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6. 気まぐれ
「・・・・・・・っ!」
栞は、眩しくて目が覚めた。
目を開くと。カーテンが開かれた窓から、太陽の光がまともに栞の頭の辺りを照らしていた。
大きな窓の向こうには、人工的なモノは何も見えない。青い空と白い雲が見えるだけだ。
(どこだ、ここ・・・?)
ホテルかマンションの寝室といった設えの部屋だが。景色を見る限りでは、かなりの上層階だ。ということは、マンションなのだろう。カナリ高級そうだ。
「・・・・っ!!!」
身体を起こそうとすると、身体中が軋んだ。
昨夜。散々なメに遭わされた記憶が甦る。だが。
傷は全て手当てされていて、着ているものも血やなんかでドロドロになっていた自前のスーツではなく、清潔なパジャマだった。
「・・・・・?」
栞が首を傾げた時。
寝室のドアが開かれた。一人の大柄な男が顔を覗かせる。
「・・・ああ。目ぇが覚めたんか。・・・ほなら、こっち来い。食事が出来とるさかい。」
「・・・・・・。」
どこか、見覚えがあるその男。
昨夜、海棠が石黒と呼んでいた男だったと気が付いたのは、男に促されるままに、台所のテーブルに腰を下ろしてからだった。
そこには、石黒の他に若いヤクザが居て、栞の給仕をしてくれた。
「・・・ここ、どこなんだ・・・・?」
胃袋を刺激する味噌汁の香りに意識を持っていかれそうになりながらも。栞は、ご飯をよそおってくれている金色に髪にピアスを3っつも4っつも付けている今時の若者の方を見た。
「・・・カシラの。東京のマンションの一つや。」
「・・・カシラって。・・・海棠。・・・・のコトか?何故、俺がここに・・・?」
海棠を呼び捨てはマズイかと一瞬考えたが。もう、どうでも良いかと呼びたいように呼ぶコトにした。
「・・・それが分かれば、苦労はせんよ。・・・昨夜、いきなりアンタを連れ帰るとカシラが言い出してな。」
どこからともなく。石黒が姿を見せた。
「・・・ホンマにあの人は気まぐれやさかいな。あ。オレ洋二いうんや。ヨロシクな。」
愛想の良い金髪の若い男は、にっこりと笑った。
「・・・・・・上月 栞だ。どうも。」
昨夜はあれほど恐ろしかったヤクザだが。日の光の中で見る彼らは、穏やかで、栞は何となくホッとした。
「ほらオッサン。はよう食べんと、さめるで!!」
金髪の男に急かされるように、栞は箸を取った。普段でも滅多に食べない手作りの朝ごはんの数々に、俄かに空腹を感じて思わず喉が鳴った。そういえば、昨日腹を蹴られて、胃の中のモノは全て吐いてしまったハズだった。だが。
「・・・ほんまにな。あの状況やったら、そのまま、あんた解体して、内蔵を売り飛ばすコトになってもおかしゅうなかったんや。けど。カシラがいきなりアンタを殺さんと言い出して。しかも、自分の自宅マンションへ連れて帰る、て・・・。」
石黒に、何の気なさそうに恐ろしいコトを言われて。
「・・・・・!!!」
栞は味噌汁を吹き出した。
(そうか。マグロ漁船以外にも、内臓売買があったか!!いやこの世界、奥が深い。)
妙な感心とともに。しかし。自分の内臓なんか、本当に売り物になるのだろうか、と味噌汁を持ったまま、栞は、ぼんやりと考える。石黒が言葉を続けている。
「これがなあ。もし、妙齢の美女や溜め息の出るような美少年とかいうんやったら、色恋沙汰で、カシラの悪い癖が出よったと思うトコロやが。あんたじゃなあ・・・。その可能性も無いし。一体どういうコトなんだか、さっぱりわからん。」
「・・・・・。」
そりゃそうだな、と思いながら。栞も首を傾げた。
「・・・ごちそうさまでした。」
箸を置いた栞を見て、洋二は口を尖らせた。
「何や。ホトンド食べてないやないか。」
どうやら、賄いは一手に引き受けているらしい洋二は、少し気を悪くしたようだった。
「・・・すまない。あんまり食欲が無くて。」
「・・・・まあ。昨日の今日やさかいな。」
