七 夕
<ろくでなしの神話 5>


ささの葉さらさら軒端に揺れる
お星さまきらきら金銀砂子



 あれは。
 一夜(ひとよ)の、夢だったのか。



 義兄である辰巳(たつみ) 雄一郎(ゆういちろう)との対立が激化してきた、ある夏の夜だった。
「ボン?どちらへ?」
「うるせえな、いちいちいちいち。小便だよ小便。」
 後藤(ごとう) 一馬(かずま)は、配下の組長たちとの会合の後、イッパイ機嫌で、繁華街をそぞろ歩いていた。最近は、一馬の幼い頃の守役であり、父親の側近中の側近である榊が身辺の警護について異様に五月蝿くなっていて、一人で行動することを決して許してくれない。一馬は面倒臭そうに言い捨てると、路地裏を人気の無い方向に向かって歩き出す。
「お一人には、出来ません。」
 榊に言い含められている組の若い衆が、追いすがってくる。
「やかましい。俺が用を足しているのを、見てえってのか。」
 一馬は大声で怒鳴って彼らを遠ざけると、舌打ちをしながら歩いた。もういい加減うんざりだった。
 イマ現在。義兄の雄一郎と一馬の仲は、最悪であった。二人の父親であるところの組長が。一馬には何の相談もなく、独断で何人もの鉄砲玉を自分の長男である雄一郎に対して放っていたのである。結果はことごとく失敗。いまだに雄一郎は、ピンピンしており、当然だろうながら、一馬たちに対する態度を一気に硬化させていた。
 殺したいほど息子を(うと)む父親の心情というものは、一馬にはイマイチ理解できないが。
 問題は、イマまで表立って何もアクションを起こすことの無かった雄一郎は、完全に一馬と父親に対して敵対行動を取り始めたというコトだ。このままでは、組が割れる。
 正直、余計な真似をしてくれたというのが、一馬の父親に対する偽らざる心情であった。とはいうものの。
 一馬と雄一郎。所詮いずれは雌雄を決しなくてはならない宿命ではあった。
 その瞬間(とき)が来た、ということなのかもしれない。
 今現在。
 明日どっちが殺されていても可笑しくは無い緊迫した状況であることは、間違いなかった。
「・・・。」
 一馬はもう一度舌打ちすると、壁に向かい、自分のイチモツと取り出した。パンパンになっていた膀胱を一気に開放して、ため息を漏らす。
 と。
 その時。
 「・・・どさっ?」
 近くで何か。大きな物が落ちたような音が聞こえて、一馬は自分の手元を覗き込んでいた顔を上げた。
 行き止まりの袋小路。
 ビルか何かを取り壊したのか。ネコの額ほどの空き地が雑草とともに存在していた。3メートルほどの高さのコンクリート塀のようなモノだけが残り、空き地を囲んでいる。それをたくさんの古い雑居ビルが取り囲んでいるのだが、塀の一部は、人一人くらいが歩くことが出来るくらいの厚みを持ち、一馬が居るのとは反対方向にある階段でそのまま向こう側の路地に繋がっていた。その塀だか通用路だか分からない場所に。
「・・・?」
 一人の男が、転がっていた。
「・・・?」
 一馬は用を終えると雑草を踏みしめ踏みしめ。その男に近寄っていく。見上げれば。使っているのか廃墟なのか分からないほどの古い雑居ビル。男は、何をしていたのか、そこから落ちたのに違いなかった。
「・・・。」
 イッタイ。何をしていたのか。どういう間抜けだ、と。好奇心で近寄っていった一馬は。その男が浮浪者等ではなく、キチンとしたスーツを身に着けていることに多少、驚いた。しかもカナリ上質な。
「・・・。」
 遠くから漏れてくる微かなネオンに照らされる高みにあるその顔を、一馬は少し伸び上がって覗き込む。その瞬間。
「・・・!!!!」
 あり得ない事態に。一馬の息が、止まった。

(・・・ゆ。雄一郎・・・!?)

