ろくでなしの神話 3

<4>

13. 銃撃戦

 痛いほど美しい夕焼けが、大都会のビル群を真っ赤に染め上げていた。

(凄えな。夕焼けが赤いと次の日は雨になるんだったっけ?明日は雨かな。)

 栞は。ぼんやりと、その光景に見惚れていた。今日の仕事は、自社から借りて来た車を返せば終了である。

 

 最近、こういう何でもないシーンがいやに心に残る。無意識にこの世の中の美しいもの全てを、頭の中に刻もうとしているのかもしれない。

(どうせ。すぐに忘れてしまうっていうのにな。)

 栞は苦笑した。

 それでも、ヤッパリ思う。

 もっと、見ていたい。

 もっと、イロイロな経験をしてみたい、と。

 

 会社には、既に辞表を提出してあった。

 二週間後には、退社だ。それから少し田舎の港街にあるホスピスに入る予定であった。漁港が近くて、魚介類が美味いらしい。主治医がほとんど職責を超えて、栞の希望に一番近い場所を一生懸命探してくれた。主治医は栞とは同年代で、栞の天涯孤独の身の上や、逃れるコトの無い運命に相当同情してくれて、かなりイロイロ便宜を図ってくれた。栞は彼に、素直に感謝していた。

 病気のコトは。会社の人間は誰も知らない。栞は結局上司に、精密検査の結果を伝えなかった。だから、栞の辞職の理由を皆、単なる転職だと思っている。栞も誤解を解こうとはしなかった。

寂しくなりますね。お別れ会は派手にやりましょうね。同僚は勿論、それ以外でも仕事上の関わりのあった外注会社の人たちも、一しきり別れを惜しんでくれた。それでも、やはり社交辞令の域は出ない。

 今はもう引き継ぎもホトンド終わり、上司は純粋な親切心から必要なら、出社してこなくても良いと言ってくれていた。転職に必要な雑用もあるだろうからという親心だと分かっていた。それに。

 この不況の折、早期退社は歓迎されるのだ。部下のリストラは、上司の評価にも繋がるハズだ。上司は栞を(ねぎら)ってくれているのだ。

「・・・・・・。」

 一抹の寂しさを感じない訳では無い。

無くてはならない存在だとまでは、言って欲しい訳ではないが。もう少し引き止めてもらえるのでは、などと甘いコトを考えていた自分を嘲笑(わら)う。本当は仕方が無い、と分かっている。今までの栞の態度が、そういうモノだったのだから。会社の人間とは当たり障りは無いが、踏み込んだ付き合いはしてこなかった。だから、これは当然の結果だ。

「・・・・・・。」

 栞は小さく溜め息を吐いた。

 海棠のマンションは、彼と別れた次の日に出た。

 ひと月くらい、間借りしても多分、海棠は何も言わなかったとは思うが、さすがに栞はそんな真似はしたく無かった。

 すぐにウイークリーマンションを契約して移った。思えば、海棠に前の賃貸マンションの荷物や何かを処分されていたオカゲで、本当に身軽だった。妙な感傷に(わずら)わされるコトも無かった。ケガの功名というヤツだ。

「・・・・・・・。」

 栞はもうひとつ溜め息を吐いた。

 ムカつくが。

 栞との別れを、本当に惜しんでくれたのは、あいつらヤクザたちだった。洋二も石黒も。そして、その他マンションに住み込んでいた訳では無くても、ひと月の間に顔見知りになった、海棠の回りを囲んでいた男たち。別れの言葉は交わさなかったが、皆、あの日。栞が海棠のベンツを離れた別れの瞬間に、何某(なにがし)かの想いの籠もった眼差しを栞に投げ掛けて来た。

「・・・・・・・。」

 そして海棠 慎司。

 何の酔狂(すいきょう)か、栞を抱いた男。

 あの男は一体、何を考えて、あんな真似をしたのか。栞には未だに見当が付かない。

 どう見ても。オンナに不自由するような男には見えなかった。どころか、栞から見てもカナリのレベルのイロ男だった。道を歩いているだけで、8割方の女性が振り返るような。

タッパもあり、体躯も見事に鍛え上げられていた。服を脱ぐと、しなやかな身体に適度に付いた筋肉がまるでギリシャ彫刻を見るように美しかった。軽い関西弁のせいでそうは見えなかったが、良く見れば凄まじく整った顔をしており、だが少し垂れた二重の切れ長の大きな目に愛嬌があって、つい表情を目で追ってしまうような、何とも言い難い魅力を生んでいた。

