君の気高き眼差しに

ボニーの微笑み

 

 ガラス越しに見えていた。その長身で端正な姿が。

「・・・・・・!!」

 弾かれたように、背後を振り返ったのが見えた。

 

 

 大阪では、かなりのグレードを誇る高級ホテルのエントランス。

 伊庭(いば) (あきら)がソコを訪れた時。どうやら年単位で部屋を押さえているらしい加納の姿は、ロビーにはまだ無かった。最近、二人で会う時には、加納は必ずこのホテルを指定する。

 出会ったばかりの頃は。ラブホなどで会うことも多かったというのに、最近になって何故こんな目の玉の飛び出るようなチャージ料を取られるホテルを加納が指定するのか、伊庭には良く分らなかった。今更、気取るには親しくなりすぎているような気がしていた。

 加納は現役の。所属している暴力団で、それなりの地位に居るヤクザである。だが、服の趣味や端正な面差しからは、一見してヤクザとは思えない。そのつもりで見たならば、やや身に着けているものがサラリーマンとしては高級過ぎるかもしれないといったコトに気付くかもしれないが、その程度だ。普段は比較的物腰も柔らかく、伊庭もついついそのコトを忘れてしまうことが多い。

「・・・。」

 加納との付き合いは、もう2年になる。1週間に一度。長くても2週間に一度は、加納から伊庭に連絡が入り、会う。そうでなければ、伊庭が一人で飲んでいるトコロに、前触れもなく加納が現れることもあった。

 二年前。(たちばな) 将悟(しょうご)と別れた後。伊庭は加納に、ヤクザと親しくなるつもりは更々無い、とハッキリと言った。だが加納は、それにはマッタク頓着せずに会社帰りや仕事での出先の伊庭を待ち伏せては、飲みに誘ってきた。

 最初は、断り続けていた伊庭だったが、けっこう強引な加納に押し切られるカタチで自然と飲む機会が多くなり、そのうち話題も豊富で話上手な加納とホトンド飲みトモダチのようになり、すっかり警戒心を失っていたある日。明らかに計画的に酔い潰された状態でホテルに連れ込まれた。ベッドの上で。散々責め立てられ泣かされ喘がされ、加納のモノだと誓わされ、浮気をしたら相手もろとも殺すと脅しつけられ。この手のことにホトンド学習能力の無い伊庭は、そのままなし崩しに流れ流され、現在に至っていた。

 最初のうちは。加納の意図が分らず、警戒し続けていた伊庭だが。どうやら加納が、伊庭との付き合いに特に目的を持っている訳ではないと分ってからは、もうイロイロ思い煩うコトは止めていた。加納は実際楽しいの飲み仲間でもあったし、身体の相性も悪くなかった。それに、加納が伊庭にヤクザとしての顔を見せるコトもホトンド無かった。

 実際、加納は。伊庭と会う時は、自分の立ち居振る舞いや服装に明らかに気を使っているらしかった。

 二人の関係から失うものは、伊庭の方が多いことを充分解かっているのだ。

 その日。

 加納を待つために、ロビーの椅子に座ってぼんやりと外を見ていた伊庭は。

「・・・!」

 ゆっくりとロータリーの辺りを歩いて、ホテルの入り口に向かってくる加納の姿を、目の端で捕えた。一面ガラス張りのロビーからは、エントランスを行きかう人の姿が良く見えた。

 一見。エリートサラリーマンとしか見えないその姿。自信に溢れた物腰に、長身で端正な面差し。すれ違う女性たちが、思わずといった風に立ち止まり、振り返って彼を見ていた。

 客観的に見て、加納はかなり好い男だと思う。将悟の時もそうだったが。何故、彼らが自分などに(こだわ)るのか、伊庭にはサッパリ分からない。

「・・・。」

 その時。加納の方も、ロビーに座っている伊庭の姿に気付いたようだった。ニヤリという苦みばしった笑みを、俳優の佐藤浩市にどことなく似ている端正な頬に刻んで、伊庭を見た。