洋二は、仕方ないといった風に肩を竦めた。どうやら昨夜のコトを知っているらしい。もしかすると、栞をリンチした一人かもしれない。
「・・・モトモト。そんなに食べる方ではないんだ。だが、せっかくの料理を残してしまって、申し訳ない。」
栞は、礼儀正しく謝った。それから、食器を台所に運ぶ。
「別にええけど。あんた、ガタイ、けっこう良いのにな。意外やな。」
「・・・昔は。でも、最近はな。年取ったからな。」
「ふうん。けど、石黒のオッサンはけっこう食べよるで。あんたと同い年くらいとちゃうんか?」
「・・・・・・。個人差があるんだろう。」
栞は食器を片付けながら、少し寂しそうに微笑んだ。だが。基本的に洋二にはどうでも良いことだったらしく。
「そうかもしれへんな。ところで。オッサンのこと、『栞ちゃん』て呼んで良えか?可愛い名前やもんな。」愉快そうに問いかけてきた。
「・・・断る。」
栞は、間髪入れずに。キッパリと答えた。
6. ヤクザ V.S. リーマン
「なんや。もう動けるんか?」
「逃げないから、もう自分のアパートに帰って良いか?」
真夜中に疲れた表情で帰ってきた海棠に掛けた、栞の第一声やそれだった。
「なんや。『お帰り』くらい言うたらどないや。」
ネクタイを外しながら、海棠は渋い顔をする。
「あっちで聞いてたら。大勢が叫ぶように『お帰りなせえやし!!』とか言ってたじゃないか。あれだけ言われれば、もう良いだろう?」
「・・・何かチョイむかっときたな。」
海棠は明らかに機嫌を損ねた表情をして、栞を睨んだ。
「上月さんは、ずっとその許可が欲しゅうて一日中、カシラを待ってはったんですよ。私が、許可を下せるのは、カシラだけやと言うたから。」
取り成すように口を挟んでくる石黒を、海棠はジロっと睨んだ。
「仕事のコトもあるし。今は不況だから、ちょっとのコトでクビになるんだ。・・・そうしたら、借金も返せなくなる。あんたにとっても良い事は無いだろう。」
栞の言葉に、海棠は舌打ちした。
「・・・あんた、妙に小利口で小ズルイな。人間としては、どうかと思うぞ。・・・けど。まあ良え。ちょい話があるんや。こっち来いや。」
「・・・・・?」
リビングのソファに腰を下ろした海棠は、栞に向かいの席を示した。
「あんた。ウチの組で働かんか?」
「はあ!?」
「あんたの、その。妙に小利口で小ズルイところ。友人としてはゴメンやが、部下としては使い出がある。どうや?それなら、借金はホンマにチャラにしてやるで。」
「いやだ。」栞は即答した。
「・・・おいおい。少しは考えたらどないや。悪い話やないハズやで。」
「冗談じゃない。ヤクザなんて、人間のクズじゃないか。そこまで堕ちたくは無いね。」
「・・・・何やて?」
海棠の顔が強張る。
「善良な一般人を脅すくらいしか能が無いクセに。こんな立派な暮らししやがって。何か、勘違いしてるんじゃないか?」
「ほう。善良な堅気のサラリーマンは、随分お偉いようやな。だが、あんたの居る建設業界と俺たちは切っても切れない仲やで。」
「・・・・少なくとも、俺とあんたは切ったら切れる仲だ。この人間のクズ!!」
「栞ちゃん。大丈夫か?何であんな事言うんや。カシラが怒るに決まっとるやないか。」
洋二は再びボコボコにされた栞の顔を濡れタオルで冷しながら、囁いた。彼は、半日ほどの生活で、すっかり栞に絆されていた。洋二よりハルカに年上で、顔や身体付きはなんだが、栞は何となく男の保護欲を刺激するようなヤンチャ坊主のような可愛気があった。
「うーーー。」
栞は呻いた。
「あっ!痛いか?痛いか?栞ちゃん。ごめんな。」
洋二はオロオロと栞の顔を撫でる。
「洋二。良えから放っとけ。カシラに怒られるぞ。」石黒が舌打ちしながら洋二に怒鳴る。
「だって。栞ちゃん。二日も続けてボコボコにされたんやで。タダのサラリーマンやのに。可哀想やないか。」
「カシラを怒らせたんや。仕様が無いやろ。」
その時。
もうとっくに寝たと思っていた海棠が、寝室から姿を見せた。
「・・・カ、カシラ・・・・。」
「・・・・・。」