「・・・・・・・。」

それなのに。それほどの魅力を持つ男だというのに。彼は自分を『慎司』と呼べと、少し怒ったようにベッドの中で栞に告げた。怒ったようだったのは、照れ隠しだったように栞には見えた。

正直言ってその海棠の言葉に、彼の幾ばくかの想いを感じなかったかと言えば嘘になる。だが、栞はその事を突き詰めて考えるのが恐ろしかった。栞は、その考えが何かのカタチを取るコトを敢えて放棄した。

 オンナにも。あるいはオトコにも不自由したことなど無いだろう海棠。

 そんなオトコが自分に一体、何を想うといのか?

 栞は苦笑した。荒唐無稽過ぎる。自分の自惚(うぬぼ)れを自嘲した。そして。

「・・・・・・。」

海棠に嘲笑われるのを恐怖した。

「・・・・・・・。」

 いい歳をして。一体、自分は何を期待しているのか。

 栞は頭を軽く振って、路上に違法駐車してあった会社の車の前に立ち止まった。

栞の車の前後にも、何台もの路上駐車の車が停まっている。この辺りで、車を金を払ってまで駐車場に停めようとする人間は少ない。仕事関係では特に。

栞は違法駐車している車の列を見るとも無しに見ていた。そして数台先に、頑丈そうな黒塗りのベンツが停められているのに気付いた。

「・・・・・?」

そのベンツの前後に目付きの悪い数人の男の姿を認めて、栞は視線が合わないよう慌てて顔を逸らすと自分の車のロックを外した。

(・・・海棠が乗っていたようなベンツだな。)

 妙に気になって、栞は再びチラリと視線を向けた。実質、その通りだったらしい。ベンツの助手席から降りてきた明らかにその筋のオトコが、(うやうや)しく後部座席のドアを開いている。よく見れば、そのベンツの前後に停められた車からも、数人のオトコたちが出て来て、さり気無く周辺に気を配っている。

(今まであんまり気にしたコトも無かったけど、結構そこかしこ(・・・・・)に居るもんだな。)

 栞は男たちの動きを見ながら、自分の車の運転席に乗り込んだ。溜め息をひとつ吐いて、エンジンを掛ける。

 ベンツの後部座席からは、2人の男が降りてきた。

 先に下りてきた男は、一見エリートサラリーマンといった風貌をしていた。

 身長は、海棠くらいだろうか。栞よりは15センチ以上は高く見える。年齢は栞くらいかもしれない。

 銀縁の眼鏡を掛け、やや茶髪の柔らかそうな髪の毛はしっかりとセットされている。色白の端正な顔は、理知的といっても良い。

 だが。眼光が異様に鋭い。一目で善良な市民とは一線を画する存在だと分かる。

「・・・・・・・。」

 栞はドキリとした。

 車の中から、眺めている栞の視線に気付いたように、一瞬男が、こちらを見たような気がしたのである。

「・・・・・!!!」

 慌てて、視線を逸らす。冷や汗が吹き出た。海棠と付き合っていた間に、ヤクザの人間的な可愛い面も目にしないでは無かったが。やはりヤクザは怖い。

 それでも好奇心には勝てず、恐る恐る。視線を戻す。

「・・・・・。」

 さっきの男の後ろに、もう一人の男が、ベンツから降り立ったトコロだった。

 先に降りた男が、男に進路を譲る。物腰から見て、この男がこの中では一番の大物らしい。

真一文字に結ばれた薄い唇。やや日に焼けた肌。真っ黒な髪の毛はオールバックに撫で付けられ、額の方に数本だけ垂れ下がっている。

そして、目がまったく見えない、真っ黒なサングラスを掛けている。

 目の前に立つ銀縁眼鏡の男より、まだ一回り身体が大きい。

 その逞しい身体を包む、仕立ての良いスーツ。その身に纏う暴力の気配。

(・・・・確かに大物っぽい。)