 伊庭は溜め息を一つ吐いて、椅子から立ち上がった。だが、その瞬間。

「・・・・・・?」

 加納が何かに気付いて、弾かれたように背後を振り返るのが見えた。そして。

「・・・!?」

 伊庭は見た。加納の背後に走り込んできた、背広を着た。だがまた二十代だろう青年の手に握られた銀色のモノが、華やかなホテルの照明を映してキラリと光ったのを。

「加納っ!!!!」

 伊庭は一気に血の気が引いた。叫びながら、ロビーの嵌め殺しのガラスに向かって走った。

「・・・・・・!!!!」

 そのガラス越しに。加納が、自分に突き掛かって来たナイフをかわして相手の腕を掴み、投げ飛ばすのが見えた。同時に。

 ぱん。ぱん。ぱん。

 乾いた破裂音のようなモノが、辺りに轟く。

「!!!」

 伊庭が、それ越しに加納を見ていたガラスに、鈍い衝撃が走る。

 伊庭は反射的に、目を閉じた。再び開いた時、騒然となったロビーがその目に映る。そして、斜め上方にあるガラスに大きなひび割れが出来ているのに気付いた。それは。どんなド素人でも、テレビやなんかで一度は目にしたことのあるもの。

 弾痕!?

 伊庭は一瞬、呆けたようにそれを見詰めた。だがすぐに我に帰って、慌てて目の前のガラスをガンガンと叩いた。人間が叩いたくらいで割れるわけが無いのに、ガラスを割ろうと思ったのだ。

 そのすぐ先に、加納が居るのだ。そしてこの発砲は、明らかに加納を狙ったものだ。

「加納っ、逃げろっ!!!」

 ガラス越しのその声が聞こえた訳ではないだろうが。

 加納が顔を上げて、伊庭を見た。その右手は、腹を抑えている。加納は、伊庭に向かって叫んだ。

「伏せろっ!!!来るんやないっっ!!!」

「加納っ!!!」

 腹を押さえた加納の右手指が、見る見る赤く染まっていく。

「・・・・・・!!!!」

 伊庭は咄嗟に、ガラスから身を離すとホテルの入り口に向かって走った。

 膝ががくがくして、上手く走れない。

 加納が撃たれた。

 伊庭は頭が真っ白になっていた。

「・・・!!!」

 伊庭が玄関からエントランスに飛び出した時。

 一台の黒っぽいライトバンが、加納の身体をその中に引き摺りこんだトコロだった。

「加納!!!」

 スライドドアを閉めるのもソコソコに。ライトバンは凄まじい勢いで、走り出す。

「加納!!!待・・・・っ!!!」

 伊庭は追い縋ったが、あっという間に引き離された。

 ライトバンはホテルのエントランスを抜けて、大通りに凄まじいブレーキ音を響かせながら飛び出して行った。

「・・・はあっ。はあはあはあ・・・っ・・・。」

 伊庭は全ての信号を無視して走り去っていくライトバンを、呆然と見送った。

「・・・。」

 あのライトバンは。加納の味方のモノなのか。

 それすらも分らない。もし。もし、加納を殺そうとした人間たちのモノだったら。

「・・・。」

 伊庭は足ががくがくと震えた。両手で膝に手を付いて身体を支えながら、加納が襲われた辺りを振り返った。

 加納を襲った若い男が、血を流して倒れていた。

「・・・。」

 加納はあの時、男を投げ飛ばしただけだった。という事は、あのライトバンの人間がやったのかもしれない。加納も抵抗はしていなかった。多分、味方だったのではないか。

「・・・。」

 伊庭は少しだけ安堵して、小さな溜め息を漏らす。そしてもう一度、ライトバンが走り去った方角を見詰めた。

「加納・・・。」

 呟いたその声は、みっともないほど震えていた。

「・・・。」

 為す術も無く立ち竦む伊庭の耳に。だんだん大きくなってくるパトカーのサイレンが、虚しく聞こえてきた。

 

 

 

 

 自宅アパートに戻った伊庭は。

 電気も付けずにテレビに飛びつくと、ニュース番組を片っ端からハシゴした。どの番組でも、超高級ホテルで起きた発砲事件について触れてはいたが、怪我人の有無など、詳しいコトには言及していなかった。

「・・・。」

 伊庭の脳裏を、腹を押さえていた加納の姿が過ぎる。

「・・・加納。・・・無事なんか・・・?」

 伊庭は、唇を噛み締めた。

 加納は。自分の仕事関係の人間が、伊庭と接触することを異様なほどに嫌っていた。だから、伊庭の存在を知っている組関係者は本当に限られているハズだった。伊庭自身は、組関係の人間は誰も知らない。今までは特に不都合を感じたコトは無かったが、こういった事態になってみれば。伊庭には加納の容態を知る術がマッタク無いというコトに気付かされる。

