ろくでなしの神話 3

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1. プロローグ

 

 なあ。天国ってあると思うか?

 なんや、いきなり。あってもどうせ俺には関係あらへん。

 

 ふふ。そうだな。お前は間違い無く地獄へ行くだろうからな。

 ふん。あんたなんかに断言されとうないわ。

 

    ・・あると良いな。天国。

 どないした、急に?大体、なんでや?

 

 あったら、今生(こんじょう)だけで、お前と縁が切れるだろう。俺は絶対に天国に行くからな。

    ・・・清々(せいせい)するっちゅう訳や。

 

 そうだ。清々(せいせい)する。それなら、アトちょっとの辛抱だからな。

    ・・・・・そんな、きっついコト、()う平気で言うもんやな。ほんまムカつく男やで。

 

 

 

2. 人生最悪の日

「許してくれ。上月(こうづき)。頼む。お前だけが頼りなんだ。」

 それは。ソファの左隣に並んで腰掛けている大学時代から親しかった友人の、多分心からの謝罪と誠意のこもった言葉ではあっただろうが。

「・・・・・・・・。」

 上月(こうづき) (しおり)は、喉元のネクタイを無意識に緩めながら、無言で目の前の書類を睨みつけていた。

 イヤな感じの汗が、身体中から染み出すように流れ、栞のスーツをじっとりと濡らしている。

「・・・・・・・。」 

 この状況で『許してくれ』と言われても・・・・。

 コメカミから顎先に、アトからアトから垂れてくるそれ(・・)を。

「・・・・・・。」

 栞はやはり震える左手の甲でゆっくりと拭った。

 

 

「・・・・・・。」

 場所は。港の薄汚れた倉庫の一角。

 栞の目の前には2通の契約書が置かれていた。

 一通は、友人が結んだらしい遠洋マグロ漁船との雇用契約書。そしてもう一通は、連帯保証人欄が空白の栞の手元にある借用証書。額面は。何と2億。それなりの一流企業のサラリーマンの生涯賃金が税込みで3億くらいだと言われている時代に、桁外れの額。中堅ドコロの建設会社で日々リストラに怯えて暮らす2級建築士の栞などには到底、払えるハズもないだろう莫大な金額。

「・・・・・・・。」

 その借金の。この栞の左隣で縋るように栞を見詰めている友人の作った借金の連帯保証人になれと、現在(いま)栞は迫られていた。

 断るべきだ。

 そんなコトは分かっていた。

 バブルの頃、独立し、青年実業家だ何だと持て(はや)されソレナリに羽振りの良かった友人が、その終焉を見通せず作った借金だ。自業自得だ。当事、彼はサラリーマンに過ぎない栞の人生を「つまらない生き方」だと酒の席で嘲笑ってさえいたではないか。

 自業自得だ。

「・・・・・・。」

 だが。

 栞が断ると、このロクデナシの友人は明日からマグロ漁船に乗せられて、二度と戻っては来ないだろう旅に出るコトになるらしい。彼にはヤハリ栞の大学時代の友人である奥さんと2人の娘が居る。奥さんの方は、実は栞が一時期付き合っていた女性で、早い話が栞は、この友人に彼女を寝取られたのではあるが。

「・・・・・・。」

 栞はだんだん腹が立ってきた。

 考えれば考えるほど、栞がこんな男を助ける筋合いでは無いと思えてくる。どっちかと言うと、ザマアミロと言いたい気分だ。

 何でこんな男を助けて、自分が地獄への道連れにならなくてはならない!?どう考えても割りに合わない。こんな借金。返せる訳が無いのだから。

「どないした、兄ちゃん?トモダチを助けてやるんとちゃうんかい?」

 テーブルを挟んだ栞の向かい側のソファに腰を下ろしている、明らかにその筋(・・・)の人間であるオトコが。タバコを吸いながら、栞を促した。紫のサングラスを通して微かに見える爬虫類のような目が薄く眇められている。言葉遣いから見ると関西の人間だ。なぜかは分からないが、友人が借金を作ったのは、関西系のヤクザらしい。

 

「・・・・こ、上月頼む!!!」

 友人は最早、ソファから身体を下ろし、冷たい倉庫のコンクリートの床の上で栞に向かって土下座をしている。

 栞は出来ればこの場から逃げ出したい気分だった。だが。目の前のオトコ以外にも。5、6人の男たちが、倉庫のアチラコチラで栞たちを見ながら嘲笑を浮かべている。友人にも栞にも、実質、逃げ場など無い。