 そこ(・・)に倒れているのは。
 間違いなく。一馬と敵対している義兄の辰巳 雄一郎であった。
「・・・ゆ・・・。」
 アマリにも有り得ない事態。
 千歳一隅のチャンス?
「・・・。」
 一馬は大きく首を振った。そして顔を叩いてもう一度オトコの顔を見る。
「・・・。」
 間違いない。長年、引き裂いてやりたいと願い続けてきた男。いつ会ってもきっちりとオールバックにしてある艶やかな黒髪は、微かに乱れ、額に落ちてきている。その端正で冷徹な白い顔。一馬はぶるりと身体を奮わせた。自然と息が荒くなる。興奮で身体が(たか)ぶっているのが分かる。まるで飢えた獣が、ようやく獲物を目にした時のように。
 熱い。
 熱い。
 身体の芯から、立ち昇る炎。凄まじい熱さが、一馬の身体を焼き尽くそうとする。
「・・・。」
 どういう事情で、こんなことになったのかは分からないが、雄一郎は完全に意識を失っているようで、ピクリとも動かない。
 一馬は震える腕を、義兄に向かって伸ばした。だが。
 いかに長身の一馬でも3メートルより近い塀の上には、手が届かない。
「・・・雄一郎。・・・雄一郎っ!くそっ!!!」
 一馬は爪先立ちになり、必死で伸び上がる。だが。どうしても雄一郎の身体に手が届かない。
「くそっ!!!」
 一馬は、あたりを見回した。
 何か足場になるものを、捜す。だが。とっさには見当たらない。
「・・・っ!!!」
 脂汗が流れた。
 雄一郎がそこに居る。もう少しで手に入るというのに。一馬の精悍な美貌が、焦燥感に歪む。
「・・・くっ・・・!!!」
 一馬は、コンクリート塀から数歩後退さると、反動を付けて飛び上がった。必死に壁の上部に手を掛けようと足掻く。だが。僅かに足りず、果たせない。
「・・・っ!!!!」
 一馬は、歯を喰いしばった。もう少しで触れられるのに。こんな機会は、二度とあり得ないのに。
「はあっ!!はあ!!!!」
 何度繰り返しても。微妙な差で、手が届かない。何度目かで右手の人差し指と中指の第一関節が塀の上部を捉えた。死に物狂いで、塀にしがみ付く。左手を伸ばす。中指が。もう少しで雄一郎の服を掴むと思った瞬間。
「・・・っ!!」
 右手の指が捉えていた僅かなとっかかりは、無情に滑り、一馬は地面に落下した。
「ちくしょうっ!!」
 一馬は叫んだ。そして、ようやく。自分を待っているハズの組員たちの存在を思い出した。
「・・・誰か・・・。」
 一馬は頬を紅潮させて振り返った。だが。さっき怒鳴ったせいか、組員たちは、少し離れたトコロに居るらしく姿が見えない。
 一馬は小さく舌打ちした。その時。
「・・・。」
 ひょこ。
 という感じで。
 小さな。薄汚れた子供が、雄一郎の背後から現れた。必死の形相の一馬を怖々といった感じで見下ろしている。
「・・・っ!!!小僧っっ!!!!」
 一馬は、必死の形相で叫んだ。
「・・・そのオトコを・・・っ!!!俺の方に転がせっ!!転がしてソコから、落とすんだっ!!俺が、受け止める。」
 一馬は大きく腕を広げて、足を踏ん張った。子供が。夜半にこんなトコロに居る理由など、考えもしなかった。
「・・・。」
 子供は目の前の雄一郎と一馬を交互に見て、躊躇っていた。
「早くしろっ!!転がすんだ!!」
 一馬は、凄んだ。
 自分の手に、落ちてくる。雄一郎が。期待に、身体が震えた。だが。
「・・・。」
 子供は、一馬の剣幕に怯えたように、身体を震わせると、口元に手を当てた。
 そして。ふるふると、首を左右に振ると。
「・・・。」
 脇に両手を入れて、雄一郎の身体を起こすと、後方に引き摺り始めた。
「・・・っ!!!おいっ!!!貴様っ!!!何の真似だっ!!!どこに連れて行く気だっ・・・!?」
 一馬は歯を剥き出して、怒鳴った。コンクリート塀をガンガン叩きながら、叫ぶ。
「・・・ひっ・・・・!!!」
 子供は涙目になりながら。
 だが。雄一郎を離さず、必死に引き摺っていく。
「返せっ!!!それ(・・)はっ。俺のモノだっ!!!俺に渡せっ!!!」
「・・・。」
 一馬の剣幕に。子供は首を竦めて、ギュッと目を瞑った。だが、怯えながらも首を振り続けながら、雄一郎を引き摺って一馬から遠ざかっていく。
「待てっ!!!おいっ!!ガキッ!!欲しいものなら、他に何でもやる!!だから。そのオトコは、俺に寄こせ(・・・)っ!!」
 一馬は、恥も外聞もなく懇願するように叫んだ。大声で叫び続けた。
 さすがに。この騒ぎに気づいたのか。
「・・・ボンッ・・・・!?」
 路地から。
 さすがに異変を感じた一馬の配下の者が、飛び出してくる。
「・・・っ捕まえろっっ!!!!アレはっっ!!アレはっ!!俺のモノ(・・)だぁっっ!!!」
 一馬は子供のように地団駄を踏みながら、塀の上を指差して叫んだ。配下の人間が慌ててそれを追って見た先には。
「・・・。」
 もう誰も居なかった。



「・・・俺が、夢でもみたっていうのか・・・っ!!」
 一馬は激昂して、目の前のテーブルを蹴り飛ばした。
 ズゴゴォンッ
 かなり重めのテーブルは、奇妙な音を立てて、床に転がった。
「そうは、言いやせんがね。」
 夜中に呼び出された榊は。そうした一馬の苛立ちを苦笑とともに流して、穏やかに一馬を見た。
 守役として、ずっと一馬を見守ってきた榊は。一馬の気性の激しさを良く知っている。多少のコトでは動じたりはしない。
「その後。辺りを探しても、その変なガキも雄一郎さんも見つからなかったんでしょう?」
 噛んで含むように、一馬に向かう。
「・・・う・・・。」
 そうなのだ。一馬は苦虫を噛み潰したような顔で、黙り込んだ。
 あの後。一馬たちは、周辺を必死に捜索した。だが、大の男一人を引き摺って、絶対遠くには行けないハズなのに。一馬とあの場に居た配下の者8人が総出で捜したというのに。あの子供と雄一郎を見つけることは出来なかったのだ。
「・・・だいだい。雄一郎さんが。空から降ってくるなんてことが、あるんですかねえ・・・。」
「落ちてきたんだから、仕方無えじゃねえかっ!!!」
 一馬は苛立ちを隠さない。
「はあ。」
 榊はにやにやと、一馬の顔を覗き込んだ。
「・・・しかし。何故、すぐ若いモンを呼ばなかったんですか?」
「・・・。」
 一馬は黙り込んだ。本当に、どうしてだか、一馬にも分からなかった。スグに人を呼んでいれば、今頃は・・・。
 手に入る。と思った瞬間に。何もかもが分からなくなった。この世に居るのは、自分と義兄だけだった。
「・・・。」
 何も言わなくなった一馬に。榊はもう一度笑った。そして。
「ま・・・。酔ってらしたんですよ。雄一郎さん絡みで苛々するコトが重なりましたしね。背格好が似た男を見間違えたんでしょうよ。暗い場所だったみてえですしね。」
 そう言って、いかにも慰めるように一馬の肩を二度叩いた。
「・・・。」
 一馬は。まるで子供をあやす(・・・)ような榊の言葉に、拳を握り締めた。
(見間違えただと? そんなコトは、絶対に無えっ。)
 それには自信があった。現実的に見れば。どう考えても雄一郎が一人であんな場所に居るなんてコトは考えられない。榊が言ったコトが一番スジが通るだろう。だが。
(絶対に。あれは、雄一郎だった。)
 一馬には雄一郎を見分ける自信があった。ガキの頃から。良かろうが悪かろうが、一馬の心を揺さぶり続ける唯一の男。カタトキも、その存在を意識しなかったコトが無いと言っても過言ではない義兄。自分が、その雄一郎を見間違うワケが無い。
「・・・。」
 一馬は唇を噛み締めた。

