ろくでなしの神話 3

<3>

10. 小さな(のぞ)

 栞は正直、二度と海棠が自分を抱くコトは無いだろうと思っていた。

 あれは。所詮、ハズミだった。

 自分の玩具に勝手に触られた子供が、癇癪(かんしゃく)を起こすように。栞は海棠がヒステリーを起こしただけだと、思っていた。

 

 短い付き合いだが、海棠の趣味は栞にも分かっている。

 海棠は、見た目が綺麗で、繊細な細工が施されているようなモノが好きだ。

それは。金色の細身のライターや、彼が身に付けているモノの数々。その他の部屋の中にある家具や何かからでも充分(うかが)える。

 

 石黒の馬鹿が、海棠は栞のコトを好きだの何だのと世迷い言を言っていたが、そんなコトはどう考えても有り得ないし、とても信じられない。

 栞は。どう贔屓目(ひいきめ)に見ても、綺麗でも繊細でも無い。

 だから。二度と海棠が栞を抱こうなどと言う気にはならないだろうと、ホトンド確信に近いモノを、栞は持っていた。

 

 だが。

「・・・・っ・・・!!!痛っ・・!!んんっ・・・!!」

「・・・上月(こうづき)・・。力を抜け。何回言うたら、分かるんや。」

 海棠(かいどう)は眉間に皺を寄せて、栞を見下ろした。

 予想に反して。海棠はそれからも栞を何度も抱いた。

 最初の時を除けば、恐ろしく気を使った繊細な仕種で、優しく栞から快感を引き出そうとした。

 そのアマリの優しさに。普段とのギャップが凄すぎて、最初のうちは栞は。どうしたんだ、海棠。何か悪いモノでも喰ったのか。というような意味のコトをベッドの中で言い続け、海棠を苦笑させた。

 だが。どれほど優しく扱われても、栞はその行為に少しも慣れなかった。

「・・・・もうっ!!イヤだっ!!・・・頼むから、止めてくれっ・・・!!」

「・・・・上月・・・。」

 海棠は溜め息を漏らすと、栞の目尻から流れ落ちる涙を左手で掬ってから、舌で舐め取った。そして、耳元で優しく囁きながら、子供をあやす様に背中を撫でる。右手で背中を撫でながら左手はすっかり縮こまっている栞自身に触れ、ゆっくりと扱き始める。

「・・・・んん。イヤだ。」栞の背中が、ビクリと震える。

「・・・・大丈夫やから、力を抜くんや。・・・天国に連れて行ったるから・・・。」

 耳たぶを唇で挟み込むようにしながら、優しく囁く。

「・・・・んんぅ・・・!!!」

 栞は荒い息を何とか整えて、一生懸命身体の強張りを解こうとした。海棠を受け入れる云々というよりも、即物的に苦痛から逃れるために。

 

 

 

 