 栞はゴクリと生唾を飲み込んだ。

 若く見える。年齢は銀縁眼鏡の男と変わらないかもしれない。

 だが。その身を包む圧倒的な存在感。栞は思わず、目を奪われていた。

 

 その時。

 

 辺りに、物凄いブレーキ音が響いた。

「えっ!?」

 栞は、車の中からそちらを向いた。

 

 

 外国製だろう、かなり大きな四輪駆動車が二台。栞が見ていたオトコ達に向かって、凄いスピードで突っ込んで来た。

 同時に。

「・・・・・・!!!!」

 凄まじい破裂音のようなモノが聞こえて、栞は反射的にハンドルに顔を伏せた。心臓が痛いほどドキドキした。

「ぎゃああああっ!!!」

「おんどれらあっ!!!どこの(もん)じゃいっ!!!!」

 路上では、怒号が飛び交っている。

「きゃあああああああっ!!!」

 どこかの女性の悲鳴が聞こえた。栞はフロントガラスから顔を覗かせた。

「・・・・・・!!!!」

 逃げなければ。

 一般市民の危機回避本能が栞を駆り立てている。だが。

 

「・・・・・!!!」

 目の前で繰り広げられている、とても現実とは思えないような光景に、思わず身体が竦む。

 

 ぱあん。

 ぱあん。

 

 四駆の男たちは、何事が叫びながら、サングラスの男に向かって、容赦なく銃をぶっ放していた。

 護衛に着いていたらしい男たちは、既に3人が路上に血を流しながら倒れている。彼らにとってまずいコトに、変な方向から突っ込んできた大型車によって、2人はその他の組員らしい男たちと分断されていた。

 銀縁眼鏡の男が、ベンツの陰に男の身体を引き摺り込み、自分の身体を覆い被せて男を必死に護っている。

「・・・・・・!!!」

 ふいに。栞の頭の中で。その姿が重なった。

 海棠と。石黒の姿と。

 石黒も。洋二も。そして他の男たちも。恐らくこんな事態が起きれば、やっぱりこんな風に身を挺して、海棠を護るのだろうと。

 

「・・・・・・・。」

 栞は何故。自分がそんな真似をしたのか分からない。

「・・・・!!」

 アクセルを踏み込んだのは、無意識だった。

「!!!!!!」

 気が付けば、二人の男と襲撃者たちの間に、強引に車を割り込ませていた。思いもよらなかっただろう援軍の出現に、両サイドの男たちが戸惑いのイロを浮べる。一瞬の隙が生まれた。

「乗れっ!!!はやくっ!!!」追い詰められていた二人の男たちにとっては、おそらく生き延びる最後のチャンスだ。栞は2人に向かって叫んだ。

「若っ!!!」

 二人が躊躇(ためら)ったのは、一瞬だった。

 素早い動きで、栞の車の後部座席に乗り込む。

「・・・・・!!!」

 栞は一気にアクセルを踏み込んだ。

「待てやあっ!!!!」

「このガキィ!!!!!」

「若あっ!!!!」

 ヤクザたちの罵声を聞きながら、栞は猛スピードで車を走らせた。

 

 

「・・・・・・・。」

「・・・・・・・。」

「・・・・・・・。」

 とんでもない真似をしてしまったと気付いたのは、暫く車を走らせてからだった。

 この辺りは、仕事で何度も来たコトがあり、裏道にも詳しかった。何度も狭い路地に入り、そうした道をグルグルと走り、追っ手を完全に撒いたと確信してから、栞は車を停めた。

「・・・・・・・。」

 ハンドルに突っ伏す。今更ながら、脚が震える。冷や汗が一気に吹き出した。

「・・・・・あんた・・・。」

 後部座席の黒いサングラスの男が、栞に声を掛けてきた。

「・・・・降りてくれ。」

 栞は、男の言葉を聞きたくなかった。男を遮るように強引に言葉を(かぶ)せた。

「・・・・・・。」男は戸惑ったように、口を噤んだ。

「・・・・どうかしていたんだ・・・。頼むから、降りてくれ。俺はあんた達とは何の関係も無い・・・。」

「・・・・・・・・。」男が暫く栞を見詰めている気配を感じたが、栞は男の方を見なかった。

「・・・・・・・どうして、俺を助けた?」男の若々しい声が聞こえる。栞が思っているより、実際はもっと若いのかもしれない。

「・・・・俺は、どうかしてたんだ。頼むから忘れてくれ。」栞はもう一度言った。哀願するように。

「・・・若。今、迎えが来ます。」

 栞の車に乗ってから、ずっと携帯電話を耳に当てていた銀縁眼鏡が、若と呼んだ男の方に向かって言った。同時に警戒しながら車から降りると、辺りを見回しながら、男に車から降りるように促す。