 その夜からずっと。
 一馬の身体の奥に灯った熱は、引くことがなかった。
 くすぶっているかのように、熱い。その何か(・・)。性的な欲望にとても良く似ているのに、オンナの肌では散らすことの出来ないこの熱を。一馬は、ずっと持て余していた。







「暑い・・・。」
 一馬は不機嫌に、そう言った。
 頬をコメカミをひっきりなしに汗が流れる。もはや拭おうとも思わない。一馬は今日何度目かわからない、苛立たしげな舌打ちを漏らした。
「すみません。車はすぐその先に待たせてありますんで・・・。」
 休日のこの日。用のあった事務所前の道路は、たまたま地域のフリーマーケットか何かをやるというので、車は乗り入れ禁止となっていた。人でごった返す通りを、最寄の駐車場まで歩く。その道は、あちこちに小さな店が開かれており、ブラブラしている客たちが、店先の不用品に興味を引かれては立ち止まり、歩き難いことこの上無い。
「・・・。」
 一馬は眉間にしわを寄せたまま、返事もしない。一馬の周りの若い衆たちは、びくびくと一馬の様子を伺っている。
「・・・っ。」
 一馬は。本当に何度目かわからない舌打ちを漏らした。
 その瞬間だった。




「・・・。」
 ふと。
 涼やかな風を感じたような気がして。一馬は脚を止めた。
 キンコンカン。
 聞きなれたような音色。
 一軒の店先で立ち止まって居る、仲睦まじそうな親子。まだ若い父親が手にした江戸風鈴を、小学生くらいの息子に向かって、小さく揺らす。息子は頬を紅潮させて。その金魚の絵の入ったギヤマンを、食い入るように見ていた。
「・・・ゆういちろう・・・。」
 声が掠れた。
「雄一郎!」
 もう一度。
 父親に向かって呼び掛けた。だが。
「・・・っ!!」
 一馬の言葉が聞こえないかのように。一馬が一度も目にしたことの無い、優しい微笑を浮かべ。雄一郎は子供の手を引いてその店から離れ、遠ざかって行く。
「雄一郎っっ!!!」
「きゃっ!!!」
「危ないっ!!!」
 不規則な動きをする人垣や地面に展開されている店に阻まれ、思ったように動けない。
「ボンっ!!」
 若い衆も。突然方向を変えて走り出した一馬を、慌てて追ってくる。だが、たくさんの人垣に阻まれて、引き離される。背後から彼らの怒声と通行人の悲鳴が聞こえたが、一馬は停まろうとは思わなかった。
「ちくしょうっ!!どけっ!!!」
 大柄な一馬が、人並みを払うように突進する。
 弾き飛ばされた人間は皆、一様に瞬間的に怒りを見せるが。いかにもスジ者といった一馬の風体を見て、無言で一歩引く。
「・・・っ!!」
 人並みを掻き分けて、一馬は走った。最早、何のために義兄を追っているのか、解らない。だが。一馬をいつまでも侵食しているこの熱は、義兄をこの腕に抱くまでは散らせない。一馬は狂おしい思いで、雄一郎を追った。

「・・・・。」
 だが。結局、見失ってしまった。
 一馬は路地奥に入り込んだ袋小路で、荒い息を吐きながら、壁を殴った。
「ちくしょうっ!!!」
 一馬はあきらめきれずに、辺りを徘徊する。
 一等地にありながら。一昔前の地上げの傷跡が、いまだに残るゴーストタウンのような古い町並み。一馬は路地から路地へと駆け回った。
「・・・・。」
 はあはあと荒い息を吐きながら、一馬はついに座り込んだ。
「・・・。」
 気付けば。
 マナーモードに設定してあった胸ポケットの携帯電話が、狂ったように振動している。一馬を見失った組員たちが、自分を必死で捜しているのは、見当がつく。
 一馬は息を吐いて、それの電源を落とす。今すぐ。普段の日常に帰る気にはならなかった。
(俺は。何をやっているんだ。)
 アマリの無様(ぶざま)さに、苦笑が漏れた。
 その時。
「・・・!!!」
 目の前の木造の。古い二階建てのアパート。外階段から部屋のドアに向かうカタチの、人など住んでいそうには見えないボロアパートの二階の一番奥の部屋から。小学生くらいの男の子が飛び出してきた。
「!!」
 見覚えのあるその姿に、一馬は立ち上がった。
 男の子は一心不乱に階段を駆け下り、どこかに行こうと一馬には眼をくれず傍らを走りぬける。その襟首を。
「・・・お前っ!!!」
 一馬は掴んだ。
「あ・・!?あーーーーっっ!!」
 ネコの子のように吊り上げられて、子供は手足をバタつかせて暴れた。
「あの時のっ!!一馬を連れて行ったガキだなっ!!!」
「いやーーーうっ!!!いやっ!!わああーーっ!!!」
 子供が悲鳴を上げて暴れた。
「雄一郎を、どこに連れて行ったんだっ!?さっき一緒にいたのも、お前だなっ!!!」
「わあああああっ!!!わあーーーーん!!!わぁーーーん!!!」
 一馬に凄まじい形相で詰め寄られて、子供はついに大声で泣き出した。
「・・・!!」
 なおも一馬が子供を問い詰めようとした時。
「待って下さい!!」
 誰かが、一馬の右腕を掴んだ。
「その子が、何かしましたか?すみません。その子は病気で知能が遅れているのです。無礼があったかもしれませんが、どうか許してやって下さい!」
「・・・。」
 その声に。
 一馬は、ゆっくりと振り返った。
「!!!!」

 ゆういちろう。

 一馬は、声を失った。子供を掴む手が緩んだ。
「わああああああんっ!!!」
 その隙を狙って、子供は一馬の手から逃れた。
 泣きながら、雄一郎に抱きつく。雄一郎は子供を抱かかえて、一馬を見た。さも。

 見知らぬ者を見るように。

「・・・っ!!!」
 殺してやる。
 その眼差しを受け止めた瞬間。一馬は、全身全霊で誓った。
(ズタズタに、引き裂いてやる!!!)
 頭が、真っ白になるほどの怒りが全身を覆い。身体が自然と震えてくる。握り締めた拳の爪が皮膚に喰い込む。