「・・・・何度やっても、最初はまるで処女のようやな・・・・。」

 海棠は小さな微笑を浮べて、ベッドの上で死んだようにうつ伏せに転がっている栞の髪を撫でた。

「一度入れてしまえば、それなりに楽しむクセに。」

 小さな苦笑を漏らす。

「・・・・・・・。」

「・・・精神的なモンやろな・・・。まあ、しゃあ無いな。」

 無言の栞に、答えを求めるでもなく、海棠は長い睫毛を伏せる。栞は薄く目を開いて、海棠のその美しい顔を見詰めた。

「・・・・・なあ。天国って、本当にあると思うか?」

「なんや、いきなり。さっきイッたバッカリやろが?」

 海棠は、ちょっとイヤらしい笑顔を浮かべて、栞を見た。

「・・・・・・・馬鹿野郎。死んでから行く、天国のことだ。」

「さあなあ。あってもどうせ俺には関係あらへん。」

「お前は、地獄に落ちるからか?」

「・・・・断言するんか?失礼な奴やな。・・・一体何や。もう一回、天国に行きたいんか?」

 海棠はニヤニヤ笑いながらそう言うと、栞の身体を仰向けにして覆い被さってきた。

「・・・あると良いな、と思って。天国。」

 首筋を辿る海棠の唇に、意識を持っていかれそうになりながら、栞は独り言のように呟いた。

「・・・・どないしたんや、急に?大体、なんでや?」

 海棠は、訝しげに顔を上げると、栞の目を覗き込んだ。

「・・・・・・。」

 栞は一瞬、驚いたように海棠を見た。それから、ぎこちなく視線を逸らせると、笑いながら呟いた。

「あったら、今生(こんじょう)だけで、お前と縁が切れるだろう。俺は絶対に天国に行くからな。」

「可愛げの無い()っちゃ。清々(せいせい)するってか?」

「そうだ。清々(せいせい)する。それなら、アトちょっとの辛抱だからな。」

()うそんな、きっついコト平気で言うな。・・・これでも地獄にまで連れて行ってくれという女は、引きも切らんのやで。」

「・・・・彼女たちには愛があるんだろう。俺たちの間に限るなら、そんなモノどこにも無いからな。」

 海棠の動きが一瞬止まった。

「・・・・・。本気で言うとるんか?」

 明らかに今までとは違う。トーンの低い声が、聞こえる。

「・・・・・・。」

 栞は無言で目を閉じた。

 

 俺は。

 本当に、死んで天国に行けるのだろうか。

 

「・・・・・・・。」

 急に荒々しくなった海棠の愛撫に、栞は眉を顰める。

(・・・済まないな、海棠。お前を怒らせるのもアト少しのコトだ。)

 栞は、海棠に、出来得る限りの文句を敢えて言う。そう決めていた。苛立ちの限りをぶつけて(ののし)る。多分、生涯で一度もしたことが無かっただろう自分勝手さで、我が侭放題に、感情を海棠に叩きつける。

理不尽な暴力で、人の一生をぶち壊そうとする男に絡んで、突っかかり、最後には殴られる。

 そして、自分を殴ったアトに海棠が微妙に後悔している様子を見て、溜飲を下げる。

 ざまあみろ、と。舌を出す。

 海棠と。

彼以外の、何かに向かって。

 

 

 

 会社の年に一度の健康診断で、脳波に異常が見つかったのは、2ヶ月前のコトだった。

 精密検査の結果、手術では摘出が不可能な脳幹部に出来た腫瘍が発見された。

 両親も既に無く。兄弟も居ない栞は。長くても一年は持たないだろうという医者の話を、たった一人で聞いた。

 どんどんイロイロなコトを忘れて、子供の頃に還っていって、最後には意識そのものさえ失い、眠りながら生涯を終えることになるという。医者の説明に。

栞はどうしても実感がわかなかった。

実感が湧かずに、ぼんやりと一人でアパートの部屋に帰って佇んでいたトコロで。

 大学時代の昔の彼女に、俄かに助けを求められたのだった。

ショックからまだ立ち直っていなかったと言えるのかもしれない。何故かはわからないが、栞は。友人たちの虫の良いとさえいえる願いに応じて、ついふらふらとヤクザたちの待つ倉庫に出向いてしまったのだった。

誰かに会いたかった。会って話しをしたかった。自分を必要としている誰かに。

 友人も元恋人も。ある意味タイムリーだったのだ。そうでなければ、いくら能天気なお人好しでも、あんな無謀な借金の保証人になったりはしない。

 

「・・・あ。・・・か、海棠」

 栞は急に恐怖を覚えた。慌てて手を伸ばすと、目の前の海棠の逞しい身体にしがみ付いた。そのヌクモリに縋りつく。

「『慎司』や。そう呼べと言うたやろ。」少し怒ったように海棠が呟く。

「・・・・・・っ。」

 海棠が栞の脇腹に手を滑らせた。途端に、2日前に海棠に蹴飛ばされてひびの入った肋骨が痛んだ。

「・・・・痛いんか・・・?」

 海棠は、一瞬、泣きそうな顔をした。

「・・・・・・いや・・・。」

 栞は歯を食い縛って、その痛みを遣り過ごす。

「・・・・・・。」

 心配気な海棠の顔から目を逸らせながら、栞は小さく溜め息を吐く。

 ごめんな、慎司。これは、俺の八つ当たりだ。

 栞は海棠を怒らせる言葉を吐き、キレた海棠は栞を殴る。ギリギリまで我慢しているらしい海棠が、感情を爆発させて栞を殴ったアトに見せる、哀しみと後悔に満ちた表情を見るために、栞は敢えて海棠を怒らせる。