「・・・・・礼をさせてくれ。」だがサングラスの男は、眼鏡の男の言葉が聞こえないかのように栞から目を放さない。

「結構だ。助かったと思うなら、俺のことは忘れてくれ。」栞は、バックミラー越しに男を見た。

「・・・・・・・ケガを・・。」

 男が一瞬、眉間に皺を寄せた。サングラスを外すと、後部座席から身体を乗り出して栞の右腕を掴んだ。そして栞の身体ごと強引に自分の方に引き寄せる。

「・・・・っ!!!」

 栞はうろたえて、身体を引こうとした。だが。がっちりと掴んだ栞の右腕を男は放そうとはしない。更にぐいぐいと引き寄せられる。

「・・・怖がるな。傷の具合を見るだけだ。」

 男の。真っ黒な。意外なほど美しいヤクザとは思えないような澄み切った瞳が、栞を射た。

「・・・・・・・。」

 見ると、確かに男に掴まれた右腕はスーツごしに血が滲んでいる。

「!!!!」

 ハッとしてフロントガラスを振り返ると、一発だけ弾痕があった。

「・・・・・・・。」

 撃たれたのか・・・・?

 栞は腰が抜けるかと思った。一気に血の気が引く。

「・・・・(かす)っただけのようだ。大した傷じゃねえ。」

 男はホッとしたようにそう言うと、血の気の引いた栞の蒼褪めた頬に手を充てた。

「あんた・・・。度胸があるんだか無いんだか、良く分からない男だな。」

 微かに笑う。白い歯が煌き、意外なほど爽やかだ。栞は溜め息を吐いた。

「・・・・・・度胸なんて、無い。俺はタダのサラリーマンだ。」

 海棠といい、この男といい。ヤクザはどうして皆、こんなにオトコマエばかりなんだ。栞はぼんやりと、思った。

「若!!迎えが来ました。」外に出ていたオトコが戻って来た。

「不破。この男の手当てを。」

「・・・・撃たれたんですか?」

 不破と呼ばれた銀縁眼鏡の男が驚いたように、栞の方に身を乗り出す。

「弾は入ってねえ。だが、腕を掠めたようだ。血が滲んでいる。」

 男が、栞の腕を掴んだまま不破に言う。不破は暫く傷の具合を見ていたが。

「・・・・申し訳無いが、非常事態だ。手当てする時間が無い。こんな真似をして、どうか気を悪くしないで欲しい。」

 そして懐から財布を取り出すと、万札の束を抜き出して、栞の手に握らせた。眼鏡の奥の瞳は誠意溢れる光を帯び、男の心の底からの感謝が栞には充分伝わった。

「いや。要らな・・・・。」だがそれでも、栞は金を受け取ることを拒んだ。こんな得体の知れない金をもらう訳にはいかない。どうせ税金なんか払っていないに違いない。

「・・・頼むから、この位はさせてくれ。あんたは、命の恩人だ。金で全てがカタが付くと思っている訳じゃ()え。だが、確かに今は時間が()えんだ。」

 金を返そうとする栞の手を、若と呼ばれた男が札ごと強い力で握り締めた。美しい黒い瞳が真摯な光を湛えて、栞を見ていた。形容し難い何かが、それ(・・)に浮かんでいる。

「・・・・・・。」

 その正体不明の強い意思のようなモノに圧倒されて、栞は口を(つぐ)んだ。

「若。行きましょう。急いで合流しないと、危険です。」

 不破は男を促して、車から降りた。だが、男はすぐには動かなかった。

「・・・・あんた、名前は?名前を教えてくれないか。」

 栞を見詰めて、呟く。

「・・・・・・。」

 栞は答えずに、ゆっくりと首を振った。

「・・・・頼む。」

 栞の手を握っていた男の手が。恐る恐るといった風に、もう一度、栞の頬に微かに触れる。

「・・・・・・!!関わり合いになりたくないんだ、俺は!!ヤクザなんかと・・・。」

 栞は怯えたように、その手から身を遠ざけると、唇を噛んで男から視線を逸らした。

「・・・・・・・。」