「・・・・・・。」

 栞は呻き声を上げた。

 大昔の彼女の哀願に(ほだ)されて、ついこんな場所にやって来てしまった自分の馬鹿さ加減に泣きたくなった。もはや、友人夫婦は自分たちが助かるためなら、友人を地獄に突き落とす事など何とも思わないようになってしまっているに違いない。それほど追い詰められているのだとも言えるが。

「・・・・・・。」

 それでも。

 両親も既に無く。妻も子も持たない栞に白羽の矢を立てたのは、それなりの配慮があるともいえるのだろうが。

 

「・・・イヤやったら別に()えで。無理強いをする気は無い。元々、あんたには関係の無い話やからな。コイツには、船に乗ってもらうだけや。女房子供にも内臓を売るとか、イロイロ使い道はあるしな。」

「・・・・・・。」

 友人の喉が、ヒゥッと言った風な音を立てる。

「こ、・・・上月っ!!!俺はどうなっても良いんだ!!だがっ、せめて子供だけはっ・・!!!」

「・・・・・・・。」

 栞は瞳を閉じると、長い溜め息を吐いた。

 35年間生きてきて、人生にこんな結末が待っているなどと、考えもしなかった。

 友人を助ければ。早晩自分がマグロ漁船に乗るハメになるのは火を見るより明らかだった。友人だってそんなコトは百も承知だろうに。あれは。本当に酷いらしい。何ヶ月。いや何年も陸を見ることもなく働かされ、女など一人も居ないから、性欲の捌け口にもされるのだ。昔、何かの雑誌に載っていたのを見て、ゾッとした記憶がある。

それほどの過酷な選択を栞に迫り、借金は必ず返すからなどと、この期に及んでまだ世迷言を言う。

「・・・・・・。」

 かつては。イロイロ欠点はあっても善人だった友人の涙で歪んだ青白い顔。

「・・・・・・。」

 ここで栞が助けたトコロで、どうせ別の形での破滅がこの友人には待っているだろう。だが。

 重なるように。その家族の顔が見える。

「・・・・・・・。」

 栞は。

 震える右手で連帯保証人の欄に、ペンを持って行った。例え破滅する男でも。自分ではその引導を渡したく無いという、昔からの栞が自分でも思う小狡(こずる)い性格が、こんな最悪の時に出た。

「上月!!有難う!!有難うっ!!!」

 言葉とは裏腹に、誠意の欠片(かけら)も感じられ無い声が傍らから聞こえる。

(お前のタメじゃない。2人の未来ある子供たちのためだ。もしかすると、お前がこれで立ち直るかもしれないからだ。)

 自分でも信じてなどいないその可能性を、必死で自分に言いきかせながら、栞は保証人の欄に自分の名前を書こうとする。だが、どうやっても手が震えてペン先が紙の上で定まらない。

「・・・・・。」

 目の前のヤクザが、苛立たしげに小さく舌打ちを漏らす。

 それを聞いて、恐怖に大きく身体が震えてしまい、ますますペン先が惑ってしまう。

「・・・・・ちくしょう・・・。」

 栞は小さな声で、呟いた。

何度も深呼吸を繰り返しながら、ペンを持った右手を左手で包んだ。少し温めれば震えが止まるかと思ったのである。

「・・・・・さっさと書けえや・・・。」

 ヤクザの苛立ちを含んだ、いわゆるドスの利いたという(たぐい)の声が、真正面から聞こえる。

「・・・・・・い、いまスグ・・・。」

 栞は慌てて、再び用紙に向かった。幾分震えも止まって、これなら文字も書けそうだった。そう思った、その時。

「・・・・・・?」

 倉庫が。

 何となくざわついた。

 人の気配が増えたような気がする。

「・・・・・・。」

 栞の目の前のヤクザも、栞の背後に目をやって、ソファから腰を浮かした。

「・・・・・・?」

 栞も振り返った。

 その目に。

 倉庫の入り口が開き、一人の男が入ってくるのが目に入った。

(・・・・・うわ・・・。)

