カシラッ、戻って下さい!!」
 石黒は、玄関先で靴に足を通していた海棠の前に立ちはだかって叫んだ。
「・・・!!!」
「!!!!」
 一気に場が殺気立つ。
 喪服姿の一団が、怒声を上げながら走り回る。
「・・・。」


 喧騒の中。
 河合は、慌ててサラリーマン倒れていた場所に走った。あの傷では、早く手当てしないと死んでしまう。だが。
「・・・・!?居いひん・・・!?何でやっ!?」
 身体中を血に染めて。どう控えめに見ても、死に至るほどの傷を負っていたハズのサラリーマンは。
 もうどこにも居なかった。
「そんな、アホなっ!!」
 河合は辺りを見回す。
 だが。サラリーマンどころか、その場には血の一滴も落ちてはいない。
「・・・。」
 河合は呆然と立つ尽くした。まるで白昼夢を見たかのようだった。
「・・・何なんや、一体・・・。一体、何やったんや・・・。」
 河合が呟いた瞬間。
「河合!!」
 背後から声が掛かった。
「・・・洋二さん・・・。」
 河合が振り返る。洋二とは歳はそう変わらないが、彼の方が河合のセンパイに当たる。それに洋二が組長の娘と良い仲だというのは周知のことなので、自然敬語になってしまう。
「ようやった!よう刺客を見つけたな。危ないトコロやった。カシラや石黒さんからもきっとお褒めの言葉が・・・。」
 洋二は石黒の傍まで来ると、ねぎらう様に肩を叩いた。だが。
「違うんや!!違うんです。俺やのうて、サラリーマンのオッサンが・・・。」洋二の言葉を遮るように、河合が叫んだ。
「サラリーマン・・・?」
 洋二は怪訝そうに眉を寄せた。


「・・・で。どこのおヒトやったんや?」
 未だに殺気立ったピリピリした雰囲気を残した石黒が、少し苛立たしげに河合に訊いた。
 海棠は、車に乗せて護衛とともに、既にこの場を去っていた。
 恩人らしいサラリーマンが居なくなったと騒ぐ河合に対処するため、石黒はこの場に残っていた。河合の話が本当なら、捨ててはおけないからだ。
「えっと・・・。そうや!名刺をもろうたんやった!!」
 河合が慌てて、ポケットを探る。
「あれ?おかしな?あれ?」
 どれほど探っても、名刺は見付からない。
「・・・何て会社やったとか、覚えてへんのか?苗字とかは?」
 洋二が呆れたように口を挟む。
「確か。東京の中堅どころの建設会社やった。名前は、なんかオンナみたいな綺麗な名前で・・・。月?月が入っとったような・・・。」
「何やと?」
 石黒が、目を見開いた。
「月・・・?」
 洋二が息を呑む。
「・・・。」
「・・・。」
 うろたえている河合をよそに、辺りに奇妙な沈黙が落ちる。
「・・・まさか・・・。」
 洋二がゴクリと咽喉を鳴らして、掠れた声で呟く。
「・・・上月(こうづき)?」
「あっ!!そうです!!そうやっ!!そんな感じの名前やった・・・!!」
「・・・!!」
「!!!」
 河合以外の全員が。
 痛いような顔をして、黙り込んだ。
「そうや。それどころやあらへん!!オッサン大怪我しとったんや!!身体中が血塗れで・・・!!ヤクザが怖うて逃げたんかもしれんけど、早よう探さな、死んでしまう。石黒さん。」
 河合は必死に石黒に良い募った。だが。
「・・・。」
 石黒は、強張った表情のまま。動こうとはしない。
「石黒さん!?」
「・・・。」
「洋二さんっ!?」
「・・・。」
 洋二は河合の呼び掛けに、目をギュッと閉じた。そして。
「・・・栞ちゃんは・・・。」
 小さな声が。震える唇から搾り出すように漏れた。
「・・・?」
 再び、奇妙な沈黙が落ちた。河合だけが、訳が分らずに石黒と洋二の顔を忙しなく見比べている。
「・・・どこに、いらっしゃった?・・・どこに・・・。そのサラリーマンは、倒れてはったんや・・・?」
 石黒が静かに、口を開いた。
「え・・・?そこの砂利の上に・・・。」河合が指先で示した。
「・・・。」
 石黒は無言でゆっくりと、その場所まで歩いた。そして。
「・・・。」
 その場に両手を突いた。
 石黒の両眼から、涙がこぼれた。
 溢れる涙を拭おうともせず。石黒は囁くような声で、言った。
「・・・カシラを・・・。護って下さったんやな。カシラを助けるために、還って来てくれはったんですな。」
 そして呻きながら、その頭を地面に擦り付けた。
「・・・。」
 獣のような唸り声を漏らしながら、洋二が石黒に続く。その後ろにもバタバタと組員が手を突いた。
「・・・っ!!!有難うございやしたっ!!!」
 呆然としている河合だけを取り残して、彼らは何かに向かってそう叫んでいた。




「・・・。」
 海棠は自宅マンションのべランダで、ぼんやりと空を見上げていた。
「送り火は焚かんのですか?」
 石黒がその背中に声を掛ける。
 8月16日。あの襲撃事件から、数日が経過していた。
「焚かん。俺に会いに来もせんような薄情者を、誰が帰してやるかいな。」
 海棠の憎々しげな言葉に、石黒は笑った。
「・・・意地っ張りやから。意地っ張りで頑固ですからな。カシラとは似た者同士や。」
「ふん。」
 海棠は鼻を鳴らした。
「・・・河合に訊いたんですがね。」
 石黒が独り言のように、呟く。
「・・・。」
「カシラの話を・・・。嬉しそうに笑いながら、聞いてたそうですわ。」
「・・・。」
 海棠は目を閉じた。
「カシラ。」
「・・・。」
「送り火を焚きましょう。また来年。・・・きっと大阪(ここ)に帰ってきてくれますよって・・・。」
「・・・。」
 海棠は目を開くと、ゆっくりと空を見上げた。
「・・・来年か・・。」
「・・・はい。」
「そうやな。」
「はい。」
 そう言うと、石黒も空を見上げた。
 晴れ渡った夏空は。

 この空気の濁った都会でも、涙が出るほど美しかった。

−fin−

2004.08.17

 お盆からは少し遅れましたが。恒例の突然勃発よく見えない(笑)ちょっと意地悪いきなり企画です。良くぞ見つけて下さいました(笑)。

 「あなたの知らない世界」風味。涼しくなって(?)下さい。少なくとも河合くんは、ゾッとしたかも。