 男は小さく呻いた。僅かに傷ついたような光を瞳に浮かべて、栞を見詰める。

「若!はやくっ!!」

 不破が車の外から、焦れたように叫ぶ。男は舌打ちをした。そして。

「・・・・・!!!」

 大きく身を乗り出すと、右手で栞の左肩を掴んだ。そして左手を栞の顎に掛けて顔を上げさせると目を真っ直ぐに覗き込んで、こう言った。

「・・・・俺は、辰巳(たつみ) (ゆう)一郎(いちろう)という。・・・いずれ、キチンと礼をさせてもらう。必ずだ。」

 栞は弾かれたように、呟いた。

「・・・・め、迷惑だ・・・・!!」

「・・・・・・。」

 栞の言葉に、それでもだ、と小さく笑って呟くと、男は栞の肩から手を離した。

 同時に、後部座席のドアが開かれる気配がした。

 それが閉まる音を確認してから、栞は目を閉じて、天を仰いだ。

「・・・・俺は、何をやっているんだ・・・。」

 栞は、大きな溜め息を吐いた。

 あの2人に、一体何を見たというのか。

「・・・・・・・。」

 初めて出会ったときの。ピンクのネグリジェ姿の海棠を、栞は思い浮かべた。

「・・・・俺は、一体、何をやっているんだ。」

 栞はもう一度呟いた。

 ここまで来て。一体、自分は何を未練に持っているというのか。

 栞は小さく呻くと、ハンドルに頭を乗せた。

 今まではマッタク痛みを感じなかった右腕の傷が、急にシクシクと痛んだ。

 

14. 誘拐

「・・・・・・・。」

 栞は身の回りのモノを詰めた、小さなボストンバックを栞の唯一の財産といっていい軽自動車の後部座席に放り込んだ。

 ボストンバックの中身と軽自動車以外のモノは、全て処分した。今日。いよいよホスピスに向かうのだ。余計なものは何も要らない。必要なら買えば良い。

 

 会社は三日前に、辞めた。

 退社したその足で、この軽自動車を買った。ホトンド衝動買いだった。どうせ二ヶ月もすれば車の運転どころか何も分からなくなるのだろうが、それまでは出来るだけアチコチ出歩きたいと思い田舎では移動に車が必要だろうと、思い切って購入した。

 資金は。

 退職金と、あのヤクザからもらった得体の知れない金を充てた。

 随分迷ったのだが、金は金だ。汚いも綺麗もあるかいと思い切った。

 栞は自分を小ズルイと評した、海棠の顔を思い浮かべて苦笑を浮べた。

 右腕のケガは、あの男の言った通りタダのかすり傷だった。消毒して包帯を巻いておいただけで、いつの間にか直った。

 フロントガラスの弾痕には往生したが、さすがゼネコン関連会社の社用車。会社が上手く処理して、何となくウヤムヤになったようだった。別に警察沙汰になったとしても、ヤクザの抗争事件に巻き込まれただけなのでどうということも無かったと思うが、煩わしく無いに越したコトはない。

「・・・・・・。」

 栞は小さく溜め息を吐いて、軽の運転席に乗り込む。大学時代から20年近く暮らした、東京とも今日でお別れである。

 小さな感傷が、胸に迫る。

 楽しい事と辛い事。どちらが多かっただろうか。

 だが、そんなコトは最早どうでも良かった。ひとつひとつが、栞にとっては全て懐かしく美しい思い出であった。

 それらは多分。栞が忘れてしまったとしても。この世から居なくなってしまったとしても。

 誰かの胸に、心に。何らかのカタチで残っているだろう。

 栞しか知らないシーンや感情だけは。自分であの世に持って行くしかないが、それでもそれらがあった事実が無くなってしまう訳では決して無い、と栞は信じていた。

「・・・・・・・。」

 栞はエンジンを掛けた。新車のそれは、軽快な音を立てて回り始める。栞は満足だった。

 