 見るからに。

 ヤクザの上級幹部といった風体(ふうてい)の、その男。

 歳は、若く見える。35歳の栞から見ても、30歳に届くかどうかといった年齢のように見える。だが、並み居るヤクザどもが軒並み彼に頭を下げているトコロを見ると、やはり幹部クラスの男なのだろう。栞などには縁の無さそうな、高級そうなダーク系のスーツに身を包み。だが少しもスーツに負けていない、長身で分厚い体躯。その自信に溢れた、男らしい物腰。

「・・・・・・・。」

 男は。

 ぼんやりと自分たちを見ている栞たちに気付くと、微かに眉を顰めたようだった。

 いや正直なトコロ。真っ黒いサングラスを掛けているために、男の表情はほとんど分からなかったのだが。

「・・・カシラ。お疲れさんでした。」

 栞たちの目の前のヤクザがそう言って頭を下げる。

「・・・・何や?」

 男は、その長い足で大股であっという間に、栞たちの座るソファの近くまでやってきて、顎で栞たちを指した。

「いや。大したことやおまへん。スグに済みますさかい・・・。おい!!とっととサインせんかい!!」

「・・・・・・。」

 怒鳴り声に。栞は慌てて、用紙に自分の名前を書いた。意識が他に逸れたせいか、右手の震えは止まっていた。喜んで良いのか。栞は苦笑いを浮かべた。

「・・・・・・。」

 栞は、しっかりとした筆跡で自分の名前を書くと。

「・・・・・・。」

 小さく息を吐いたアト。

 ゆっくりと捺印した。

 終わった。―――――

 何がとはハッキリ分からなかったが。そう思って目を閉じた。

「・・・よっしゃ。」

 目の前のヤクザはニヤリと笑って、書類を取り上げると友人の方を見た。

「・・・トモダチ思いの、お人好しのお友達がおって良かったな。」

 お馬鹿なトモダチ。と言われなかっただけでもマシかもしれない。

 栞はぼんやりと思った。

「・・・・・・。」

 そして。茫然自失状態の栞の方に向き直ると。

「・・・・しかし。上月(こうづき) (しおり)とは。女のような名前やなあ。」

 ヤクザは微笑を浮べながら、栞の身体を上から下までジロジロと眺めた。栞はヤクザをキッと見返す。

「・・・名前負けだと言いたいのか。分かってる。良く言われるから。というか。ずうううううっと言われ続けて来たからな。」

「・・・・・随分、気にしてはるようやな。こりゃ失礼。」

 ヤクザは、さっきまで震えて字すらまともに書けなかった栞が、ハッキリと自分に不快感を表したのに、驚いた。目が据わっている。実は物凄く肝が座っているのか、よっぽど名前を気にしているのかどっちかだろう。多分、後者だろうが。

「・・・・・。」

 栞は両膝の上に両肘を載せて、両手を組み、その上に顎を載せた。

 思わず舌打ちをしそうになる自分を抑える。ヤクザの前で、さすがにそれはマズイだろう。だが。

 名前負け。

 それは、35歳のこの歳になるまで、初対面の人間にずっと言われ続けてきた言葉だった。

 女性と思われるだけなら、まだ良い。男の方だったんですか、ぐらいで済む。

 だが。名前だけで物凄いイメージを膨らまされて、凄い美青年だと思われていた場合は。相手が露骨にがっかりしたような顔をするのが、栞は本当に不快だった。

 建設会社勤務の二級建築士である栞は、建築現場の監督をすることもあり、色も黒く、どちらかといえば、がっちりしたタイプの男である。最近の若い男のように、中性的なタイプでは断じて無い。

背も170センチそこそこで、さして高いとも言えず、手足も短い。学生時代に『ワニ』というアダ名を付けられたこともあるぐらいだ。顔立ちは、まあ良くも悪くもないと言ったレベルで、それが順調に歳を取って。立派な普通のオッサンが出来上がっている。