「・・・・ゆういちろうううう・・・っ・・・!!!」

 震えながら、一馬が漏らした声に。
 だが。当の雄一郎が、異様な反応を見せた。
「・・・あの・・・。」
 心もとなげな。見た事も無い気弱げな視線を、一馬に充てる。
「・・・?」
 一馬は眉間に皺を寄せて、自分より僅かに背の低い義兄を見下ろした。
「失礼ですが。・・・あの。もしや。」
「・・・。」
 私のコトをご存知なんですか。
 そう問いかけてくる雄一郎に。
「・・・。」
 一馬は。眉間の皺を深くして、訝しげな視線を充てた。




「・・・記憶喪失だとう・・・っ?」
 マンガやドラマじゃあるまいし。
 一馬は。顔を歪めると、嘲笑(わら)った。
「イッタイ何の冗談だ?それとも、何か企んでいるのか、雄一郎。」
「雄一郎というのが、私の名前なんですね?」
「・・・。」
「うー。うー。」
 その時。雄一郎の腕にしがみ付いて離れない子供が、唸った。一馬を睨んでいる。
「何だ、こいつは。喋れねえのか?」
 一馬は眉間に皺を寄せた。
「・・・。」
 案内された部屋は。
 4畳半一間の部屋と半畳ほどの小さな流し兼台所。西日の当たる熱い部屋。見掛けどおりエアコン等は付いていない。窓を全開にしていても、座っているだけで汗が吹き出してくる。
「ちっ・・・。」
 一馬はネクタイを緩めると、ワイシャツの襟元を大きく寛げた。
「・・・。」
 台所を見ると。素麺が冷水に晒されていた。それを茹でた名残なのか更に部屋の温度が上がっている。一馬はそれ(・・)と義兄とを見比べた。その視線を見て、何となく恥ずかしそうな雄一郎。
「・・・まさか。雄一郎。あんたが作ったのか・・・?」
 一馬はズカズカと部屋に入ると、レンジの上の鍋の蓋を開けた。じゃがいもとか人参とか。何かの野菜がたくさん入った味噌汁であった。
 素麺と味噌汁。
「・・・。」
 何となく呆然と、一馬は雄一郎を見た。一馬も雄一郎も。ボンボン育ちだ。一馬は台所に入ったことも無い。多分、雄一郎も。
「卵を・・・。」
 何だかうろたえたように。雄一郎が言葉を紡ぐ。
「何・・・・」
「この子に玉子焼きを食べさせてやろうと、買いに行かせてたトコロで・・・。」
「・・・。」
 だから。あんなに急いでいたのかと。一馬は子供の顔を見た。子供は相変わらず雄一郎にしがみ付き、敵意に満ちた視線を一馬に向けている。一馬は。
「・・・あんた。本当に、みんな忘れちまったのか・・・?」
 まるでその中に真実があるかのように。もう一度味噌汁の鍋を覗き込んで、力なくそう呟いた。



 その後。
 一馬も誘われ、何故だか3人で夕餉を囲むこととなった。
 素麺は茹ですぎだったし。冷蔵庫も無いのでつゆも生ぬるかった。味噌汁はダシが効いてないのにしょっぱかったし、玉子焼きは焦げていて苦かった。
(こんなマズイ料理を喰ったコトがない。)
 ボンボン育ちの一馬は、そう思いながら、全部平らげた。
 座っているだけで汗の吹き出す、4畳半の部屋。小さなちゃぶ台を置くと、大柄な雄一郎と一馬が居るだけで、部屋はイッパイだ。
「・・・。」
 目の前で楽しそうに玉子焼きを口に運んでいる、雄一郎と子供を見ながら。一馬はなんで、こんなホームドラマみたいなことをしているのか、自分でも訳がわからなかった。
(雄一郎を引き摺って、帰れば良いだけだ。いや。電話して、榊を呼べばそれで済む。)
 一馬は懐の携帯電話を意識した。
 だが。
 何故だか。一馬はさっきOFFにした携帯電話の電源を入れる気には。どうしても、ならなかった。