海棠は剣呑な眼差しで、ゆっくり栞に近付いていった。
「な・・・内臓を売り飛ばしますか?やっぱり?」
石黒は、何となく海棠と栞の間に立ち塞がった。栞を庇うとかそういうつもりは更々無かった。本当に、何となく。
「何やっとるんや。石黒?どけや。」海棠の眉間の皺が深くなる。
「・・・・は。」石黒は弾かれたように、慌てて脇に身体をどけた。
「カ、カシラ・・・。栞ちゃんは、慣れない環境で、ちょっと気が立っていたんやないかと・・・。」
洋二が、ソファに横になっている栞の足元の床に両手を突いて、懸命に言い募る。
「・・・栞ちゃんやと・・・?えろう親しゅうなったもんやな、洋二。」
海棠は洋二を睨んだ。
「・・・・・・。」
その。恐ろしく凶悪な視線に怯んだ洋二を庇うように、栞は上半身を起こした。
「・・・部下に当たるな!!文句なら俺に言えば良いだろう!本当に、最低なヤツだなっ!!!」
「何だとうっ!!」
「カシラッ!!!」
「栞ちゃんっ!!!」
「どうせ敵わないんだから、余計なコト言わなきゃ良いのに!!!」
洋二は更に傷の増えた栞の顔面を、ホトンド半泣きで冷していた。と、そこへ。
「カ・・。カシラ・・・。」
今度こそ寝ただろうと思っていた海棠が、三度、暗い顔で現れた。
「カシラ。栞ちゃんは・・・。」
洋二が、思わず栞の前に身体を投げ出す。
「なんや?」
「・・・・・。」
だが。やっぱり凶悪な視線に晒されて、言葉も出ずにスゴスゴと引き下がる。
「上月。さっきの言葉を取り消せ。そしたら、許したる。」
海棠は唸るように、呟いた。奥歯をギリギリと噛み締めている。彼が死に物狂いで何かを我慢しようとしているのは、明らかだった。
「・・・・何を。取り消すんだ・・・?」
掠れた声で、栞が聞き返す。顔は無残に腫れ上がっている。右目はもう開かないようだ。
「ヤクザを人間のクズやと言うたことや。取り消せ。」
「・・・・クズじゃなかったら、カスだ!!人間のカス!!」
栞は叫んだ。もう自棄だった。
「・・・・・!!!!」
瞬間。
石黒と洋二は。海棠のコメカミに青筋が浮かび上がるのを目の当たりにした。
「・・・・何で、わざわざカシラが怒ることを?」
石黒は溜め息を吐いて、栞の手当てをしていた。
肋骨が折れているかもしれないと思った。
あれほど怒り狂った海棠を見るのは、最近では本当に久し振りだった。石黒と洋二が止めに入らなかったら、死ぬまで栞を殴り続けていたかもしれない。
「わざわざ。という訳じゃない。あんたたちは、自分たちが思っているよに世間様には蔑まれているという自覚が足りないんじゃないのか?」
思いの外、しっかりした栞の口調に、石黒は何となくホッとした。
「・・・・・・・。」
「そんで。サラリーマンを馬鹿にしている。生意気に。」
「・・・・・・・。」
「俺は。イロイロ腹が立っている。それに、どのみちこれ以上悪いコトなんか起こらないさ。だから、海棠には言いたい事を言うコトにしたんだ。」
「・・・上月さん。カシラは、あんたに悪意を持っとるワケやないですよ。」
「あいつが、嫌いだ。・・・偉そうに。」
「上月さん。」
「人の人生を、自分で左右できると思っている。」
「・・・・・・・。」
「殺したければ殺せ。・・・あんな男の情けで生きていたくない!!」
栞が叫んだ瞬間。
「・・・・・!!!」
大きな音を立てて、海棠の寝室のドアが開け放たれた。仁王立ちの海棠は、凄まじい形相を浮べている。
「・・・カシラ・・・。」
もう駄目だと石黒は思った。この。何となく性格がまっすぐで妙に可愛らしく、何となくちょっと情の移ったサラリーマンに、これから未来は無いのだと、思った。だが。
「・・・・・・・。」
海棠は無言で、栞の傍まで来ると。
自分が殴ったせいで、ホトンド目が見えなくなっている栞の身体を、軽々と抱き上げた。
「・・・・・・・。」
石黒と洋二は、呆然とその姿を見詰める。
「もう、寝る。」
栞を抱えたまま。海棠はそう言い捨てて、寝室に戻って行った。
「・・・・・。」