 なのに。本名は、上月 栞のままである。

 栞が生まれる時。女の子が欲しくて、その名前しか考えていなかったという両親を、栞は今だに恨んでいた。

「ともかく。あんたとは、これから長い付き合いになりそうや。また連絡させてもらいますわ。上月さん。」

ヤクザは、趣味の悪い紫色のサングラスを取ってにっこりと微笑んだ。

「・・・・・・。」

 栞は、小さく溜め息を吐いた。

 もう取り返しが付かない。ジタバタしても仕様が無い、と無言でソファから立ち上がる。

「・・・今夜は、もう帰っても良いんですね。」

「ああ・・・。」

 目の前のヤクザが答えようとした。その瞬間。

「・・・・アンタなあ。・・・前に。俺とどっかで会わんかったか?」

 栞の目の前のヤクザの向こうから、良く通るバリトンが聞こえた。

「・・・・・。」

 栞は顔を上げた。さっきの幹部っぽいヤクザが栞を見詰めて、首を傾げていた。

「お、・・・お知り合いで・・・?」

 栞の目の前のヤクザが。少し慌てたように立ち上がって、栞を見る。

「・・・・うーーーん。」

 ヤクザは唸りながら、サングラスを外した。

 意外なコトに。その下から現れたのは、大きな黒目勝ちの。愛嬌のある垂れ目。男前には違いないものの。どこか優しげで、イタズラッ子のような印象すら残す、眼差し。

「・・・・・・・?」

 栞も。何となく、その垂れ目に。この印象的なオトコマエ(ツラ)に。見覚えがあるような気がして、小首を傾げた。必死で記憶を辿る。栞は技術畑とはいえ、建設業界の人間だから、まったくその手の人間と関わりが無いとは言わないが、それでも顔を覚えるほどの関係を持ったことなど無いハズだ。

「・・・・・あ・・・。」

 思い出したのは、男の方が早かったようだ。

「ああ。思い出した。あんた、あの時の・・・・。」

「・・・・・・?」

「覚えてへんかな?2年くらい前やったかな。」

「・・・・・・・?」

「・・・・あんた。俺の命を救ってくれたやないか。ほら。目黒で。ピンクのネグリジェの・・・・。」

「・・・・・・あっ!!!」

 栞も思い出した。思わず立ち上がる。

 二年前。命。ピンクの。印象的な笑顔を残したハンサムな若い男。

 栞の頭の中に散らばっていた記憶のパーツが、ピッタリと合った。

「・・・・・・・。」

 この。

 最低最悪の状況の中で。

栞は、自分を見下ろす大きな男のハンサムな顔を眩しげに見上げる。

(・・・・あの時は座っていたから分からなかったが。こんな大きな男だったのか・・・・。)

 それが。

 その後の栞の人生に、深く関わってくる年下のヤクザ。

 海棠(かいどう) 慎司(しんじ)との。

 夢にも思わなかった、再会であった。

 

3. ピンクのネグリジェ

 それは。

 本当に偶然だった。

 

 

 2年前。

「・・・・・・!!!」

「・・・・!!!」

 仕事場である、建設現場をアトにして、ちょっと遅めの昼休みを寝不足気味の自分の睡眠に充てて、自社のライトバンの運転席で仮眠をとっていた栞は。

 周囲の騒然とした雰囲気に、ふいに目を覚ました。

「・・・・!!!」

 一目でわかるヤクザたち数十人が。

 栞が路上駐車している車の回りを駆け回っている。

(・・・一体、何だ?)

 首を竦めて、彼らの様子を伺う。抗争事件なら、下手するとテッポウの弾が飛んでくるかもしれない。

「捜せっ!!まだ、遠くには行っていないハズだっ!!!!」

「フザケタ野郎だっ!!カシラのオンナに手を出すなんて!!!!」

「・・・・・・・。」

 どうやら。

 オンナ絡みらしかった。どこかの間抜けなオトコが。ヤクザの女に手を出して追われているらしい。

 触らぬ神に祟り無し。

「・・・・・・。」

 栞は早々にライトバンのエンジンをかけた。長居して、妙なコトに巻き込まれてはたまらない。そう思ったのだ。しかし。

「・・・・・・!!!」

 いきなり。

 ライトバンの後部座席のドアが僅かに開いたと思うと。ピンク色の何かが、車内に入り込んできた。

「な、な、な・・・・!?何だ?」

 驚いて振り返った栞の目に。

 どう見ても。ピンク色の。どう見ても。女もののネグリジェを肩に羽織った。いや、ひっかけた。

 半裸の。筋骨逞しいオトコの姿が。

飛び込んできた。

「・・・・・!!!!」

 驚愕のあまり、言葉も出ない栞を見て。そのオトコはにやりと笑うと、自分の唇に右手人差し指を当てた。

 静かにしろ。

 というコトらしい。だが。

 オトコの。

 あまりにも異様な風体(ふうてい)