 その夜。
 干していたのだろう。日向の匂いのするせんべい布団に3人で寝転んだ。川の字というヤツだ。一馬は恥ずかしくて居たたまれず、何度も寝返りを打った。
(俺は。何をやっているんだ。)
 部屋は狭く、信じられないほど暑い。一馬は流れる汗を拭いながら、呆然と薄汚れた天井を見ていた。
「・・・。」
 子供はスグに眠りに落ちて、やっぱり雄一郎に抱きついて何か寝言を言っている。何となく不愉快な思いで、一馬は口を開いた。
「・・・知恵遅れだって?言葉も喋れねえのか・・・?」
 一馬は、子供を挟んで隣で寝ている雄一郎の方を見た。
「・・・隣の部屋に住んでる医者によれば。春ごろにこの部屋にはどっかから調達されてきた東南アジア系のオンナたちが詰め込まれてたんだそうだ。それが。ある日綺麗さっぱり居なくなって。この子供だけが、ポツンと残されていたらしい。オンナたちの誰かの子だったんだろう。言葉が喋れないのは、知恵遅れのせいか。誰も日本語を教えなかったからか、どっちかは解らない。」
「・・・。」
 一馬は改めて、子供を見た。そう言われれば、純粋な日本人とは言い難い顔立ちをしている。肌の色も浅黒い。
「それからは、その医者が面倒を看ていたらしい。といっても。一日に最低一回メシを恵んでやっていたくらいらしいが。」
 雄一郎は苦笑した。
「その医者は。警察に届けなかったのか?」
「こんなトコロに、人目を避けて暮らしているような男だ。警察には会いたくない理由が山ほどあるんだろう。」
「なるほどな。」
 一馬は。安心しきって眠っている子供をチラリと見ると、皮肉な口調で雄一郎に言った。
「・・・それで。イマはあんたが面倒を見ている訳だ。」
「・・・俺から、離れない。」
 雄一郎は。ポツリと呟いた。
「・・・。」
 一馬は雄一郎を見た。
「・・・。」
 雄一郎は、愛しそうに子供の髪を梳いてやっていた。
「・・・。」
 一馬は何となく不快で、壁の方向に寝返りを打った。
 そして。ふと。部屋の隅に立てかけられた、笹竹に気が付いた。
「・・・?」
 短冊らしき紙がいくつかぶら下がっているそれは、七夕の笹飾りなのだろう。随分古い竹のようだったが。
「あれは・・・?」
 一馬は雄一郎を振り返り、笹竹を示した。ああ、と雄一郎が頷く。
「あれは、オンナたちが居なくなった後。この子以外にこの部屋に、残されていたたった一つのモノらしい。」
「何で七夕の笹竹が・・・?」
「さあ。勤めている店か、客にでも何か聞いたんじゃないのか?願いが叶うとか何とか。」
 葉の黄ばんだ笹竹に下がる短冊といえないようなたくさんの紙の切れ端。それら全てに一馬には読めない文字がびっしり書かれていた。意味は分からないながらも、その文字に何か執念のようなモノを感じる。ある日突然居なくなったというオンナたちの。
「・・・呪われそうだな。」
 一馬は嘲笑(わら)った。
 オンナは、一馬たちにとっても大事な商品だ。東南アジアの農村あたりから、甘い言葉に騙されて売り飛ばされてくる格安のオンナたち。一馬は彼女たちに願いなんてモノがあることすら、考えたコトも無かった。商品に必要なのは、若く弾力のある肌と男が求める穴だけなのだから。
 彼女たちが何を願い、どこに行ったのか。一馬には興味も無かった。まとも(・・・)な状態であったなら、恐らく雄一郎も一顧だにしないハズだ。一馬は、改めて雄一郎を見た。この男は。本当に何もかもを忘れてしまったのだろうか。
「・・・。この子に、明日七夕の歌を教えてやろう。」
 一馬の思惑を知らず。雄一郎は優しげな微笑を浮かべると、ささのはさらさら、とフレーズを口ずさみ、一馬の方を向いた。
「・・・タナバタ。短冊をつくって、俺たちも願い事を書いて、竹に飾ろう。」
「・・・。」
 一馬は何も言わなかった。
 誕生日、正月、節分、端午の節句、七夕、クリスマス・・・。
 子供が楽しみにするそれらの日。一馬も組員や両親に囲まれて過ごした。七夕には、父親が持っている山から。組員が立派な竹を切り出してきて、色鮮やかな短冊で飾った。毎年、恒例の行事。一馬にとっては、当たり前の日常。
「・・・。」
 両親と暮らすことのなかった雄一郎は、それらの日々をどう生きてきたのだろう。ふと。そんなコトを考えた。
「笹のは、さらさら・・・。」
 雄一郎は微笑みながら、子守唄のように子供の背を一定のリズムで軽く叩きながら、再び歌を歌っていた。本当に嬉しそうに一馬には見えた。
「・・・俺が誰だか、気にならないのか?」
 一馬はまだ。自分が誰と名乗っていなかった。
「・・・。」
 雄一郎が目を上げて、一馬を見る。一馬が口を開くのを、黙って待っている。
「・・・異母弟だ。」
「・・・そうか。」
「仲は悪い。」
「そうか。」
 殺しあっている仲だとは、さすがに口にしなかった。
「・・・何故だろうな。」雄一郎が呟く。
「え・・・?」
「何故、仲が悪かったんだろう。」
「・・・。」
 一馬は、雄一郎の真意を図りかねて眉間に皺を寄せた。
「こうして、一馬と話していると、楽しいよ。」
「!」
 一馬は。
 生まれて初めて、義兄に名前を呼ばれた。そして。
「・・・。」
 生まれて初めて。微笑みかけてもらった。
「・・・一馬は。弟なのに、一の字が入っているんだな・・・。」
「・・・。」
「親に愛された子だ。」
「・・・。」
「きっと。好い子だ。」
「・・・。」
 雄一郎の言葉に一馬が呆然としている間に。
 いつしか雄一郎は、子供に抱きあうようなカタチで穏やかな寝息を立てていた。
「・・・!」
 一馬は、身体を起こした。
 荒い仕草で、玄関脇の鴨居に掛けたハンガーに吊るしてある自分のスーツの上着から、拳銃を取り出した。
 そのまま大股で、雄一郎に歩み寄る。
「・・・うーーー・・・。」
 人の動く気配に。子供が微かなうめき声を上げる。だが、覚醒には至らないらしくそのまま、雄一郎の胸にすりよって再び穏やかな寝息を立て始めた。
(・・・俺の前で。眠るとは・・・。)
 奇妙な憤りに支配されて、一馬は眠る雄一郎の頭に銃を突きつけた。躊躇うことなく、安全装置を外す。
「殺してやるぜ、雄一郎!!これで、何もかも仕舞いだっ!!」
 吐息のように言葉を吐き捨てた。恨みも憎しみも執着も。一馬を、少年時代から苦しめてきたモノ全て。身体の沁に残る、この消えない熱も。
「・・・っ!!!!」
 一馬は、人差し指に力を込めた。だが。
「・・・。」
 ふと。荒い一馬の息に触れて、雄一郎の前髪が揺れているのが目に入った。いつも、オールバックで一筋の乱れもなく固めている姿しか見たこと無い。何となく。強そうな髪だと思っていた。だが、揺れる黒髪は真っ黒ではあったが、意外に柔らかそうだった。
「・・・。」
 衝動的に、手を伸ばしてしまった。柔らかそうな前髪に、指先が微かに触れる。
「!!」
 ふいに。
 雄一郎が、微笑んだ。額に落ちた前髪は、雄一郎を妙に幼く見せている。
「・・・。」
 一馬は力が抜けたように、畳に尻を落とした。実際、腰が抜けたように力が入らない。
「・・・。」 
 一馬はその夜。呆然としたまま、一晩中雄一郎の寝顔を見詰め続けた。