そのドアが閉められるのを確認してから。
「・・・・・よう考えたら。昨日の晩も。カシラは、あの男に添い寝しとったんや。」
石黒は小さく呟いた。
「・・・・マジ?」
洋二がゲッといった風に目を剥く。
「・・・手当ても自分でしとったし、着替えも・・・・。」
「・・・それって。一体、どういうコトなんかな・・?」
「・・・カシラ。本気・・・・。なんかも・・・・。」
「・・・まさか。まさか、姐さんになるんか?栞ちゃんが?・・・それはちょっと。キショ過ぎるかも・・・・。ゲロゲロ!!!」
情け容赦ない。洋二の言葉に。
「・・・・・・・。」
石黒は。
コメカミを抑えて、大きく溜め息を吐いた。
(・・・ホンマに、げろげろな事態になるんかもしれへん・・・。)
石黒は。さっき栞を抱き上げた海棠の眼差しを思い浮かべた。
7. 2人の関係
(セックスをしている気配は無い。)
それは、石黒は確信していた。
だが。
(じゃあ。ずっと2人は同じベッドで、眠っているだけか?一体、何のために。)
栞が海棠のマンションにやって来てから、既に半月になろうとしていた。
海棠はあのアト、栞が会社に行くのは認めたが、自宅に帰るコトは許さなかった。勝手に彼の賃貸マンションを解約して、持ち物のホトンドを勝手に処分してしまい、怒った栞とまた大喧嘩をして、ボコボコに殴りつけていた。考えれば、こうしたコトはショッチュウ起こっているが、石黒は栞が殴り返すのを見た事は一度も無い。
(・・・変わった男や・・・。)
改めて、栞のことを思う。そしてチラリと背後を流し見て、小さな声で呟いた。
「・・・・ストレス解消のサンドバック代わり・・・なんかな?」
「・・・何か言うたか?」
車の後部座席で、書類に目を通していた海棠が顔を上げた。
「い・・・。いえ。・・・それよりカシラ。また、上月さんを殴りはりましたね。今朝、物凄い顔になってはりましたよ。」
「・・・元々、傷が付いて、惜しいような顔や無い。」
「・・・一体。あの人をどないするつもりなんです?」
「・・・・・・。」
「毎晩、毎晩。大の男が二人で同じベッドに寝て、抱きおうとる訳でも無い。」
「アホ。あんなオッサン相手に、勃つワケが無いやろ。」
「・・・したら、何でです?このままやったら、上月さんは、カシラに殴り殺されるコトになりはりますで。」
「・・・・・・。」
「まあ。・・・カシラがそれで良いとおっしゃるなら、別に良えんですがね。」
「・・・・・・ふん。お前ら、すっかり上月に懐柔されくさってからに。」
海棠は、心底苦々しげに、口を開く。
「・・・・・・。」
今度は石黒が黙り込んだ。確かに洋二は勿論、石黒も、その他の組員たちも、彼に顔を合わす頻度が多いほど間違いなくあの男に情が移ってきている。あの男には、自分たちをそうした気分にさせる、妙な可愛気があるのだ。
「・・・・・・。」
海棠は、石黒が黙ったのを確認してから、再び書類に目を落とした。だが、最早文字は追っていなかった。
何故だ、と言われても。
海棠にも分からない。ただ。どうしても手放す気になれない。あのゴク平凡な年上のサラリーマンを。
一緒のベッドに眠っていても抱こうなどとは夢にも思わない。海棠は男も抱けるが、基本的にアクマでヘテロである。バリバリのゲイならば、男っぽい上月に性欲を感じる人間も居るかもしれないが、海棠はやはりもう少し女性を感じさせる容姿を持っていてくれなくては、トテモそんな気にはならない。ただ。
上月が、隣で眠っていると妙に安心する。
イロイロ不満はあるだろうが、上月はまるで遊び疲れた子供のように無防備に眠る。これだけ自分を殴る海棠が隣に居るのだから、もう少し警戒したらどうだというほど、まるで海棠を信用し切っているように、無防備に眠る。
「・・・・・・。」
正直。
眠っている上月を、海棠は恐る恐る、時々抱き締める。そして。どうしようもなく愛おしい、と思う感情に捕らわれて、痛がって唸り声を上げるまで両腕に力を込めてしまったコトもある。
腕の中の。