「・・・。」

 誰よりも近しい位置に居るようで。どこまでも遠い存在。

 伊庭は呆然とした。

 伊庭は正直。今の今まで、加納が伊庭の前から居なくなるコトなど考えたこともなかった。どれほど、退けても退けても図々しく傍らに擦り寄ってきた存在。

 自分は、彼を失うのだろうか。

「・・・加納。」

 伊庭は小さく呟くと、その喪失感の大きさに、思わず身を震わせた。

 最近は二人でホテルで時間を過ごしても、必ずしもセックスをする訳ではなかった。伊庭が疲れている時などは、加納は伊庭をゆったりと抱き締めて、まるで子供をあやす(・・・)ように、愚痴やなにかを聞いてくれる。甘いだけのキスや肌をなぞるだけの愛撫。

 出会ってから。僅か二年あまりで。

 将悟とでは10年近くの年月をかけても得られなかった穏やかな時間を、伊庭は加納との間に得ていた。いつの間にか伊庭は、その穏やかさ心地良さに浸りきってしまっていたコトに、今更ながら気付く。

「・・・。」

 伊庭は小さく首を振ると、奥歯を噛み締めた。

 その時。

 ドンドンドンドン。

 チャイムも押さずに、誰かが伊庭の部屋のドアを叩いていた。

「・・・・・・。」

 どうせ、こんな時間に訪れるのは、新聞か何かの勧誘だろうと、伊庭は無視していたが。一向に立ち去る気配が無い。

 伊庭は舌打ちとともに立ち上がった。

「・・・誰や?」

 玄関前で、伊庭は訪問者に声を掛ける。だが返事は返ってこない。ドアを叩く音は止む気配もない。近所迷惑もいいところだ。

「・・・。」

 伊庭はもう一度舌打ちをすると、ドアの鍵を開いた。と。

「・・・っ!?」

 いきなり凄い力でドアが開かれる。間髪入れずにガッシリした体付きの男が玄関先に入り込んできた。

「・・・相手を確認せんウチに、鍵を開けんとって下さい。」

「誰や・・・?」

 伊庭は警戒して、2、3歩後退さった。

 男は、一見、サラリーマン風の風体をしていた。だがその。とてもカタギとは思えない鋭い目付きには、何だか見覚えが有るような気がした。が、すぐには思い出せない。

「お忘れですか。冴木(さえき)です。以前、一度だけお会いしましたが・・・。」

「・・・あ!」

 伊庭は思い出した。この冴木という男は、付き合いだしてスグに加納に紹介された。その時渡された名刺には、どこかの会社の取締役の肩書きがあった。いわゆる企業舎弟というヤツか、と思った記憶がある。

 加納は、その時。もしも、加納に何かあっても、この男以外の言うことは信じるな。この男以外の誰が来ても加納のコトなど知らないと言えと。真剣な顔で伊庭に何度も念を押していた。しかしその時、マッタク危機感を感じていなかった伊庭は、その事をすっかり忘れていたのだ。

「か・・・加納は・・・!?ケガは?う・・・撃たれただろう!?」伊庭は思わず、冴木の腕を握った。

「取り合えず、命に別状はありません。ご安心なさって下さい。」慌てている伊庭とは対照的に、冴木は落ち着いた声で応えた。

「どの程度のケガなんだ?」

「腹を、ちょっと。けど弾は貫通しとりましたし、手術後は、話も出来る状態ですから。」

「一体、何があったんや?何で、加納が撃たれたんや?」

こっち(・・・)関係のゴタゴタですわ。伊庭さんは聞いたとしても分りません。」

「・・・。」伊庭は唇を噛んだ。確かに。暴力団絡みのトラブルなど聞いたところで伊庭には分るまい。だが、この冴木という男の物言いに、どこか不快なモノを感じる。

「加納は、どこの病院に居るんや?」伊庭は微かな苛立ちを感じながら、訊いた。

「それも、ちょっと。伊庭さんを病院にお連れする事は出来ませんのや。当分。加納は伊庭さんには会いません。伊庭さんは今まで通りの生活を続けとって下さい。何か、ご伝言があれば、私が承ります。」