 

(・・・・参ったな。)

 ラッシュ時は避けたつもりだったのだが、気が付けば大渋滞に巻き込まれていた。どこかで工事か事故でもあったのか。

(・・・・だがまあ。こういうのも、最後かもしれないしな。)

 ピクリとも動かない車列をぼんやりと眺めながら、栞はハンドルに凭れ掛かって微かに笑った。ちょと前のSFアニメに。

『地球か。何もかも皆、懐かしい。』

 と言って死ぬ男の描写があったが。栞の心境もそれに近いものがあるかもしれない。

 漁港が近いという場所にあるホスピスの、食事が楽しみだった。新鮮な魚が喰えるに違いない。そこに行ったら、釣りとかもしてみよう、と。栞はつらつら考えていた。と。

 ノロノロと、隣の車列が動き始めた。

「・・・・・・。」

 見るともなしにそれを見ていた、栞の視界に。黒塗りのベンツの姿が映った。

(・・・・・最近、この手の車が、本当に目に付くようになったな。)

 栞は苦笑を浮べながら、自分の隣に進んできたその車を眺めた。スモークが入っていて中が見えない後部座席の窓ガラス。

「・・・・・・・。」

 それを叩いて海棠の名を呼んだのは、ついこの間のコトだったのに、もう遥かな昔に思える。

 そんなコトを考えていた栞は、ふいにギクリと身体を強張らせた。

「・・・・・・!」

 ほぼ栞の真横に停まっているベンツのガラス窓が、ゆっくりと降り始めたのである。

 栞は、その窓を凝視した。

 何だか胸騒ぎがした。

 見ない方が良い。

 本能が栞に命じる。だが。

 まるで金縛りにあったかのように。栞の視線はベンツから、その窓から離れない。

「・・・・・・・。」

 全開になった窓の中からは。

 一人の男が。真っ直ぐに栞を見ていた。

 真っ黒なサングラス。端正な顔立ち。

「・・・・・・・。」

 栞は生唾を飲み込んだ。嫌な感じの汗が、背筋を伝う。

「・・・・・・・。」

 男は、ゆっくりとサングラスを外した。

 綺麗な。澄み切った漆黒の瞳が、栞の驚いた顔を映して輝いていた。

 見付けた、と。その唇が動いたように思った。

 

 

 

 不破が、辰巳家の広大な屋敷を出ようとした時。

「・・・・・!!」

 一足先に家を出たはずの、辰巳 雄一郎を乗せた車が門から入って来るのが見えた。

「・・・・若!?」

 不破は顔色を変えた。このトコロ、組内外で明らかに辰巳を狙った襲撃事件が頻発していた。そのため、不破自身は辰巳の傍を一時でも離れたく無かったのだが、今日はどうしても外せ無い所用があったために、辰巳とは別行動を取らざるを得なかった。

(・・・・しまった!?)

 不破は、唇を噛んで辰巳が乗っているハズのベンツに駆け寄る。

「何事だ!?一体、どうした?」

 血相を変えて詰め寄る不破に、辰巳の護衛に付いている組員たちは慌てて車から降りると困惑した表情で対する。

「それが・・・。」

「・・・・・?」

「・・・・・。」

 後部座席のドアが組員によって開けられて、身体のどこにも異常の無さそうな辰巳が、ゆったりとした仕草で降りてきた。

「・・・・若?」

 不破は眉間に皺を寄せた。

「・・・・・・。」

 不破の言葉に顔を上げた辰巳は。

 その腕に、大切そうに誰かを抱えていた。

 小柄な男だなと不破は思った。大きな辰巳に抱かれているからかもしれないが、男は随分小さく見えた。決して華奢とは言えない身体つきではあったが、小柄でこれといった特徴の無い中年の男だった。男は、辰巳の腕の中で意識を失っているようだ。

「・・・ど、どなたですか?」

 駆け寄った不破が、驚いて辰巳に()く。男の顔に見覚えは無い。いや。どこかで見たような気もするが、思い出せない。

「・・・・上月(こうづき)だ。上月(こうづき) (しおり)。」

 辰巳は、不破が知っていて当然だと言わんばかりにそう答えると、宝物を見るように腕の中の男を見詰めた。不破は。こんな表情で他人を見詰める辰巳を見たのは、初めてだった。