「・・・・・・・。」

 栞は海棠の背中に回した腕に力を込めた。指先に力が込もり、海棠の背中に爪が食い込む。

「・・・・・っ。」海棠が痛みに微かに顔を歪める。栞も同時に顔を歪めた。

だって、どれほど理不尽だと思っても、『死』に向かって文句を言うコトは出来ないじゃないか。

「・・・・・・・。」

 栞は、唇を噛んで、込み上げてくる涙を(こら)える。

 

 後悔して欲しい。

 

 頼むから、誰かに後悔を感じて欲しい。

 急にこの世から消えてしまっても。多分誰も困らない、平凡な男の存在を。皆、すぐに忘れてしまうだろう、何てこと無い一人の凡庸なサラリーマンの人生を。

 それでも、自分なりに一生懸命生きてきた、確かにあった人生の日々を。その日常を。宝物のような思い出を。

 いわれの無い大きな力で、途中で断ち切るコトを。その罪を。運命という名の下に行われるその理不尽を。

「・・・・・・・・っ!!!」

 栞は。得体の知れない何者かに、後悔して哀しんで憐れんで欲しかったのだ。

 

 俺は。この世に何も残せなかった。残してこれなかった。

 栞は咽ぶように思った。

 

「・・・栞・・・。」

 海棠の切なげに掠れた声が、耳元で聞こえる。栞は死に物狂いでその存在に縋りつく。

 

 

祈るように願う。

 忘れないでくれ、と。

 自分は。確かにここ(・・)で生きていたのだと。例え、自分自身でさえも、それを忘れてしまったとしても。確かにここ(・・)に、存在していたのだと。

 

 

「・・・・・・・・。」

 栞は涙に濡れた瞳で、寝室の窓の方を見た。

 分厚いカーテンが閉められていて、何も見えない。カーテンが開いていたところで、真っ暗な闇しか見えないのだろうが。

 

 空が見たい。

 栞は思った。

 

 青空と白い雲と。輝く太陽が見たい、と。

 栞は心の底から願った。

 

11. 腕時計

「ひびが入ってはるんです。たかが肋骨かて、折れて肺でも突き破ったら命に関わりますで。」

「・・・・・・・。」

 珍しく早めにマンションに帰宅していた海棠は、リビングで石黒の説明を聞いて唇を噛んだ。

 昨夜、胸を痛そうにしていた栞の具合が気になったのである。勿論、力はいつでも加減はしているつもりだ。だが、それでもハズミというコトがある。

「・・・やり過ぎやないですか。カシラ?」

「・・・俺やって。やりとうは無いんや。」

 確かに。石黒の見る限り、海棠は恋人に暴力を振るう類いの人間では無い。栞に対してだけである。

「まあ、確かに。上月さんは、カシラを怒らせる事に掛けては天才的ですからね。」

「・・・・あいつ。ちょっとマゾッ気があるんやないか?そう思わんか?」

 海棠の言葉に、石黒は少し苦い顔をした。

「・・・というか。何かちょっと、ヤケのヤンパチというか・・・。やっぱり、ここでの生活にストレスが掛かっとるんですかねえ。」

「ストレス・・・?」

「あのひと。あんまりメシ喰わんのですわ。普段から食は細いとはご自分でも言うとりましたが。それにしても・・・・。やっぱり、あの人から見れば、色んなコトが一気に起きましたからねえ。」

「・・・・・・。」

 そう言えば、栞は再会したときに比べれば痩せたような気がすると、海棠は思った。これからは無理にでも食べさせるように石黒に指示して、念を押そうとした時。

 