「ちょっと待て。何なんや、それは!?」

 伊庭は思わず怒鳴った。アマリに一方的だ。

「何も教えんと、ホトボリが醒めるまで黙って大人しくしとけ、とは何ちゅう言い草や。舐めるにも程があるやろ!!」

「・・・・・・伊庭さんは。加納の唯一の弱みやさかい・・・。相手方に、伊庭さんの存在を知られるコトは、避けたいんです。いや、本当は。加納は、伊庭さんの身を心配しとるんです。」

 冴木は小さく溜め息を漏らすと、囁くように言った。

「・・・どういうことや?」

「加納との関係が知られたら、伊庭さんに危害が及ぶかもしれまへん。危害が及ばんとしても・・・。伊庭さんの立場で、ヤクザと関わりがあるコトが世間に知れたらまずいでっしゃろ?カタギの会社勤めなんやさかい。」

「・・・。」

 伊庭は、唇を噛んだ。

 確かに今回の事件は。

 加納がヤクザだというコトを、伊庭に思い知らせた。

 どれほど穏やかな男でも。物腰が柔らかだろうと。加納は、ヤクザなのだ。だが。

「・・・そんなコトは最初(ハナ)っから分っとることやないか。今更やろ?」

 伊庭は、声を荒げた。だが、そうした伊庭の感情を無視するように、冴木は淡々と言葉を続ける。

「それから。ひょっとしたら、ホテルで伊庭さんの姿を見られたかもしれまへんさかい。念のために暫らくの間、護衛を付けます。勿論、伊庭さんのお邪魔にはならんように極力気をつけますさかい、どうかご容赦下さい。」

「何やと・・・!!」

 伊庭は胃の辺りがムカムカするのを感じた。

「・・・・・・。」

「・・・宜しいでんな、伊庭さん?私はこれで帰りますが・・・。何か。加納に、伝言がありますか?」

「伝言やと?」伊庭は、冴木を睨んだ。怒りで頭がくらくらする。

「伊庭さん。心配で気が立っとるのは分りますが、落ち着いて下さい。私は敵やありまへん。態度が気に触ったんなら、謝ります。けど。加納も私も、伊庭さんにとって一番良えように動いているだけです。」

 冴木は顔を顰めると、諭すように伊庭に言った。

「・・・ふざけるな。」

 伊庭は両の拳を握り締めた。

「え・・・?」

 冴木は一瞬、面食らったような顔をした。構わず、伊庭は続ける。

「加納に、ふざけるな、と伝えろ。それから・・・。」

 伊庭は言葉を切った。冴木の顔にゆっくりと視線を充てる。

「・・・。」

 冴木は驚いたような怒ったような、微妙な表情を浮かべたまま、伊庭を見返していた。

「・・・手前みたいなヤクザを、真面目に心配して損した。とっとと、死にくされ。そう言え。それだけや。」

 伊庭は吐き捨てるようにそういうと、冴木を強く睨んだ。

 

 

 

 

 翌日。伊庭は、いつも通り会社に出勤した。

 だが。いくら平静を装おうともやっぱり動揺していたのか仕事で信じられないミスを連発し、堪りかねた部下から、もう帰って休んでくれと懇願され、定時に会社から追い出された。

「・・・・・・。」

 伊庭は、とぼとぼと、通りを駅に向かって歩く。

『来るんやない!!!』

 ガラス越しに。必死の形相で、伊庭に叫んだ加納の姿が脳裏を過ぎる。

 あんな高級ホテルを密会場所に選んでいたのは。そこが、明らかな暴力団関係者など、玄関から一歩も入れない格式の高さを買っていたのだだというコトに、伊庭は今更ながら気付いた。

 加納は。伊庭を必死で自分の世界から護っていたのだ。だが。

(ふざけるな。加納。俺はオンナなんか。お前に護ってもらわんと生きていけへんような、か弱い存在か。)

 伊庭は悔しかった。加納に同等と見られてはいなかったという屈辱感が、捻るような胃の痛みを誘発する。それに。

(大体。・・・そうまでして、俺達が付き合う意味があるんか。加納?)