 辛うじて。下半身に下着は身に付けているものの。上半身を覆うのは。オトコにとっては、アマリにも小さな、女もののピンク色のレース仕様のネグリジェ。オトコの逞しい胸にはサイズが足りず、当然ながら前ボタンは肌蹴たまま。そして裾は、オトコの腰にも達していない。

「・・・・・・・。」

 栞はハンドルに突っ伏した。

 笑いが止まらない。横隔膜が、ひくひくと麻痺を続ける。

 オトコがなまじ、そこらでは見掛けないような()い男なだけに。この格好は死ぬほど笑えた。多分。間男を引っ張り込んだ女が。裸よりはマシだろうと逃げるオトコによこしたモノなんだろうが。

「・・・・おい!!」

 オトコは舌打ちとともに、(ひそ)めた声で栞に声を掛ける。格好はともかく。結構必死の形相だ。思ったより若い男だと、栞は思った。

「おいっ!!!笑うのは、アトや!!車出してくれ!!!」

 今思えば。

 男のあれは。確かに関西弁だった。

 

 

「・・・この辺でええわ。下ろしてえな。」

 暫くライトバンを走らせたアト。海棠は、そう言った。

「アリガトな。」

 そう言って車を降りようとする海棠に。栞は無言で、自分用に積んであった現場用の作業服の上下を投げつけた。

「・・・・・?」ピンクのネグリジェにグレーのブリーフを履いたオトコは戸惑ったように栞を見た。

「・・・・持ってけ。イクラ何でも。その格好は、マズイだろう。」

 栞は軽く顔を顰めてみせた。少しサイズは小さいだろうが、ピンクのネグリジェよりはマシだろう。

「・・・見てしまった方も、迷惑だ。」

 海棠は。

 少しだけ、意外な顔で栞を見た。

「・・・・そうやな。甘えるわ。おおきにな。」

 そして垂れ目の目尻を更に下げるような魅力的な笑みを浮かべると、作業着を持って車から降りると、どこへともなく姿を消した。

 

4. 不吉な予感

「・・・・・そういうことやったんか。わかったわ。ほんなら、これは、無かったコトにしても()えで。上月さん。」

 その時の。

 かつて、ピンクのネグリジェを悩ましく身に纏っていたヤクザ。海棠は。

栞たちの事情を、どうやら彼の部下らしい紫のサングラスのヤクザから一通り聞くと、ソツの無い笑顔を浮かべて。友人の借用証書を懐に仕舞った。

「・・・・・!」

 栞は眉を顰めたが。友人は満面に笑みを浮かべていた。

「上月!上月!!アリガトなっ!!!」

 嬉し涙を浮かべて自分を見上げる目を。苦い思いで見下ろす。

「・・・・・上月さん。情けはヒトのためならず、でんな。俺は二年間ずっと命の恩人に恩を返そうと、捜しとったんや。お互い、運が良かったちゅうコトやな。」

 笑いながらそう言う、海棠を。しかし栞は、胡乱(うろん)な目で見た。

「・・・・・・どうも。」

「・・・・・・・・・。」

 栞の感謝とは程遠い態度に。一瞬、海棠の眉間に皺が寄る。

 だが。次の瞬間には、明るく魅力的な笑顔がそのハンサムな顔に浮かぶ。

「・・・・ところで。食事でもどうや、上月さん?ちょっと相談したいコトもあるしな。」

 アクマで。邪気の無いような笑顔が、栞の顔を覗き込む。だが。

「・・・・・・・。」

 栞は不安でイッパイだった。

 借金をチャラにしてくれるというなら。

 借用証書は、その場で破り捨てるか。自分たちに返してくれる筈だ。それを、海棠は自分の懐に仕舞った。

 口で、どう言おうと。栞たちを自由にするつもりなど彼には無いのだ。2億円が大金だということかもしれない。

「・・・・・・。」

 栞は、確かにお人好しで苦労知らずかもしれないが、世間の厳しさが分かっていない訳では無かった。20年以上もサラリーマンをやってきたのである。

 却って、自分たちはマズイ事態に追い込まれたのかもしれない。栞は舌打ちをしたい気分だった。今までは。純粋に、というのは変かもしれないが、アクマで(ぜに)(かね)の問題だった。だが。