「・・・・上月(こうづき)・・?」

 名前にも聞き覚えは無かった。身なりをからしても、どう見ても堅気の男に思えた。平日のこの時間に、スーツを着ていないのが不思議に思えるようなタイプだ。

「・・・・どうされたのですか?彼は・・・?」

 不破は辰巳を見た。辰巳は小さく笑った。

 

「・・・(さら)ってきた。」

 

「・・・・・え・・・!?」

 サラリと呟く。不破は息を飲んで、辰巳の顔を凝視した。

「・・・攫って・・・?若・・・?一体・・・・。」

「客間に布団を用意させろ。俺がこのまま運ぶ。」

 辰巳はそう言うと、小柄な男を大事そうに腕に抱えたまま、屋敷の玄関に向かった。

 

15. 執着

「・・・・・・?」

 栞は目を開いた。

 その目に、いかにも金に糸目はつけていません、といった風情のゴージャスな日本間の天井が映った。

「・・・・・・?」

 栞はふかふかの布団に寝かされていた。前後の事情が良く思い出せない。見覚えの、まったく無い部屋だった。

(・・・・一体・・?)

 栞は上半身を起こすと軽く頭を振った。

 意識を失う前のコトを思い出す。

 そうだ。あの男が。・・・辰巳・・?

 栞はベンツの中から自分を見詰めていた男のコトを思い出した。

 

 

「・・・・・・・・。」

 栞を見詰めていた、辰巳の口が微かに動いた。見付けたと。

「・・・・・・。」

間髪入れずに、辰巳が周囲の男たちに何かを言ったようだった。と。気付かなかったが周辺の車から、ヤクザらしき男たちが数人降りてきて、栞の軽自動車を取り囲んだ。と思った次の瞬間には、栞は車から引き摺り降ろされていた。

「な・・・!?ちょ・・・。放せっ!!」

 栞は引き摺られながら、周囲に助けを求めたが、周辺の車のドライバーたちは、誰も目を合わそうとしてくれない。面倒事に関わるのは真っ平ゴメンだと顔に書いてある。栞は両脇をガッチリ抱えられて、辰巳の前まで連れて行かれた。

 冗談では無い。

「・・・・放してくれ!!俺はあんたたちとは、何の関係も無い!!」

 栞は辰巳に向かって叫んだ。その途端。

「・・・・ぐ!!」

 辰巳の拳が、栞の鳩尾に食い込んだ。

「・・・・これが・・。あんたの言うところの・・・礼かよ・・・。」

 栞は歯を食い縛って精一杯の憎まれ口を叩いた。だが、それと同時に。栞の意識は闇に呑まれた。崩れ落ちる身体を、辰巳の大きな腕が抱き留めたような気がしたが。

 

 

「・・・・・!!!」

 栞は記憶が甦ると同時に、布団から跳ね起きた。

 もしかして、海棠との妙な関係がバレたのかもしれない。だから、辰巳は栞に妙な(こだわ)りを見せているのかも知れない。トックに終わった関係だと言ってもヤクザには通用しないだろう。栞にはヤクザの世界の勢力図は良く分からないが、関西と関東のヤクザが仲が良いとはトテモ思えない。洋二も言っていた。居るだけで、痛くもない腹を探られると。

「・・・・・・。」

栞はアセっていた。もしこんなコトで、海棠に迷惑が掛かってしまっては本当に死んでも死に切れない。何を考えての事かは分からないが、海棠は栞の友人の借金に目を瞑ってくれたのだ。

栞は大慌てで、部屋から出た。

部屋の前の廊下には、誰の姿も見えない。

「・・・・・・。」

 栞は玄関の方角を見当を付けて、歩き始めた。とにかく、ここを出なければ。買ったばかりの車の事も気になったが、今はそれドコロでは無い。

 

「・・・・・・・。」

 幸いなコトに、相当歩き回っても誰とも出会わなかった。

 それにしても、デカイ屋敷だ。

 栞は玄関らしい場所を見つけて、小走りになった。その時。

「・・・・あっ!?」

 玄関のそうじをしていたらしい、まだ10代と思しき少年が、栞を見て驚いたような表情をした。少年といっても、やはりヤクザなのだろう。それなりのチンピラっぽい服装と格好をしている。