 単純に。そうした疑問も湧き上がる。

 モトモト男同士だ。それだけではない。ヤクザとリーマン。冴木が夕べ言った通り、加納はともかく、伊庭にとっては、加納の存在は命取りだ。せめてリーマン同士であったなら、あるいは何かの道があったかもしれないが。伊庭はそこまで考えて、頭を振る。どんな道もない。この関係はアクマで刹那的なものに過ぎないハズだ。

 加納にだって分っているハズなのに。

 まるで。何よりも大事な宝物を護るように。加納は伊庭を護っていたのだ。

「ふざけんな・・・。」

 伊庭は小さく呟いた。

 

 

 

「ふざけんなや・・・。」

 その日の真夜中。

 伊庭は高い塀の前で、今日何度目かの呟きを漏らした。

 まっすぐ自宅に帰ったものの。伊庭はどうにも腹の虫が治まらなかった。ベッドに入っても、眠気のカケラも浮かんでこない。

 加納の入院先を冴木は教えてくれなかったが。インターネットが教えてくれた。どこか、正規では無い医者に掛かっているのかもしれないと思っていたのだが、普通の総合病院で手術を受けたようだった。あるいは。

 正規でない医者に掛かるには、傷の具合が悪過ぎたのかもしれない。

 現在。この病院の出入りは恐ろしく厳しくなっている。警察と加納の組の人間が加納の病室を護り、容易には近付けない。

「・・・・・・。」

 伊庭は塀に手を伸ばした。てっぺんには、僅かに届かない。

「・・・。」

 伊庭は、数歩後ろに下がると、勢いをつけて塀の上に両手を伸ばした。

 

 一気に塀を乗り越えると。伊庭は、病院の敷地内に降り立った。心臓が。ドキドキと早鐘のように打っている。

「・・・。」

 別に何をしようと思っている訳では無かった。ただ。どうしてもこのままでは収まりがつかない。伊庭は加納と、何が何でも直接会って話しをするつもりであった。

 言いたい事は、山のようにある。

(厳戒態勢ゆうたかて、所詮、日本人のやるこっちゃ。)

 伊庭は病院の建物に張り付くと、頭上にある窓に手を掛けた。どこかの鍵は必ず開いていると思っていた。

「ビンゴ。」

 思わず声が出た。

 何枚目かの窓ガラスが、音もなく開いた。

 伊庭は素早く室内に身体を滑り込ませる。そこは。リネン室か何かのようだった。部屋を出ようとしたところで、汚れた白衣が何着か目に付いた。テレビか何かでは、白衣を身につけて医者の振りをして病室に忍び込むなんて真似をよくしているが、本当にそんなマヌケなことが通用するのかどうかは眉唾ものだが。取り合えず。一着を手にとって部屋を出た。

「・・・。」

 伊庭に勝算が無い訳ではなかった。冴木という男は伊庭に護衛を付けると言っていた。よっぽど上手くやっているらしく、伊庭には気配も感じ取れないが。もし本当に居るのなら、伊庭が病院に忍び込んだことは、加納。あるいは冴木には連絡がいっている筈だ。

 追い出されるか、招き入れられるかは五分五分の確立だったが、ダメなら別の手を考えれば良いだけだ、と伊庭は考えていた。

「・・・。」

 一応。白衣を羽織って、非常階段の扉を開いた。ここにも鍵が掛かっているかどうかは五分五分だと思っていたのだが、日本人はまだまだセキュリティ意識が甘い。体力に自信の無い伊庭は、エレベータを使いたいトコロだったが、もし看護婦の詰め所のまん前とかにエレベーターホールがあるとしたら、少々危険すぎる。仕方なく伊庭は階段を一歩一歩、上り始めた。

「・・・ちくしょう。ジムにでも通うか。」

 息がカナリあがってきたトコロで。伊庭はようやく目当ての階に到着した。

「・・・。」

 荒い息が整ってきたトコロで。ゆっくりと非常階段の扉を開く。

「うわ。」

 思わず声が出た。

「・・・伊庭さん。」

 扉の前には。冴木が苦り切った顔で立っていた。

「あ。びっくりした。驚かすなや。」

「・・・それは。こっちのセリフでんがな。一体、何をするおつもりです?」

「加納に、文句を言いに来たんや。」

「文句?」

「そうや。」

 冴木は大きく溜め息を吐いた。

「伊庭さんには、加納の気持ちが分ってもらえまへんのか?加納は伊庭さんを大切に思うておるんです。迷惑を掛けとうないんです。」

「冴木さん。俺はな。そりゃ最初は無理矢理やったかもしれん。けど、それから後は、単純に加納が怖かったから付き合うてきた訳やないで。」

「・・・。」

「本気で加納を嫌って、切れようと思うたら、どんな手を使ってでもやった。それこそ加納と刺し違えてでもな。」

「・・・。」

「俺は、自分で選んで加納と一緒に居ったんや。その責任を他人にとってもらうつもりはサラサラあらへん。例え世間様に後ろ指を指されるコトになっても。その位のリスクは最初から承知の上や。」