「うわ!!また増えてやがる!!イッタイ今度は誰だ!?誰を拾ってきたんだ、このガキ。」
 翌朝。納豆と味噌汁の朝食をとっていた3人のもとに。中年の男が、ノックもせずに部屋に上がりこんできて喚いた。
「先生。おはようございます。俺の弟です。一馬。この人が、隣のお医者さんんだ。」
 雄一郎が苦笑しながら、そう言った。
「弟?記憶が戻ったのか・・・?」
 医者は、一馬をジロジロ見ながら、そう言った。
「いえ、偶然、出会いまして・・・。」
「ふうん。」
 医者は胡散臭そうに、今度は雄一郎をジロジロと見た。そして、一馬に向き直ると。
「弟なら、あんた。とっととこの男を連れて帰ってくれ。」
 初老の医師はそういうと、持っていた紙袋から、小さな風呂敷包みを取り出して一馬に渡した。
「・・・!」
 感触で解った。拳銃だ。
「とりあえず、得体の知れない男に持たすのは物騒だから、俺が預からせてもらっていた。あんたの兄さんとやらの持ち物だ。とっとと連れて帰ってくれ。・・・俺のほうもイロイロ。面倒ごとは困るんだよ。」
「・・・。」
 やはり。この男は雄一郎なのだ。
 一馬は手の中の拳銃を握り締め。改めて、雄一郎を見た。それから、医者に向かって。
「・・・あの男が。記憶を失っているってのは、本当なのか?」そう訊いた。
「あ・・・?あの男がウソを吐く理由もあるまい。好き好んで、こんな小汚いアパートで暮らしたい人間なんて居るもんか。」
「・・・。」
「頭を打って、脳震盪を起こしていたのは、本当だしな・・・。稀に起こることだ。数ヶ月分の記憶を失う場合もあるし、一生分を失うというのは、アマリ無いが。身に着けた社会常識は、大概しっかりしている。何にせよ、脳の分野は、まだまだハッキリ解らないことが多いのさ。」
「・・・直るのか・・・?」
「それも、まちまちだ。一生、そのままの場合も。数日で、全ての記憶が戻る場合もある。」
「・・・。」
 雄一郎は。どうやら、本当に記憶を失っている、らしい。
 一馬は思った。
 だからこそ。一馬のことも。一馬と雄一郎との確執も忘れて、優しく微笑んでくれる。
 一馬。――――
 一馬は。昨夜から雄一郎が自分を呼ぶ優しい声を思い起こして、無意識に唇を噛んだ。
「・・・とにかく。それは、返しておくからな。とっとと出て行ってくれ。」
 言い捨てて、部屋を出て行く医者の後姿を見るとはなしに見ながら。一馬は瞳を彷徨わせた。


「ささのはさらさら。のきはにゆれる。おほしさまきらきら。きんぎんすなご・・・。」
 朝食後。雄一郎は少年に向かい合って、歌を歌ってやりながら色紙を切り分けていた。本気で七夕をするつもりのようだ。部屋の隅の貧相な竹に、短冊を飾るつもりなのだろう。
「・・・そんなコトは覚えてやがるんだな。」
 一馬は雄一郎の背後に立ち。皮肉気に、呟いた。
「・・・本当に。冗談みたいに、自分のことだけ、忘れてしまったようだ。こんなコトもあるんだな、一馬(・・)。」
「・・・。」
 雄一郎に名前を呼び捨てられて、一馬はやっぱり複雑な思いで、雄一郎を見詰めた。
 自分はイッタイ何をやっているんだ、と苦笑せざるを得ない。
 急に姿を消した一馬を。組員たちは必死で探しているだろう。電話を掛ければ良い。榊にでも電話をすれば。いや。昨日から電源を切ってある携帯をONにすれば。スグに誰かから連絡が入るだろう。それだけで、終わる。何もかも。この胸の。妙に甘ったるいもやもやした感情も。だのに。
「・・・。」
 一馬は何もしない。しようという気にはなれなかった。
 ただ、ぼうっと、雄一郎の手元に目を注いでいた。すると。
「はい。」
 雄一郎は一馬の方を振り返って、赤い色紙を差し出した。
「・・・なんだ?」
「七夕だから。」
「だから?」
「短冊に願い事を書いて、竹に飾ろう。」
「・・・。」
「笹のは、さらさら・・・。」
 雄一郎は再び子供に向かうと、微笑みながら歌を歌っていた。本気で楽しそうだ。一馬は手にした赤い短冊を見詰めて、ため息を吐いた。
「・・・その子。名前は何ていうんだ?」
 一馬は、雄一郎の隣に腰を降ろしながら、訊いた。
「・・・知らない。誰も・・・。」
「・・・不便だな。」
「・・・そうでもないよ。」
 雄一郎はそう言って笑うと、子供に話し掛けた。
「いいかい?コレを見てごらん。」
「あー?」
「・・・。」
 雄一郎の手には、12色の色紙。一馬はそのうち、ピンク色の紙を半分に折って、ハサミで切った。
「あの竹にね。」
 雄一郎は、部屋の隅の笹竹を指差した。
「君の願いを飾ろうね。今夜はタナバタだよ。」
「うー?」
 雄一郎の言葉に、子供は小首を傾げた。しかし、色とりどりの綺麗な色紙を頬を真っ赤に染めて嬉しそうに眺めている。
「何でも良いから、書いてごらん。」
 雄一郎はペンを、子供に渡した。
 子供は暫くペンと色紙と雄一郎を替わりバンコに眺めていたが。やがて猛然と色紙に、絵とも文字とも判別出来ない図形を描き始めた。
「・・・雄一郎。あんたも書くのか?」
 一馬が尋ねた。
「勿論。」
「・・・あんたの願いって、何なんだ?」
「内緒だよ。」
 そう言って雄一郎は、ペンを動かし始めた。アトで教えるという雄一郎に、本当だな、と念を押しながら。
「・・・。」
 一馬は。
 これでは、ただの仲良し兄弟のようじゃねえか、と。小さくため息を漏らして、短冊に適当な言葉を書こうとペンを取った。