「ただいま。・・・・どうしたんだ。今日は、早いんだな。海棠。」

 その言葉とともに、仕事から戻ったらしい栞がリビングに入ってきた。

既にリビングで(くつろ)いでいる海棠を見て、驚いたように一瞬眩しげに目を(みは)る。

自分のことを眩しげに見る、栞の表情が海棠は好きだった。上機嫌で、栞に手招きする。

「・・・・ああ。お帰り。・・・上月、ちょっとココ来いや。」

「・・・・?」

 海棠は、自分の座っているソファの右隣を指差した。

「・・・夕食の用意をしてきます。」

 石黒が、さり気無い態度で席を外す。

「・・・・何だ?」

 栞は訝しげな表情で、言われるままにソファに腰を下ろす。

「・・・・・・。」

 海棠は懐から細身の箱を取り出した。

「左腕を出せや。」

「・・・・?」

 栞がオソルオソルという風に左手を海棠の方に伸ばす。

「・・・・プレゼントや。」

 海棠は、栞の腕から年季の入っていそうな腕時計を外すと、代わりに箱から取り出した繊細な感じの高級そうな腕時計を嵌めた。

「・・・・・・。」栞は目を白黒させて、海棠を見ている。

「・・・あんまりチャチな腕時計やから、気になっとったんや。」

 栞は海棠に、何かをネダッたりしたコトは一度も無かった。35歳の普通のサラリーマンとしては、誰かにモノをネダルなどという感覚は無くて当然なのかもしれない。だが、海棠のように相手を甘やかしたいタイプから見れば、少し物足りなかった。海棠は栞を甘やかしたくて甘やかしたくて仕様が無かった。海棠にしてみれば、考えた末に、栞が一番受け取りやすい無難な贈り物を選んだつもりだった。だが。

「・・・・俺の時計を返してくれ。」

 栞は眉間に皺を寄せると、乱暴な仕草で、左腕に嵌められたばかりの時計を外した。

「上月?」

「チャチくて、悪かったな。だが、俺にとっては初任給で買った思い出深い時計だ。悪いが、こんな高価な時計なんかよりずっと大事なモノなんだよ。」

「・・・・・・。」

 海棠は、そんなつもりではなかった。ただ、栞の喜ぶ顔が見たかっただけだった。

それに。今日は栞と再会してから、丁度ひと月目だった。女のように記念日に拘るつもりは更々無いものの。どちらかと言えば、女性との付き合いにおいてもマメなタイプの海棠は、この日に合わせて、わざわざ、栞に似合うようなタイプの時計を、(あつら)えさせたのだった。デザインは何度も海棠が店に脚を運んで、納得するまで書き直させた。

「・・・・上月。俺は・・・。」

 海棠は不用意な発言を謝ろうとした。初任給で買った時計を長い間大事にしている栞が、いかにも栞らしくて微笑ましかった。

「二億に、いくら上乗せするつもりだ?」

「・・・えっ・・・・!?」

 一瞬。

 栞の言葉の意味が分からなかった。正直。このトコロは、栞のコトを恋人以外の位置づけで思ったコトは無かった。借金のコトなど、思い出しもしなかった。

「俺が死んでも。せいぜい生命保険は一億ちょっとだ。これ以上の投資は無駄だぞ、海棠。」

「・・・・・・・。」

 海棠は。栞の言葉の意味を理解すると、一瞬で頭が真っ白になった。

「・・・・上月。・・・貴様。俺を何やと思っとるんや・・・?」

 震える低い声が呟く。

「・・・ヤクザだろ。情け知らずのろくでなし・・・。」

 カッとした。

「・・・・カシラっ!!!!」

 石黒の声が聞こえたと思った時には、既に上月を殴り飛ばしていた。

「・・カシラ!上月さんは、肋骨にひびが入ってはりますのや!!今日は・・・・!!!」

 胸の辺りを押さえて、床の上で呻く栞の姿に。

「・・・・・・・。」

 海棠は、自分を取り戻した瞬間に。心底ゾッとした。

 俺は、このままでは、自分の手で栞を殺してしまう・・・!?