「・・・。」

「あんたらヤクザは、サラリーマンをちょっと舐め過ぎなんやないか・・・。」

「・・・。」

「・・・と。いうようなコトを加納に言わんことには、腹が立って、夜も眠れんわ。あのアホがまだ生きているやったら、会わせてくれ。」

「・・・。」

 冴木は、さっきより大きな溜め息を吐いた。そして。

「・・・(かな)いまへんな。加納にも、伊庭さんはああ見えて、海千山千の強者(つわもの)やから、口では絶対に勝てんから、極力ハナシをするな言われとったんですが。」

 そう言うと。伊庭が初めてみる微かな笑みを、そのいかつい顔に浮かべた。

 

 

「・・・。」

 何かの気配を身近に感じて。

 加納は薄く目を開いた。微かな機械音が病室に響いている。自分の身体から出ている何本もの細かなチューブが煩わしく、加納は小さく舌打ちをした。その時。

「目ぇ、覚めたんか。」

 聞き慣れた声が、ベッドの傍らから響いた。

「・・・伊庭・・・?」

 思わず顔を、声のした方向に向けた。

「そうや。」

 伊庭はベッド脇の丸い椅子に腰を降ろして、加納を見ていた。

「何で、ここに?俺と居ると危ないと冴木は伝えんかったんか?」加納は、眉間に皺を寄せた。

「聞いた。会わせる訳にはいかんと断られたさかい、自分で忍び込んできたんや。」

「忍び込んで・・・?」

「夜這いや。暫らく放っておかれたさかいな。身体が疼いてしゃあないわ。」

 伊庭は、スケベったらしい笑みを、中年顔に浮かべた。

「何や。俺が恋しかったんか。」

 加納がいささか呆れたように、苦笑した。

「嬉しいか・・・?」

 伊庭は呟いた。だが、その顔からは、一気に表情が消えていた。加納は、それを見ながら小さな溜め息を吐いた。

「・・・せやな。・・・お前が怒ってなかったら、もっと喜べたんやろがな。何を、そんなに怒っとるんや?伝言、聞いたで。心配して損したって?」

「あんたが、俺を世間知らずの小娘扱いして、見縊(みくび)っとるからや。それから。伝言は正確には伝わっとらんようやな。とっとと死ね、と言うたんや。」

「・・・。」

 加納は瞳を眇めて、伊庭を見た。その中に浮かぶ剣呑とした光にも怯まず、伊庭は言葉を続けた。

「加納。俺は将悟と付き合うとる間。色んな目ぇに遭うてきた。年齢的には、ホトンド淫行やったからな。」

 喉モトで、乾いた笑い声を漏らす。

「”売女(ばいた)”扱いされたコトも一度や二度やない。最低の人間やと口を極めて罵られたコトかてある。」

「・・・。」

「・・・けど、俺は。将悟と付き合う覚悟を決めた時から、この先。そんなコトもあるやろうと、予想はしとった。覚悟もしとった。・・・やから、どこの誰に何を言われようが、絶対。傷ついたりはせん、と決めとった。・・・自分の行為を、決して恥じたりはせんと覚悟を決めとったんや。」