 その時。
「うーーーー!!!うーーーーっ!!!!きいあーーーーーっ!!!」
 子供が、奇声を発しながら、頭を抑えると蹲った。
「どうしたんだッ!?」
 雄一郎が叫びながら、血相を変えて立ち上がった。
 子供はそのまま床に倒れこむと。頭を抱えて、ゴロゴロと転がりはじめた。
「うあーーーー!!!うあーーーーっ!!!!」
「おいっ!?しっかりしろっ!!!」
 子供の顔は蒼白で、脂汗が流れていた。どうみても。ただ事ではない。
「おいっ!?」
 一馬も立ち上がると、二人掛りで転がる子供を抑えようとする。だが。どこから出るのか、凄まじい力で暴れて抑えきれない。子供は壁に激突すると、頭を何度も壁に叩きつけ始めた。
「やめろっ!!!」
 雄一郎と一馬が、背後から必死で抱き留める。その瞬間。

「ギイヤアアアアアアアアーーーーーーーーッッッ!!!!」

 一際。大きな叫び声を上げて、身体を突っ張らすと。
「・・・っ!!!」
 子供は、そのまま意識を失った。雄一郎が慌てて駆け寄る。
「一馬っ!!隣のドクターを呼んできてくれっ!!」
 だが、一馬が返事をする前に。
「イッタイどうした!?何の騒ぎだ!?」
 ドアから、医者が飛び込んできた。そして。
「・・・。」
 雄一郎の腕の中で、ぐったりしている子供を見て、顔を歪めた。




「・・・頭に腫瘍があってな。近いうちに、昏睡状態に陥るだろうと思っていた。多分、この子はもう二度と目覚めない。知恵遅れなのも、恐らくその腫瘍が脳を圧迫しているからだろうよ。・・・何にしても、もう少しの辛抱だ。」
「・・・。」
 その辛抱という言葉が。どういう意図で発せられたモノか、一馬にはハッキリとは分からなかった。だが反射的に小さく笑った。この子供は何のために生まれてきたのか。イッタイ何のための「生」だったのか。
「この子は死ぬのか・・・?」
 雄一郎は、どこかぼんやりとした口調で、そう言った。
「可愛がってやってたみたいだが、最初から無駄だと言っておいただろう。実際。無駄になったな。」
 どうせ、スグ死んじまう、と医者は吐き捨てるように言った。
「子供だから進行もはやいんだ。もっても一週間といったトコロだ。」
「・・・。」
 雄一郎は無言で立ち上がると、蒼白な顔で部屋を出て行った。
「雄一郎。」
 一馬は追った。
「・・・。」
 雄一郎は、ドアの外にある外通路を囲む鉄柵にもたれて、咥えたタバコにライターで火を点けようとしているトコロだった。
「・・・。」
 だが。傍目にも分かるくらい手が震えていて、うまくライターが扱えないようだった。
「おい。」
 一馬は、舌打ちをひとつすると、ライターを取り上げて火を点けてやった。
「・・・知らなかったのか?」
「・・・ああ。」
 忙しなくタバコを吸いながら、雄一郎は答えた。
「・・・。これから、どうする?」
「・・・。」
 雄一郎は答えない。代わりに、手にしていたクチャクチャになっているピンク色の短冊を眺めた。
「あのガキの短冊か・・・。」
 何を願ったのか。いや、願うという意味すら分からなかったのかもしれないが。一馬はそれを雄一郎から取り上げると、中身を見た。
「・・・。」
 ピンク色の短冊には。黒い髪の男の顔が書かれていた。
「・・・あんたか。」
 一馬は、雄一郎を見て呟いた。多分、彼の生涯で、雄一郎は一番優しかったのではあるまいか。
「・・・。」
 突然。
「・・・っ!!」
 雄一郎が鋭い吐息を漏らすと。腕で顔を覆った。
「・・・。」
 一馬は舌打ちをした。目の前で震える、雄一郎の肩。
 眉ひとつ動かさずに。あんたは今まで何人の人間を殺してきたんだ、と義兄を揺さぶってやりたい気持ちが湧き上がる。だが。
「・・・。」
 実際には、一馬は雄一郎の頭を腕の中に引き寄せた。初めての抱擁。震える身体を抱く腕に力を込める。
「・・・マンションを用意する。」
 一馬は何かを振り切るように、目を閉じた。
「・・・。」
「あのガキも連れて行って、ちゃんとした医者に診せよう。そこで・・・。」
 一緒に暮らそう。
 言葉にはせずに、一馬は雄一郎の黒髪に口付けを落とした。
「俺が。ずっと守って、傍に居るよ。・・・義兄(にい)さん。」
 一馬は、雄一郎の温もりを腕の中に感じながら。
 ここ数日自分を苛んでいた熱が。いつの間にか消えていることを、意識の隅で微かに意識していた。