「・・・・上月・・・。お前は。・・・・お前は、何で・・・・?」

 言い掛けた言葉を切る。

「・・・・・・。」

 自分を信じろなどと、言えた筋合いでは無い。

 栞は自分を憎んでいるのだ。海棠は愕然とした気分で悟った。

 肋骨が折れそうになるほど殴られ。しかもレイプされた。

 そんな相手を、愛せる訳が無い。昨夜、自分たちの間には、愛など無いと言い切った栞の顔が目に浮かんだ。

 海棠は。目の前が真っ暗になった。

「・・・・・・。」

 海棠はやっとわかった。思い知った。

 上月ハ。永遠ニ、自分ヲ憎ミ続ケルノダ。

 

「・・・・・。」

 海棠は、唇を噛むと、瞳を閉じて俯いた。そして。

「・・・出掛ける。今夜は帰らん。」

 海棠は、栞に背を向けると、リビングを出て行った。

 

12. 惜別

「上月 栞さん。2週間分のお薬、お出ししてあります。」

「・・・・・・・。」

 栞は医者の書いた処方箋を、薬局で薬と引き換えながら小さな溜め息を吐いた。

 食後に飲まなければいけないこのたくさんの薬は何のタメだったのか、医者に説明は受けていたのだが、いい加減に聞いていたので覚えていない。

 

 今日は主治医にホスピスを進められた。場所などに特に拘らないければ、すぐにでも手配が出来ると言われた。天涯孤独の身の上だ。確かに人生の終焉を迎える地など、どこでも良いように思える。寧ろ、誰も栞を知らない場所の方が良いかもしれなかった。

「・・・・・・。」

 ふいに脳裏を海棠のオトコマエ(づら)()ぎったが。思考は、栞の頭の中で、形になる前に霧散していった。

 その考えがカタチになるのを拒むように、栞はクビを振ると、薬局を出て、大通りに停めてある自社の車に向かった。

 その時。

「・・・栞ちゃん。」

 久し振りに聞くその不愉快な呼び名に、弾かれたように顔を上げた。

 痛々しく右手を白い包帯に包み、首から吊っている洋二が、笑顔を浮かべていた。

「洋二。・・・どうしていたんだ?元気だったか?」

 あの一件があってから、洋二はマンションから居なくなった。石黒はケガが直るまで大阪に帰したと言っていたが。

「腕はどうだ。」

「・・・・もうホトンド平気や。」

 洋二は照れ臭そうに、笑った。それから、ふいに真面目な顔になって。

「・・・・あんな。実は俺、大阪の組長に言われて、カシラを迎えに来たんや。」

「海棠をか?」

「前にもちょっと話ししたけど、大阪の方もカシラがおらんと万事が万事、上手(うも)う回らんのや。カシラが睨みを利かせてくれん事には、他の組にも舐められるしな。それに。あんまりカシラが東京(こっち)に長う居ったら、東京(こっち)の組織に痛うもない腹、探られることになるさかいな。・・・引き上げる潮時なんや。ホンマはもうとっくに・・・。」

 洋二は溜め息を吐くと、言葉を切った。

「・・・・じゃあ、海棠は大阪に帰るのか?いつ?」

「急やけど、今からスグや。・・・栞ちゃん、お別れやな。石黒さんから許可もろうて、俺、お別れだけ言わせてもろうたんや。」

「・・・洋二。・・・もう会えないのか?」

「・・・・カシラが、そのつもりみたいやから・・・。俺は、てっきりカシラは栞ちゃんを大阪に連れて帰るもんやとばっかり思うとったから、ビックリしたけどな。・・・けど。多分、この方が良えんや。カシラもそう思うたんやろう。」

「・・・・・・。」

 置いて行かれるのか。海棠に。

 捨てられるのか。

 栞は、奇妙な気分でそう思った。無理矢理連れて行くと言われたら、それはそれでまた凄く腹が立ったとは思うのだが。

「寂しいな。栞ちゃんと会えんようになると。」

 洋二はちょっとだけ、と呟くといきなり栞をハグした。まるで仲の良い兄弟にするように。

「・・・・これ以上やったら、今度こそカシラに殺される。」

 洋二は泣き笑いのような表情を浮べて、栞の身体を離した。そして、道の反対側を指差す。

「・・・・カシラが待っとる。栞ちゃん。」

 そこには、海棠が外出の時に使っていた、いかにもといった感じの大型で頑丈そうな黒っぽいベンツが存在感を主張しながら停車していた。

 

 