「・・・。」

「加納。お前との付き合いかて、同じことや。ヤクザと付き合うコトに、俺が何の覚悟もしてへんと思うとったんか。」

「・・・。」

「加納。お前は・・・。」

 伊庭は。射るような視線を、加納に真っ直ぐに向けた。

「・・・。」

「俺を、馬鹿にしたんや。」

「・・・伊庭。」

 加納は唇を噛むと、視線をベッドに寝ている自分の足先に落した。

「俺が。お前に責任を取ってくれと、詰め寄るとでも思うたんか?」

「違う。俺は・・・。」

 加納は、一瞬言葉を切って、伊庭を見た。それから溜め息を吐くと目を閉じた。

「・・・俺が本物のヤクザやと。あんたが気が付いて、あんたに捨てられるのが、怖かったんや。」

「何やて?」

「・・・二年前、ショウゴと別れた時。あんたには、色んな選択肢があったハズや。あんたは、元々ゲイという訳やない。新しく家庭を築くことも出来たやろ。」

「・・・いきなり。何を言い出すんや?」

 加納は目を開くと、伊庭の方を見た。

「あんたとの将来を、時々考えてみるコトがあるんや。けど、俺がヤクザである限り、どうやったって幸福な結末は、思い浮かばんのや。」

「・・・。」

「俺は。あんたを不幸に陥れることしか出来ん。」

 加納は伊庭から顔を逸らすと、天井を見詰めた。

「・・・。」

「・・・二年前から分っとった。あんたにとって、俺を選ぶのは、最低最悪の選択やというコトは。けど俺は・・・。あんたがどうしても欲しかったさかい、力ずくで手に入れてしもうたんや。」

「・・・。」

「俺なんかとの関係は、立派なカタギさんのあんたにとったら、(きず)にしかならへんコトは、良う分っとる。俺はあんたの足を、引っぱるだけの存在やということは、分っとるんや。」

 伊庭は息を飲むと、ゆっくりとベッドの方に身体を傾けた。そして小さな声で訊いた。

「加納。俺と・・・。別れたいんか?」

 加納は舌打ちをすると、伊庭を睨んだ。

「そんな事、有るわけないやろう!ベッドで。俺の腕の中で眠っとるあんたを見るといつも思う。このまま、連れて帰って、どこかに閉じ込めて、俺しか目にすることが出来んようにしてやろうかと。」

「・・・そんな恐ろしいコト、考えとったんか?」

 伊庭は、さすがに驚いた。目の前に横たわる大きな男を、まじまじと見詰める。

「・・・。」

 加納は微かに頬を染めると、首を振って小さな溜め息を吐いた。

「・・・どんなに未来(さき)が見えんでも。不幸な結末しか待ってのうても。俺は。あんたの傍に居りたい。何時かは・・・。終わりがくるとしても。一緒に行けるところまで並んで歩いていきたかったんや。」

「・・・。」

「・・・やから。色んなコトを隠しとったんは、あんたを護っとった訳やない。結局は俺のエゴや。あんたに捨てられるのが、怖かったんや・・・。」

 加納は伊庭から顔を背けた。

「・・・加納。」

「俺から、逃げたなったか?伊庭。」

 加納は伊庭から顔を背けたまま、小さな声で言った。

「・・・。」

 伊庭は、大きな溜め息を吐いた。何かを言おうとして、加納の肩が何かに耐えるように微かに震えていることに気付く。

 伊庭は苦笑した。

「・・・将悟と付き合うとった時も、俺は、別に幸福な将来を夢見てた訳やない。」

「・・・。」加納の肩が、大きく震えた。

「大体。男同士で、どうやったら幸福な将来を夢見ることが出来るんや?」

「あんたは、同性愛については、凄い偏見の持ち主やさかいな・・・。」加納が、低い声で呟いた。

「いつか将悟は・・・。」伊庭は続けた。

「・・・。」

「俺に飽きて、誰か他の人間と歩いていくやろうと、ずっと思うとった。」

「・・・。」

「・・・それでも。それなりに、幸せやった。」

 伊庭は視線を上げて、一瞬だけ遠くを見るように目を細めた。

「・・・。」加納は、唇を噛んだ。

 伊庭は視線を加納に戻すと、小さく笑んだ。

「あんたの腕の中に居るのは、心地良え。」

「・・・。」

「確かに、将来は見えんけどな。」

 加納は大きく息を吐くと、顔を伊庭から背けたまま低い声で呟いた。

「・・・足を洗おうかと、思うたコトもある。けど俺は、骨の髄までこの世界に浸り切っとる人間や。いくら縁を切ったというたかて、多分過去がいつまでも追い掛けて来る。・・・同じことや。無駄なんや。」

「・・・。」

「俺は、あんたが一生懸命、真面目に働いとるコトは良う知っとるさかい。いつか、俺のせいであんたがソレ(・・)を失うかもしれんかと思うたら、辛うてしゃあない。そうしたら、あんたの歳で再就職は難しいやろ?・・・俺のせいで、あんたが不幸になるかもしれんと思うたら・・・。俺は。」