その規則正しい吐息を。心臓の鼓動を。海棠よりハルカに高い体温を。その小柄な身体を。
強く抱き締めても少しも目覚める気配を持たない図太い神経を。どんなに憎まれ口を叩こうとも、いつの間にか他人の心に真っ直ぐに入り込んで可愛がられる性格を。ちょっとした小ズルさを含めてさえ。
愛しいと感じる。自分自身でも、ワケが分からない感情だった。
「・・・・・。」
上月と眠るようになっても。
海棠が他の女や男を抱いていないワケではない。
海棠の容姿や。そのバックに持っている権力に惹かれる魅力的な美男美女は引きも切らないからだ。その辺は、栞と出会う前と後では、海棠の生活に変化は無い。だが。
それらを抱いたアト。どんなに遅い時間でも、いつも海棠は栞のモトに帰ろうと思ってしまう。
あの男が無事に眠っているのを確認しなくては。規則正しい寝息を聞かなくては、心配で堪らないのだ。
弱いくせに、妙に無鉄砲な性格の男が、どこかで酷い目にあっているのではと気が気では無い(冷静に考えれば、一番酷いコトをしているのは、海棠なのだが)。
マンションに帰って、眠る上月を見ると、いつも思う。
こんな平凡なサラリーマンで。特に仕事が出来るワケでもない。いつリストラされもおかしくなくて、年齢も35歳だ。しかも2億円もの借金を背負っていて、特に容姿が美しいわけでも何でもない男など。
俺が気に掛けてやらなければ、他に誰も栞を気に掛けてやったりはしないだろう、と。俺が愛してやらなければ、他に誰も愛したりしないだろう、と。
まるで、逃れられない義務のように。
何だか、妙に楽しい気分で、そう思う。
自分だけのモノ。
自分が居なければ、生きていけないだろう。そんな生き物を、支配するような。楽しさ。確かにこれはカタチを変えた独占欲に近いものなのかもしれない。
確かにワケが分からない。
「・・・・・。」
海棠は薄く微笑む。
だが。
海棠は、自分の気持ちで、一つだけはハッキリしていると思っていた。愚かにも。
これは。愛でも恋でも無いと。
8. 何かが終わる夜
「栞ちゃん。飲む?」
風呂から出て、髪を拭きながらリビングに入った栞に、洋二が缶ビールを呑みながら、訊いてきた。
「ああ。・・・じゃ、ちょっとだけ。」
特に呑みたいワケでは無かったが、何だか今日は凄く疲れて、アルコールが欲しい気分だった。
時刻は深夜を回っている。
「・・・・海棠は、今日も午前さまか。」
「最近は、仕事の方やなく、どうやらコッチの方らしいけどな。」
洋二は笑いながら、右手の小指を立てた。
「仕事は、忙しくないのか?」
栞は半月前くらいの、忙しそうにアチコチに出掛けていた海棠を思い浮かべていた。
「東京で、カシラがせなならん仕事は、もうホトンド終わったんちゃうかな。組長も帰って来て欲しいと矢の催促やし。けど肝心のカシラが、何かこうノラリクラリと・・・。」
「何で、帰らないんだ?」
「・・・栞ちゃんのせいちゃう?」
「何で、俺のせいだ?」
「栞ちゃんと、離れとうないんやないの?」
「バカバカしい。」
缶ビールを呷る栞を、洋二はニヤニヤと笑いながら見ていた。そしてふいに。イタズラを思いついた子供のような表情を浮べると。
「・・・・なあ。このトコロ、明け方くらいまで、独り寝で寂しいんちゃう?」
ずいと。
栞の方に上半身を傾けてくる。
「・・・なっ!!元々、独り寝なんだよ!!!」
栞が嫌そうに、少し身体をずらせる。洋二にとっては、この反応が堪らないのだ。何だか真っ白で、予想した通りに嫌がってくれる栞が可愛くて、何だかもっとイジメたくなる。
「なあなあ。毎晩、カシラに張り付かれて、性欲処理とかどないしとるん?」
耳元で囁くように息を吹きかける。栞は、洋二が面白がるだけだと分かっていても、飛び上がるような反応を見せて後退さってしまう。慣れていないのだ。こうしたからかいに。
「ばっ!!!馬鹿野郎!!大きなお世話だ!!・・・って。お前酔ってるな。」
「うひゃひゃひゃひゃ。栞ちゃん真っ赤ッ赤!!」
洋二は心底、愉快そうだった。見るからに、どんどんワルノリしてくる。