「・・・・・。」

 栞が車に近付くと。

 石黒が助手席から降りてきて、後部座席のドアを開いた。

「・・・・・。」

 海棠は栞を見ようともせずに、前方を睨んでいる。

「・・・・カシラが。お話があるそうです。」

 石黒は、海棠の隣に座るように栞に促した。

「・・・・洋二から聞いたか?」

 栞が車に乗ると同時に、海棠が話始めた。石黒は助手席に座っている。運転手も居る。

「大阪に帰るという話か?それなら、聞いた。」

 海棠は唇を噛むと、黙り込んだ。

「・・・・・・。」

「・・・・・・。」

 栞は無言で、海棠が口を開くのを待った。

「・・・お別れや、上月。清々(せいせい)するやろ。」

 海棠は小さく笑った。栞は眉間に皺を寄せる。

「厭味っぽい言い方は、やめろ。」

「本当のコトやないか。」

  海棠は醒めた笑いを頬に浮かべて、窓から外の景色を眺めているようだった。

「・・・・借金の返済はどうすれば良い?」

「・・・・あれはチャラにしたる。」

「・・・・・・?」栞は海棠を見た。

「あんたは、命の恩人やさかいな。」

 そう言うと、海棠は懐から、例の借用証書を取り出した。栞の目の前に突き出すと、ゆっくり破り捨てる。

「い・・・良いのか?」

「言うとくけどな。あんたのお友達一家。ホントはとっくに見付けとったんやで。」

「・・・・・・。」

「見逃してやっとったんや。・・・あんたのためにな。」

「・・・・・・。」

「二億円の大損や。」海棠は自嘲的な笑みを浮かべた。

「・・・・何故だ?」栞は海棠をまっすぐに見た。

「・・・・分からんのやったら、別に良え。無理に分かってもらおうとも思わんしな。」海棠は栞を見ない。

「海棠。」

「あんたは、もう自由や。好きにしたら良え。もう俺は二度と、あんたの前には現れんしな。ああ。また、偶然というんなら別やで。」

「海棠。」

「・・・あのマンションは当面好きに使え。アトで、組のモンに行かせるから、それと相談してくれ。」

「・・・・。」

 取り付くシマも無い海棠の様子に、栞は黙り込んだ。

「・・・・石黒。車を出せ。話は終わりや。上月。降りろ。達者でな。」

「・・・・海棠・・・!」

 栞は何となく慌てて、海棠の腕を掴んだ。その瞬間。

「・・・・海!!!」

「・・・・・!!!」

 海棠は栞の後頭部を右手で抑えると、身体中を使って栞の動きを封じて、強引に唇を重ねてきた。貪るように栞の咥内に舌を差し入れる。

「・・・・・っ!!!!」

 狭い車内に、湿ったような水音とともに、性的な濃密な気配が満ちる。だが。

「・・・・・・・。」

 それは。始まるのと同じくらい唐突に終わった。

「・・・・・・かい・・ど・・う・・・。」

 僅かに息の上がった栞の後頭部を右手で抑え、真剣な眼差しでその瞳を絡め取ったまま。

「・・・・・・・。」

 海棠は、ゆっくりと左手の甲を栞の左頬に滑らせた。

 愛おしむように、2、3度。頬をゆっくりと撫でる。そして。

「降りろ、上月。・・・達者で暮らせや。」

 そう言うと、栞はホトンド。追い出されるように、車から降ろされた。

「・・・・海棠。海棠。」

 栞は、スモークドで中が見えないベンツの後部座席の窓ガラスを叩く。

「・・・・・・。」

 音も無く、それが少しだけ下がった。やはりこちらを向いていない海棠の。オトコマエで綺麗な顔が見えた。

「・・・・ありがとうな。」

 栞は呟いた。海棠の肩が、ビクリと震えたように感じたのは気のせいだろう。

「ありがとう・・・。」

 お前のおかげで俺は。

 少なくとも一緒にいた一ヶ月の間。病気のコトは殆ど考えなくて済んだ。毎日が刺激的で、初めてのコトが多過ぎて。今となれば、楽しかったとさえ言えるかもしれない。そして。