 加納の言葉に、伊庭は少し呆れたように言った。

「そんなに、不幸な将来ばっかり考えとるんか。思うたより暗い奴やったんやな。」

「・・・。」

 加納は小さく笑ったようだった。そして。

「伊庭。今やったら・・・。今、この瞬間やったら。・・・俺はあんたと別れたる。」

 はっきりとした口調で、そう言った。

「・・・。」

 伊庭は、小さく息を飲んで口を(つぐ)んだ。加納は、振り向かない。

「黙って。ここを、出て行ってくれたら良え・・・。俺は・・・。追い掛けん。」

「・・・。」

 伊庭は視線を、背けた加納の顔に充てていた。微かに見える頬が、濡れているように見えた。

 伊庭は瞳を閉じると、小さな溜め息を吐いた。そして目を開くと、いくつもの点滴の管が出ている加納の手に自分の手を重ねた。

「・・・言うたやろ?あんたの腕の中に居るのは、心地良え、と。」

「・・・!!!」

 加納が、弾かれたように震えた。

「昨夜な。あんたが、目の前で撃たれた時。俺は、心臓が停まるかと思うた。あんたを失ったかもしれんと思うたら、足が震えて立ってられんかった。」

「・・・伊庭・・・。」

 加納がゆっくり振り返る。まるで、信じられないモノを見たように、その目は大きく見開かれている。

 伊庭は、もう一度溜め息を漏らすと微笑んだ。

「行けるとこまで。一緒に並んで行こうやないか?」

「!!!」

 その瞬間。

 加納は腕に何本も刺さっていた点滴の管を引き剥がしながら、凄い勢いで上半身を起き上がらせた。

「か、加納!?ちょ・・・!!無茶すんなや!!!」

 伊庭が慌てて、加納の動きを制止しようと立ち上がる。

「・・・!!!」

 だが加納は。伊庭の制止をモノともせず、立ち上がった伊庭の腰を強い力で引き寄せると、固く固く抱き締めた。

「・・・加納・・・。」

「並んで歩いても・・・。良えんか・・・?」

 振り絞るような。泣き出しそうな声が、胸元にある加納の頭から聞こえる。

「・・・。」

 加納の肩が、震えていた。

「・・・。」

 伊庭は。無言で加納の身体に腕を回した。

 その髪に、顔を埋める。そしてちょっとバツが悪そうに、呟いた。

「・・・二年も付き合うとったのに・・・。良う考えたら、俺はあんたの下の名前を知らんな。」

 小さな笑い声が、加納の口から漏れた。

「いつになったら気付くんやろと、思うとった。・・・雅美(まさよし)や。みやびに美しいと書く。」

「・・・典雅な名やな。」

 加納は顔を上げて、伊庭を見た。苦しそうな顔で、言葉を搾り出した。

「・・・許してくれ。あんたの人生をメチャクチャにしてまうかもしれん。」

「・・・。」

 伊庭は無言で、その頭を自分の胸に押し当てた。

「『俺達に明日はない』の映画のラストシーン。二人が蜂の巣になる寸前。ボニーがクライドに向かって微笑んだかどうかで、ずっとトモダチと揉めとったんやが、お前は、どう思う?」

「伊庭は、どう思うんや?」

 加納はもう一度顔を上げると、伊庭を見た。

 伊庭は、にっこりと微笑んだ。

「ボニーはクライドに、微笑んだんや。」

「ほうか。したら、・・・あの映画は。ハッピーエンドやったんやな。」

「・・・当たり前や。あれは、究極のハッピーエンドやろが。」

 伊庭は。声を上げて笑った。

「・・・。」

 伊庭を抱く、加納の腕の力が強くなった。

 伊庭はふいに。

「・・・。」

 昔、同じ話をした時に、『ボニーとクライドって、誰?』と聞き返してきた少年が居たことを、思い出した。

 脳裏を一瞬だけ。粉雪の舞う落ちる公園の、寒々しい風景が過ぎる。

「・・・。」

 伊庭は、静かに目を閉じた。そして、加納の傷ついてもなお逞しいその身体に身を預けた。

 

 END 

04.03.18

 

 雅美(まさよし)くんでしたか。やっと加納の名前が判明(笑)。

 しかし。二人は出来上がってきましたね(笑)。将悟。ハタシテ割り込めるのでしょうか(←おい!!)!?加納がヤクザだから、まだチョットだけ可能性があるかも。でなかったら、絶対無理でしたね(笑)。

 ということで、第3部に続きます。