「か〜〜〜〜わいいっ!!!なあ。なあ、俺が慰めてやろうか・・?」
そう言いながら、パジャマを着た栞の下腹部に手を伸ばしてくる始末だ。
「ば、馬鹿!!ヤメロ!!!20歳ソコソコのガキとは違うんだ!!性欲なんてそんなに起こらないんだよ!!!」
「でも。オトコやないか?溜まるやろ?」
「やめろったら、ヤメロ!!この酔っ払い!!!いい加減にしろっ!!!」
調子に乗った洋二は小柄な栞の体躯を組み敷く真似をして大笑いしている。と。
「・・・・何をやっとる?」
低いバリトンが、氷のような気配を振り撒いきながら、部屋中に響いた。
「カ・・・カシラ・・・!!」
洋二と栞が顔を上げると。
いつの間に帰ったのか。リビングのドアを開いた状態で、海棠と石黒が固まっていた。
「あ・・・!これは・・・。」
洋二が大慌てで、栞の身体の上から降りる。
「・・・何をやっとったんや!?」
海棠は、声に漲る怒りを隠そうともせず、大股で二人の傍までやって来た。そして。
「海棠っ!!!」
栞が叫んだ。
海棠の大きな手が。唸りを上げて、洋二を殴りつけた。
声も無く吹っ飛んだ洋二の身体を、追いかけるように、情け容赦なく長い脚を振り上げて、爪先で鳩尾のあたりを蹴り上げる。
「・・・海棠っ!!何をするんだ!?俺たちは、酔ってフザケテいただけだっ!!!!」
栞が大きな海棠の背中に飛びついて、乱暴を止めようとする。海棠の自分に対する独占欲には栞も薄々感付いていた。自分の玩具に気軽に触られて、海棠の気に触ったのだと思った。
「・・・・・!!!!!」
だが、海棠は振り向き様、思いっきり栞の頬を平手で殴った。
「・・・・っ!!!!」
これほど本気で殴られたのは、初めてだった。栞にも分かっていた。海棠は何度も栞を殴ったが、いつもどこかで手加減していた。そうでなければ、栞はとっくに殺されている。
「・・・・・・!!!」
手加減の無い一撃を受けて、小柄な栞も吹っ飛んだ。テーブルの端に頭をぶつけて、フッと意識が遠くなる。だが。目の端に、海棠が洋二を更に蹴りつけている姿が映った。
(・・・洋二が、殺されてしまう・・・。)
海棠がこんなに怒っている理由が、分からない。
「・・・カシラ。もう、その辺で。・・・アトは、私の方から、罰を与えますよって。」
石黒が、海棠の息が上がってきた絶妙のタイミングを狙って、止めに入った。ダテに長く海棠の傍に居る訳ではない。
「・・・・・。」
海棠は荒い息を吐きながら、倒れている栞を振り返った。
目が血走っている。噛み締めた奥歯から、ギリギリという音が聞こえそうだ。
(・・・今度は俺か。)
海棠が怒っている理由は分からないが、多分降って来るだろう拳か足の爪先を予想して、栞は目を閉じた。だが。
「・・・・・えっ!?・・・痛っ!!!」
右手首を握られたと思った途端。物凄い力で引っ張られた。
「来るんやっ!!!」
そのまま。栞はテーブルやソファの足にガンガンぶつかりながら、ズルズルと乱暴に寝室の方に引き摺って行かれる。
「な・・・何だ?・・・海棠っ!?」
寝室に栞を引きずり込んでドアを閉めると、海棠は床に這いつくばった状態の栞を持ち上げると、いつも2人で眠っているキングサイズのベッドの上に。まさに。放り投げた。
「・・・・!!!!」
小柄な栞の身体は簡単に宙を飛び、ベッドに背中から落ちると、スプリングのためボールのようにバウンドする。
「か・・・海棠?」
普段とは。何かが違った。
海棠が見た事も無いほど怒っているのは、勿論だが。
「・・・・・・・。」
栞の目の前で、まるで見せ付けるように、海棠は引き千切るように自分のスーツを脱ぎ捨てていく。徐々に露になっていく、男として羨ましい限りの鍛え抜かれたような彫刻のような美しい体躯。
「・・・・海棠・・・?」
だが。それに見惚れるより。海棠の自分を見る血走った目や、ねっとりとした視線に、本能的な恐怖を感じて。
栞はベッドの上を、尻でゆっくりと後退さった。
(・・・・まさかな。まさか、俺相手に勃つなんてコトは有り得ないよな。)