「・・・お、お客人?気が付いたんですか?」

「どいてくれ。」

 栞は少年を無視して、玄関を出ようとした。

「・・・・ちょ!!待って下さい。若に叱られちまう!!」

 少年はそう言うと、屋敷の内部に向かって、何か叫んだ。多分、自分の兄貴分にあたる誰かを呼んだのだろう。

「・・・・・・。」

 栞は自分を引きとめようとする少年の手を振り切って、飛び出した。と。

「・・・・上月(こうづき)さんっ!!!」

 開け放たれている玄関を潜ったと同時に、誰かに名前を呼ばれた。そして、強く肩を掴まれた。

「・・・・・!!」

 痛みに顔を顰めて、声の主を見ると。あの不破と呼ばれた銀縁眼鏡をかけた男だった。

「・・・・俺は・・。帰る。放してくれ!!」

「お待ちください。・・・若が、あの時の礼をと・・・。」

「迷惑だと言ったはずだ。頼むから放してくれ!!」

 栞は渾身の力で、不破の腕を振り払った。門に向かって全力で走る。と。

「・・・・あっ!!!」

 俯いていた視界に。磨き抜かれた革靴を履いた二本の足が入ってきたのは、その持ち主にぶつかる直前だった。

「・・・・・あっ。(つう)っ!!」

 かなりなスピードで、その男にぶつかった栞は、その男の逞しい胸板に弾き返されて、無様(ぶざま)にバランスを崩した。

「・・・・・・。」

 転ぶと思ったトコロを。

 その男の大きな手が、栞の両腕を掴むカタチで支えた。このトコロ、食欲が無くて確かに体重が落ちているとはいえ、今まで身長はそれほど高くなくても、それなりの体格と逞しさを誇ってきた栞には、この事態は屈辱だった。

「・・・・・・。」

 男の腕に縋る体勢になりながら、栞は恥ずかしさで頬を染めた。

「・・・・・どこに行く?」

 男の静かな声が、頭上から聞こえた。

「・・・・・・。」

 栞は男を見上げた。

「・・・・・・。」

 辰巳の美しい瞳が、栞を見下ろしていた。辰巳の後ろには、見覚えのあるベンツ。間が悪い事に、辰巳の帰宅とぶつかってしまったようだった。

「・・・・放してくれ。」

「・・・・上月。」

「礼など、必要ない。少しでも感謝しているというなら、このまま俺を帰してくれ。・・・一体、アンタはどういうつもりなんだ・・・?」

「・・・・・・。」

 蒼白な栞の顔を見て、辰巳は唇を噛んだ。

「・・・・あんたと少し、話がしたいんだ。俺の礼を受けて欲しい。」

「迷惑だ。」

「・・・・・・。」

 いつの間にか傍に来ていた不破が、溜め息とともに呟いた。

「・・・上月さん、どうか。こちらで一席設けさせて頂きます。若の面子を潰すような真似は、控えて頂きたい・・・。」

 低姿勢でありながらも。有無を言わせぬ、その口調。不破はどこか剣呑な眼差しを栞に充てている。

「・・・・面子を潰す・・・?俺は、そんなつもりは・・・。ただ・・。」

 栞は生唾の飲み込んだ。これは、脅しだ。心底、俺はヤクザが嫌いだと、栞は思った。

「・・・来い。」

 少なくとも辰巳は、栞の意向を聞くつもりは無いようだった。強引に栞の腕を引いて、屋敷に引き返す。この男は、やっぱり海棠と同種類の人間だ。だからヤクザなんて。栞は心底嫌いだと思った。

「・・・食事だけか?食事が済めば、帰してくれるんだろうな?」

 栞は辰巳とも不破ともつかずに、問いかけた。

「・・・・・・・。」

「・・・・・・・。」

 だが。2人からは、何の返答も帰っては来なかった。

 

 栞は、自分の人生の穏やかな終焉がドンドン遠のいていくような気がして、目の前が暗くなった。

 

 

−to be continued−

2003.07.15

 栞ちゃん、ピンチ?

 やっぱりオトコマエの恋敵は必要かしらと思ったのですが・・・・(笑)。

BACK

NEXT