「・・・・ゴメンな、海棠。」

 八つ当たりをして。

「・・・・・・。」

 海棠が。驚いたように、栞を見た。

「・・・・・・。」

 栞は、海棠のその顔に向かって、ゆったりと微笑んだ。こんな風に海棠に笑い掛けるのは、始めてかもしれなかった。

お前は、すぐに俺を忘れるのだろうな。栞は思った。仕方ないよな。お前はこれからも何十年も生きていくのだものな。いつの間にか。自分にとっての最後の拠り所になりつつあった、憎たらしい年下の綺麗なヤクザを、栞は静かな眼差しで見詰めた。それから(うつむ)くと、ゆっくりとした足取りで、ベンツから離れていく。

「・・・・・っ!!」

 海棠は、思わずドアノブに手を掛けた。それを開けようとして、急に動きが止まる。

「・・・カシラ・・・!」

 助手席に座っていた石黒が、声を掛ける。バックミラーに映る、海棠のドアに手を掛けた右手がブルブルと震えているのが見える。

「カシラ・・。上月さんを呼び戻しましょうか?今なら・・・。」

 耐え切れずに、石黒が海棠に向かって叫ぶ。だが。

「・・・・車を出せ。」

 海棠は、脱力したようにドアから手を離すと、そう言って頭を抱えた。

「カシラ!」

「良えから、車を出せ!!」海棠は後部座席から、助手席の背もたれを蹴り付ける。

「・・・・・・。」

 石黒は溜め息を吐いて、運転手に合図をした。

 車はゆっくりと滑り出す。すると。どこからともなく、海棠の乗っている車を守るように数台の同じような黒っぽいベンツが前後を囲む。

「・・・・・・。」

 バックミラーに映る海棠は。背もたれに凭れ掛かってやや俯き加減になっている。

「・・・・・・。」

 両眼からは、涙がポロポロ零れ落ちていた。

「・・・・カシラ。何で。ちゃんと、好きやと言わんのです?」

 石黒の声は苦い。責めるような響きさえ含まれている。

「・・・・あんなオッサン。俺は、別に好きでも何でも無い。物珍しゅうて、暫く面倒を見とっただけや。」

 啜り泣きの混じった海棠のくぐもった小さな声が、答える。

「・・・女も男も()り取りミドリや。誰が()りによって、あんなオッサンなんか・・・。アホらしい。本気で惚れる訳無いやろ。」

「・・相手がどうでも。惚れてしもうたんなら、しゃあ無いやないですか。このままやと絶対、後悔する事にならはりますで。」

「うるせえっ!!石黒っ!!手前いつから、俺にそんな口が利ける身分になったんやっ!?」

 海棠は血走った目で、前の座席に座っている石黒をバックミラー越しに睨みつけると、助手席の背もたれを思いっきり蹴り飛ばした。

「す、済んません・・・・。」

 石黒が顔を歪めて、海棠に頭を下げる。

「二度と、上月のコトは口にするなやっ!!!叩っ殺すぞ!!」

「・・・・・・分かりました。」

 石黒は暗い気分で、目を閉じた。

 

 海棠は唇を噛み締めて、必死に自分に言いきかせた。

(これで良かったんや。これが、上月の望んどった事や。)

 生涯に一度くらいは。

 心底惚れた人間の幸福のために、身を引くような愛し方をしてもいいだろうと、海棠は信じていた。

 たったひと月。なぜ、平凡なタダのしかも年上のサラリーマンにこれほど執着したのかは、海棠にも分からない。だが、確かに溺れた。溺れるように栞に夢中になった。

「・・・・・これは。恋なんかやないんや・・・。」海棠は小さく呟く。誰よりも愛おしいもの。何よりも大切なもの。そんな風に。自分以外の誰かを感じたことは一度も無かった。

『・・・慎司・・・っ!!』

 一昨日の夜。

 初めて自分の名前の呼んで、()った栞。魂が震えるほどの歓喜。死ぬまで放したく無いと、心の底から願った。だが。

「・・・・・・。」

 海棠は。

ついさっき味わった甘やかな唇の感触を。(かつ)えたように、偲んだ。

 

−to be continued−

2003.07.08

 申し訳ありません。

 ミナサマの嫌いな死にネタです。しかし、栞ちゃんも海棠も。キチンというべきコトは言いなさいよ。アメリカ人とか零一朗を見習いなさい(笑)?

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