生唾を飲み込む。
ギシッ。
「・・・・・。」
全裸になった海棠が。ゆっくりとベッドに身体を乗り上げてくる。ベッドが小さく軋む。
「・・・・・っ!!!!」
寝室の薄暗い灯りのなか。
栞は自分に手を伸ばしてきた海棠の。
猛った下腹部を目にして、声にならない呻き声を上げた。
「・・・・・・。」
石黒は、半分失神している洋二の手当てをしながら。
さっきまでひっきりなしに悲鳴と凄まじい物音が聞こえていた寝室の方を、チラリと見た。
既に物音は止んでいるが、熱く濃厚な気配が、何となく漂っている。
(・・・・仕方が無い。どこかでカシラも思い切らんとならんのや。)
多分。寝室で起きているだろうコトに、石黒は何故か。本当に何故かは分からないが、小さな安堵の溜め息を漏らした。
(・・・・2人の関係は、不自然すぎや。)
石黒にしても洋二にしても、そして、多分当事者二人にしても。このワケのわからない関係を扱いかねていたのだから。
良い悪いは別にして。
二人が自分たちの理解出来る関係に落ち着いてくれたコトに、石黒は正直ホッとしていた。
「・・・栞ちゃんに・・・・気の毒してしもうたかもしれん。・・・冗談やったのに・・・・。」
意識を飛ばしていると思っていた洋二が。震える小さな声で呟く。辛そうに、寝室の方に腫れ上がった目蓋を向ける。
「石黒さん。済んまへん。迷惑掛けてしもうて。けど、本当に冗談やったんです。」
「・・・・・今度からは、気を付けるんやな。もう『栞ちゃん』とか呼ばん方が良え。カシラの手が付いてしもうたんやからな。」
「・・・・・。」
洋二は顔を背けた。
石黒は苦い溜め息を吐いた。冗談だと、本人は言い張っているが、あれは確かにヤバイ状況だった。何かのキッカケがあれば。若い洋二は暴走して、本気で栞を抱こうとしただろう。海棠が怒り狂ったのは、それが分かっていたからだ。
「・・・・今日は、もう寝え。明日になれば、病院に連れて行ったる。」
石黒はそう言うと、洋二の傍を離れた。
9. 壊れた朝
「・・・・・・。」
やはり。眩しさに目を覚ました。
ぼんやりと、目を開くと、青い空と白い雲。眩しい太陽が目に入った。
「・・・・・・。」
寝起きだったが。栞は昨夜、自分に身に何か起こったのかハッキリと覚えていた。身体に残る疼痛などの助けを借りなくとも、全部を思い出せた。
(・・・男に犯された。)
栞はぼんやりと思った。
海棠は少しも優しくなかった。
圧し掛かってくる男の固い筋肉や。熱い胸板。自分の身体を押さえつける逞しい腕の力強さ。
根源的な恐怖に震えて、栞は、海棠に必死で許しを請うた。泣き叫び、哀願した。だが海棠は、それらを完全に無視した。
少しでも抵抗すれば、頬を叩かれ、鳩尾を殴られた。そうこうしているウチに海棠の雄は益々猛ってくるようだった。
「・・・・サディストめ・・・・。」
栞は唇を噛んで、小さく呟いた。
元々。栞はセックス経験が豊富な方では無い。学生の頃と社会人になってから、それぞれ一度づつ、特定の女性と交際したことはあったが、どちらも二年ほどで別れた。それ以外は、やはりプロの女性たちとの関係だが。それにしたってのめり込んだワケでもない。
当然。アナルを使うようなセックスの経験は無かった。入れたコトも無かったのに、入れられるハメになるとは。
強引に押し入ってきた海棠の猛々しい雄。恥も外聞も無く泣き叫ぶほど痛く、内臓を押し上げられるような圧迫感に、何度も吐きそうになった。何で好き好んでこんなコトを。と思ってはいても。栞自身も、海棠の手や口腔。後ろからの刺激により、何度も追い上げられ、達かされた。
「・・・・・・・。」
男の身体とは。何て節操が無く、安っぽいのか。栞は嘲笑った。
女だったら、無理矢理突っ込まれたと、泣く事が出来るだろう。だが。自分は確かに快感を感じて達ってしまった。それは誰よりも、海棠の目に明らかだ。最後には快感に溺れて、海棠の腰に脚を絡めてより深い快感を搾り取ろうとさえしたのだから。
(・・・・女の代用品なのか・・・・。)