 この海棠というヤクザの狙いが、栞にはサッパリ分からない。

 栞に対する感謝とか好意とか。そういった甘ったるいモノでないのは明確だ。では一体、これから何が起きるのか。

「・・・・・・。」

 栞は苦い顔で友人の嬉しそうな顔を見下ろした。

 そして。周りを見回して誰も自分たちに注意を払っていないのを確認すると、彼の耳元で小声で呟いた。

「ここから出て、家に帰れたら、スグ逃げろ。どこでも良い。今晩中に身を隠すんだ。俺のコトは気にするな。」

「・・・・上月?」

 驚いた顔で自分を見詰める友人の目を。まっすぐに見詰めて上月は、ゆっくりと頷いた。

 

5. 本音

 海棠に連れて来られた場所は。

 栞など、単独では一生縁の無いだろう、高級料亭だった。

 個室には、海棠と栞の2人きり。友人は家に帰されたようだった。他のヤクザは表かどこかで待機しているのだろう。

 

「・・・・不満そうやな。」

 海棠は運ばれてきた熱燗を手酌でお猪口に注ぐと、苦笑しながら飲み干した。あぐらを掻いて、随分と(くつろ)いでいるように見える。

「・・・・・。」

 だが。栞は正座したまま、膝に両腕を置いている。酒も勧められたが断った。

「・・・楽にしたら()え。多分、あんたの方が年上やろう?若造にそないに(かしこ)まることないやろ。」

海棠のその言葉に、栞は唇を噛んで顔を上げた。マグロ漁船に売られる以上の悪いコトは無いだろうと、思い切って口を開く。

「・・・・無かったコトにしてくれると言うなら、借用証書を返してくれ。」

「うん?」

「・・・・懐に。仕舞ったよな。」

 海棠は小さく笑った。

「・・・・あんた。アホやないな。」

「・・・いや。馬鹿だ。ご存知の通り。こんな借金の保証人になるくらいだからな。」

「・・・・あんた、幾つや?」

「35歳。」

「・・・(わこ)う見えるな。」

「・・・そんなコトは言われたことはない。」

 イチイチ何となく険のある栞の返答に。

「そう、ツンケンするなや。東京モンは冷たいなあ。せっかくの再会やないか。」

 海棠は垂れ目の目尻を更に下げるようにして、微笑む。栞の警戒心を解こうとしているように見えた。

「海棠さん、ちゃんと教えてくれ。一体、何が狙いなんだ?俺に出来ることなら、ちゃんと協力する。」

 だが。栞は顔を歪めて、そう言った。

「狙いやて?あんたにお礼をしとるだけやろ。そう言ったやないか。」

 海棠は面白そうに、栞を眺めた。

「・・・もし、それが本当なら。あのライトバンにも渡した作業着にも会社の名前も電話番号もデカデカと書いてあった。何かアクションを起こするもりなら、出来たハズだ。だが、あんたは2年間、何もしなかった。そして2年後の現在(いま)になって、急に、礼をしたくなった。理由が何かあるんだろう?」

 海棠は右目を眇めた。

「・・・・やっぱり。上月さん、あんた。馬鹿やないな。」

「・・・いや、俺は馬鹿だ。だが、馬鹿だからといって、適当に騙されて利用されるのは我慢出来ないと言っているだけだ。」

 栞は唇を噛み締めた。

「けど。あの時助かったのは本当や。東京に来たついでに遊んだオンナが、偶然にも敵対しとった組の幹部のスケでな。見つかったらヤバかったわ。ホンマにアリガトな。」海棠は笑った。そして。

 

「・・・・石黒ゥ・・・。」

 背後に向かって、低い声を漏らした。間髪入れずに、障子が音も無く開かれた。

「あかんわ。バレてもうたわ。」

「・・・・・・。」

 海棠に石黒と呼ばれた男は、仕立てのよさそうなダークスーツに身を包んだ、これも身体の大きな男だった。一重の切れ長の三白眼が、いかにもその筋の男らしい光を放っている。年齢は栞とタメぐらいかもしれない。