「・・・。」
 夕方から降り出した雨は、土砂降りとなって、小さなアパートに容赦なく雨粒を叩きつけていた。せっかくの年に一度の彦星と織姫の逢瀬は流れたようだった。ボロい割には奇跡のように雨漏りをしない部屋で。もう目覚めないといわれた子供は、胡散臭い医者が処置した点滴を受けながら。静かに眠っていた。
「・・・。」
 雄一郎は。壁にもたれて、片手で子供の手を握っていた。
 一馬は居ない。
 あのアト、すぐに出て行った。明日の朝、帰ってくると言い残して。本気で、雄一郎のためにマンションの用意をしているのかもしれなかった。
「・・・。」
 表に。車が停まった気配がする。
 小さなドアの窓に。ヘッドライトの明かりが映っている。
 激しい雨音に掻き消されてはいたが。階段を上ってくる複数の足音を、雄一郎の耳は、捕らえていた。
 それらは、真っ直ぐにこの部屋の前までやって来ると、ドアを叩いた。
「・・・。」
 一馬は。握っていた子供の手を両手で包み込むと唇をよせ、それから丁寧に布団の中に入れてやった。
 頭を撫でてやり、額にもキスを落とした。そして。
「・・・。」
 立ち上がると、ドアに向かう。だが、その手前で。ふいに立ち止まって貧相な笹飾りを見た。
「・・・。」
 無言でポケットから取り出した青い短冊を、笹に結びつける。暫くそれを見詰めてから顔を逸らし、ドアを開いた。
「・・・。」
 開いたドアの向こうには、見慣れた顔。
「遅くなりました。」
 不破は、びしょ濡れの姿で、雄一郎に向かって頭を下げた。
「・・・。」
 雄一郎は無言で、部屋を出た。
 その肩に不破が上質のスーツの上着を着せ掛ける。他の部下が、慌てて傘を差しかけた。
「・・・あの子供は・・・。」
 部屋の中を覗いた不破が、雄一郎に問いかけた。
「・・・。」
 それには答えず、雄一郎は外階段に向かった。
「・・・。」
 不破は一瞬だけ躊躇したが、慌てて雄一郎を追った。
「・・・ご連絡いただけて、良かったです。」
「・・・。」
 数日前。所要で訪れた廃ビルから、雄一郎は忽然と姿を消した。
 腐った窓の鉄柵が壊れていた痕跡から、足を滑らせるか何かで3階から落下したというのが知れ、慌てて捜したのだが。その時には既に雄一郎の姿はどこにも無かった。たまたまその時。雄一郎についている人間が誰も居なかったのが悪かった。
 時期が時期だけに、大騒ぎをするワケにはいかなかったが、不破たちはパニックに陥っていた。そして、やっと今日。雄一郎から連絡が入り、大慌てで迎えに来たのである。無事を喜びながらも、どこか釈然としない気持ちが、不破には残った。
「・・・。」
 傘を差してもホトンド意味の無いような土砂降りの中。不破はそれでも雄一郎に傘をさし掛けながら、車の後部座席のドアを開いた。雄一郎が乗り込むのを確認してからドアを閉め、小走りに助手席に向かう。
「出ます。」
 びしょ濡れのまま、助手席に乗り込むと、後部座席の雄一郎に一声掛ける。
 雄一郎は、無言で頷いた。
 不破は運転手に合図をして、車を発進させた。そして。
「・・・!」
 何の気なくバックミラーを覗いた不破は。
「・・・若。」
 雄一郎に声を掛けた。
「!!!」
 土砂降りの雨の中を。
 小さな人影が。ホトンド転げ落ちながら、アパートの階段を駆け下りていた。
「・・・。」
 転げながら。何度も何度も立ち上がり、この車を追ってくる。
「若、誰か。誰かが、車を追ってきます。・・・子供が・・・。」
「!」
 雄一郎は、大きく目を見開いた。そして。
「・・・停めろ。」
 掠れた声で、そう言った。
 耳障りな金属音を立てて、車が急停車する。間髪入れず、雄一郎は土砂降りの雨の中に降り立った。みるみるその身体が濡れそぼっていく。
「・・・。」
 雄一郎はアパートの方角を見ていた。土砂降りで、ほとんど視界が利かないが、誰かが必死で走ってくるのが見える。
 小さな人影。
 もう二度と。決して目覚めないはずの子供。
「・・・不破。銃を、貸せ。」
 助手席から降りてきた不破に向かって、雄一郎は手を差し出した。無言で渡されたそれ(・・)を。雄一郎は、その小さな人影に向かって、真っ直ぐに構えた。

「・・・。」
 かつて。
 天国に行きたい、と言っていた中年のサラリーマンを知っていた。
 雄一郎は、一瞬息を止める。
「・・・。」
 雄一郎にとって、天国とは。
 あの西日のあたる4畳半の小さな部屋。母が残していく息子の幸運を願った、あの小さな空間のみ。
 そこには。

 雄一郎だけの。名前のない小さな天使が住んでいた。


 ―――――――――。

 銃声が。
 叩きつけるような雨音を切り裂いて、辺りの空気を震わせた。


「・・・。」
 雄一郎は、ゆっくりと空を仰いだ。
 痛いほどの激しい雨粒が、容赦なくその顔を叩いていく。
 幸福な夢のように。何かの罰のように。
「・・・若・・・。」
 自分を呼ぶ不破の声が、微かに聞こえる。
「・・・。」
 名前のない子供。
 不便だな、と眉を寄せていた一馬(おとうと)

 俺が。ずっと守って、傍に居るよ。義兄(にい)さん。―――

「・・・。」
 栞。
 天国では、奇跡は日常茶飯事に起きるのか。

 雄一郎は声にならない声を震わせて、小さく笑った。そして、静かに目を閉じた。







 その朝。
 昨夜の土砂降りが嘘のように晴れ渡った、その日。
「・・・。」
 一馬は、誰も居なくなっているその薄汚れたアパートの部屋を見詰めて、ドアの傍らで呆然としていた。
 隣の部屋から、酒臭い中年の医者が顔を覗かせた。
 一馬は口を開いた。
「・・・子供は?」
「・・・死んだよ。」
「・・・雄一郎は・・・?」
「どこかに、帰った。」
「・・・。」
 やっぱりな、と。
 一馬は、何となく思った。
 小さな皮肉気な笑いが、その唇に張り付く。
「・・・雄一郎は、記憶が戻ったのか?それとも、最初から・・・。」
 何も忘れては、いなかったのか・・・。
「さあな。」
 医者はそう言うと、ドアを閉めた。
「・・・。」
 一馬は、ゆっくりと、二人が暮らしていた部屋に足を踏み入れた。何も無い部屋。生活の匂いがまったく感じられない。まるで、全てが夢であったかのように。
 部屋を見回す一馬の目に。
「・・・。」
 雄一郎が作っていた笹だけが入ってきた。
 雄一郎がアトで飾ると言っていた、青い短冊が結びついていることに気付く。一馬はゆっくりと笹竹に歩み寄ると、その文字を読んだ。

『皆が、ずっと仲良く暮らせますように。』

「・・・くっくっ・・・。」
 一馬の唇から、微かな笑い声が漏れる。
「千歳一隅のチャンスを逃したな・・・。」
 ため息とともに、呟く。そして懐からピンク色のくしゃくしゃになった短冊と何も書かなかった、一馬の赤い短冊を取り出して、笹に結びつけた。
「・・・。」
 自分が何を願うつもりだったのか。今となっては、思い出せない。
 自分の短冊の隣には。雄一郎の書いた青い短冊。
「・・・。」
 一馬は目を閉じると、それ(・・)を無言で引きちぎった。

−fin−

2005.07.09

 本編も完結してないのに、どうかとも思ったのですが。辰巳兄弟は、私の中で現在ブーム(?)なので、この二人にしました。しかし暗い(笑)。
 七夕には二日ほど遅れましたが。楽しんで頂ければ、幸いです。