海棠は、女を抱くように自分を抱いたと思う。抵抗をあきらめてからは、口付けをし、身体中に手と唇を這わせ、濃厚な愛撫を施して栞を悶えさせた。
「・・・・・・。」
栞はベッドサイドのタバコに手を伸ばした。身体は鉛のように重く、腕はブルブル震えていたが、どうにかそれを咥えてライターで火を点ける。高級そうな金色の細身のライターは栞のものでは無かった。海棠が忘れていったのだろう。
(趣味もマッタク合わない。)
栞は絶望的な思いで、そのライターを見詰めた。
その瞬間。
「・・・起きられたんですか?」
寝室のドア付近から、石黒の声が聞こえた。今までに比べて少し丁寧な言葉遣いになっている事が、栞の勘に微妙に触った。
一体、何の真似だ。海棠と寝たから、どうだっていうんだ。栞は唇を噛み締める。
「何か、食べはりますか?」
「要らない。あ。悪いけど、電話持ってきてくれないか?ちょっと身体が動かないんだ。」
「会社でしたら、今朝のウチに、連絡しておきました。ちょっと熱が高いので休むと。」
「・・・・気が利くな。」
「カシラが・・・。」
「・・・・・・・。」
栞は、石黒に聞こえるように舌打ちをした。
「傷の手当ても、カシラが一応してはるそうです。でも、高い熱が出るようなら、医者に行くように言われとりますが。具合はどうですか?」
確かに。ぼんやりとだが、覚えている。裂けた部分に丁寧に軟膏を塗りこみ、栞の身体中を、くまなく熱いタオルで清めていた大きな手のことを。
「・・・・・大丈夫だ。少し身体が重いくらいだ。・・・それより、洋二の具合はどうだ?」
「腕を骨折していたようやったんで、医者に行かせました。」
「・・・・ろくでなしめ。」
栞は、静かに呟いた。
「・・・・上月さん。無理やろうけど。カシラを恨まないでやって下さい。」
「・・・・・。」
「今思えば。カシラは、ずっと上月さんのことが好きやったんですわ。少しでも良えから。その気持ち、汲んでやってもらえまへんか?」
「・・・・・・。」
栞は小さく笑った。
「・・・お前には、昨夜の俺の悲鳴が聞こえなかったのか?」
石黒が息を飲んだ気配がした。小さな声が答えを告げる。
「・・・・・いいえ。」
「なぜ、お前らは、ヒトの悲鳴を聞いても、助けようとは思わないんだ?昨夜のあれは。誰が見てもレイプだろう?」
「・・・・・・。」
「お前らヤクザは、傲慢だよ。自分がイヤだという事を力ずくで無理矢理させられることが、どれほど屈辱的で辛いコトか、少しも分かっちゃいないんだ。寧ろ、屈辱に苦しむ人間たちの姿を楽しんで眺めている。神にでもなったつもりで。」
「・・・・・・。」
「・・・傲慢だよ、お前らは。まるで・・・。」
栞は、一瞬。言葉を切った。
「・・・逃れられない死のようだ。」
「死・・・?」
石黒は、訝しげに顔を上げた。死とは穏やかではない。
「・・・・・。」
だが。見詰める栞の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
「上月さん?」
「・・・・それなのに。『カシラの気持ちを汲んでやって下さいませんか?』か。あきれ果てて、何も言えないよ。ヤクザはとことん身勝手な生き物だ。」
「・・・・・・上月さん。」
「俺は、あの男が大嫌いだよ。勿論。ヤクザもな。気持ちなんか汲んでやる気は更々ない。あの男にだって、俺の気持ちを汲むつもりは更々無かったみたいだけどな。」
栞は、石黒の目を見据えると、はっきりとした口調でそう言った。
「それに、あの男が俺を好きだなんて世迷言は、二度と聞きたくもないね。結局。ストレス解消のサンドバック代わりだった男に、性欲処理の便所の役割が加わっただけのコトだろ?」
「・・・・・。」
石黒は、小さく溜め息を吐いた。そして。
「・・・お腹が空いたようやったら、言うて下さい。」
そう言うと、無言で寝室のドアを閉めた。
−to be continued−
2003.07.04
ということで。
やっぱりチョット暗めですが。続き、読みたいですか(笑)?