「・・・・あんな借金の連帯保証人になるくらいやから、ボケボケのアホアホやと思うたら、そうでもなかったみたいやわ。」

 海棠はニヤニヤ笑いながら、栞に断りも無く咥えたタバコに火を点けた。

「・・・どうやら。そうみたいでんな。」石黒と呼ばれた男も小さく口だけで笑んで、栞を睨み据えた。

「・・・・ん?何かあったんか?」

 海棠が紫煙を豪快に吹き上げながら、石黒を見る。

「上月さんのご友人。一家揃って姿を消しよりましたわ。」

「・・・・・何やと。」

「・・・誰かが。指示しはったんでしょうな。あのボケは、本気で借金がチャラになったと思うとったようですからな。」

「・・・・・・。」

 初めて見る。

 海棠の肉食獣のような眼が、栞を貫いた。

「・・・・・・。」

 栞の身体から、一気に冷や汗が吹き出した。

「・・・・あの男の嫁さんはナカナカの上玉やったし。子供も2人とも娘やったからな。使い出があると思うて、長い事引っぱっとったんや。残ったんがこんなオッサンじゃ割が合わんな。」

「そうでんな。」

 2人の。憎悪さえ籠っているような眼差しに晒されて、栞は微かにみじろぎした。

 

 

 

「・・・・・・っ!!!」

 栞は、もう、冷たいコンクリートの床に倒れたまま、指一本動かせなかった。

 あのアト。

 海棠と出会った倉庫に連れ帰られた栞は。友人の行き先を言えと。5、6人

にリンチされた。

 建設現場の荒っぽい連中との関わりはあっても。基本的に今まで喧嘩などとは縁の無い生活を送ってきた栞は、トコトン暴力に弱いという自覚はあった。知ってさえいればイクラでもベラベラと喋っただろう。だが、幸いなコトに、彼らがドコに行ったか知らなかった。知らない事は喋りようが無い。あまりの辛さに、有ること無い事でっちあげて喋ろうかとさえ考えたホドである。

「・・・・・・・。」

 栞は血塗れの涎を垂らしながら、小さく笑った。

「何が可笑しいんや!!!」

 脇腹を蹴飛ばされる。

「・・・・彼らの・・・ゆくえを。・・・しらない・・・からだ。・・・良かった・・・な、と。おもったら、・・・・わらえた。」

 喋るのも辛いような状態だろうに。なぜか栞は、妙に律儀に途切れ途切れに言葉を振り絞るように答える。

「・・・・上月さん。あんた、変わり(もん)やな。」

 海棠のあきれたような綺麗なバリトンの声が、遥か頭上から聞こえる。次の瞬間。

「・・・!!!」

 ぐい。

 と。顎を掴まれて、頭を海棠の方に持ち上げられる。

 殴られて腫れ上がった目蓋(まぶた)を必死で持ち上げると、海棠の色男(ヅラ)が、不可思議な色を浮べて、栞を見ていた。

「・・・・ホンマはな。あんたに運んで欲しいもんがあったんや。堅気の。どこにでも居そうなサラリーマンやないと運べんようなモンや。警察に見つかったら困るようなもんやさかいな。確かにあんたの言う通り。間抜けそうなあんたを適当に騙くらかして、やらせようと思うとった。さっきは、その話をしようと思うとったんやがな。」

「・・・・必要なら・・・。はこぶ・・・。なんでも・・・。」

 栞は消えかかる意識を、必死で保ちながら、答えた。

「いや・・・。残念ながら、あんたは信用できんな。妙に頭も切れる。それに、どうも何を考えとるのか良うわからん。イキナリとんでもない事をやらかしそうや。」

 それを聞いて、栞は絶望的は顔をした。

「・・・じゃあ。・・・やっぱり。・・・ギョセンに・・・?マグロの・・・?」

 途端に、海棠は大声で笑った。暫く笑っていたが。

「・・・・。そうやなあ。あんたを、どうしようかなあ・・・?ケッコウ面白そうな男やからなあ。」

 栞の狭い視界に。笑顔を浮かべた海棠の顔が入った。その綺麗な垂れ目が、栞の瞳を覗き込んだ。それを感じたと同時に。

 栞の意識は闇に呑まれた。

 

−to be continued−

2003.07.04

 ここまで読んで頂けて有難うございます。

 ヤクザとリーマン。ずっとやってみたかったのですが、なかなか。TRIALだし。文章もロクに練っておらずクドイかもしれませんが。まあ、これは勢いでいってみようと思っています。出来れば、見捨てずに読んでね(笑)。面白いかもしれないし(超弱気)。

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