ろくでなしの神話 4

<2>

 目の前を華やかな気配が、通り過ぎていった。

「・・・・・・・・・。」

 高村(たかむら) (しおり)は、賞味期間切れの弁当と発泡酒500ml2本の入ったコンビニの袋を手に顔を上げた。

 時刻は、午前0時を回ったトコロである。

 昨晩、店長を勤めているコンビニにシフトで入ったのが、22時だった。遅くとも昼の12時には上がるつもりだったのだが、バイトが急に休みを取ったり、客からのクレームがあったりして、気付いたらこんな時間になっていた。その間、ホトンド休憩は取れなかった。

 気を抜くと、疲労で飛んでしまいそうな意識を必死で繋ぎとめながら、栞は立ち詰めで棒のようになってしまった足を引き摺りながら、少し離れた場所にある自宅アパートに向かっていた。シャワーを浴びてビールを飲んで眠りたい。それだけが、目下の望みで、自然足が速まる。

 栞の勤めているコンビニから自宅アパートまでの最短距離上に、華やかなクラブやバーが立ち並ぶ区画がある。

 世の中不況とはいうものの。この一角は、まったく別世界だった。

 毎夜毎夜。美しく着飾った夜の蝶たちが、ひっきりなしに客を送り出し、通りには、運転手付きの高級外車がこれでもかと並んでいる。

 あるところには、ある。

「・・・・・・・・。」

 この場所は、栞にそれを痛感させる。

 

 栞に顔を上げさせた気配。

 それは、その中でも。

 一際華やかな笑い声とともに、美しい気配。

 華やかな場所に吸い込まれて行こうとするその影。

 両脇に、溜め息が出るような美女を抱え、優雅な仕草で彼女達の耳元に何かを囁き嬌声を上げさせている、長身で逞しく美しい男。

(・・・・・・間宮。)

 栞は、足を止めた。

 華やかな輪の中心に居ながら、誰よりも輝いている若々しくしなやかな美丈夫。この大阪でそれなりの規模を誇る指定暴力団の若頭を務めている、栞と因縁浅からぬヤクザ、間宮(まみや) (とうる)だった。

 気付くと、栞の周りの通行人のホトンドが、まるで見惚れるように間宮の姿を目で追っている。

 間宮の背後には、数人のスーツをビシッと着込んだ逞しい男たちが静かに付き従っている。

(カッコ良いなあ。)

 栞は、周りの通行人たちと同じように、惚れ惚れした気持ちで間宮の颯爽とした姿を目で追っていた。掛けている度の強いメガネに、無意識に右手の人差し指で触れる。それは、イロイロあった後、間宮が栞に買ってくれたモノだった。と。その瞬間。

「・・・・・・?」

 間宮がふいに振り返った。

「・・・・・・!」

 期せずして、栞と目が合った。その途端。

「・・・・・・あっ!!!」

 間宮は目に見えてうろたえた。

 大慌てで、両脇の美女から手を離すと、ギクシャクした動きでその場から離れようとする。階段から足を踏み外しかけたりして、護衛に身体を支えられたりしている。

「・・・・・・・・・。」

 急にカッコ悪くなった間宮に、栞は眉間に皺を寄せた。

「し、・・・・栞。」

 間宮は、栞に向かって声を掛けてきた。傍に来ようとしているようだ。

「・・・・・・・。」

 栞はビックリして、周りを見回した。皆が栞の方を興味深げに見ていた。

「・・・・・・・。」栞は、こんな風に注目されるのには慣れていない。何だか落ち着かない気分に耐え切れず、近寄ってくる間宮を無視して、慌てて踵を返した。

 栞。ちょっ、待っ・・・・!!違うんや。

 間宮が何か叫んでいたような気がしたが、栞は、恥ずかしくてそんな事を気にする余裕も無かった。足早にその場を離れる。

(何で、いつも俺を見ると、間宮は急にカッコ悪くなるんだ?)

 栞はホトンド小走りでその場を離れながら、訳がわからない気持ちで、首を捻った。

 こういうコトは初めてでは無かった。容姿からも分かるコトだが、間宮はとにかくモテる。色んな美女と歩いているのを何度も見掛けたが、全員違う女性だった。

 間宮が栞に気付くことも気付かないコトもあったが、間宮が栞の存在に気付いた場合は、大抵さっきのように無様な姿を晒してしまう。栞は何となく嫌な気分だった。その時。

「栞!!」

 栞の背後から、慌てた風の声が追って来た。間宮の声では無かったが、聞き覚えのあるソレに、栞は振り返った。

「加納さん?」

「ああ。良かった。見失ったかと思うた。」

 加納は栞の直ぐ傍まで来ると、大きく息を吐いた。

「若頭は、接待を受けとったんや。あのオンナたちはタダのホステスや。義理ゴトでな。断り切れんかったんや。」加納は随分走って来たらしく、微かに息を切らしている。

「・・・・・・・・・。」

 妙に言い訳じみたコトを口にする加納に、栞は再び首を傾げた。

「それを言いに?わざわざ俺を追い掛けて来たんですか?何で、俺にそんなコトを?」

「何でって。栞、不愉快やったんやろう?」

「俺が?どうして?」

「どうしてって。若頭が、オンナと腕を組んだり顔を寄せたりしてたら、栞は嫌やないんか?若頭に怒って、背を向けたんと違うんか?」

「別に。間宮は綺麗だから、間宮を好きなオンナは大勢居るだろうし・・・。オンナを腕に抱いている間宮は凄くカッコイイし。俺は好きですけどね。」

「・・・・。」加納は眼を丸くして、栞を見た。

「・・・・?」栞は加納が自分を凝視する理由が分からず、首を傾げる。

「・・・・・栞。」

「・・・・はい?」

「栞は、若頭の恋人やないんか?普通は、恋人が他所のオンナとイチャついとったら、オモロナイやろう?」

「恋人ぉっ!?」栞は大声を上げた。

「なっ!?何でそないに驚くんや?一体、自分を何やと思うとったんや?」

「え?確かに。トモダチではないし。でも恋人だなんて。俺はオンナじゃないですし。びしょうねんではモットないし。たまにお互いの家に行って、話をするだけだし・・・。」

「話?」

 加納は怪訝な顔をした。

「栞。まさかと思うが。若頭と、ちゃんとヤることヤってんやろな?」

「ヤルって?」

「セックスやがな。」

 栞は。一瞬、息を止めた。そして。

「ええっっ!?」

 大声で叫んだ。

「ええっ、て!!ヤってないんか!?付き合いだして、もう一月以上経つやないか!!!」

「付き合うって・・。だって!!だって、間宮とおれは男同士だし。セックスなんかしても、子供が出来るわけでもないのに、何で、スルんだ?い、意味ないじゃないですか!?」

「い、意味?意味無いって。あるやろが!愛を確かめあうっちゅう意味が!!大体、栞は若頭が好きで、大阪に来たんやないんか?」

「それは、そうだけど。でも・・・。」栞はおろおろと俯いて視線を彷徨わせた。愛を確かめ合う!?栞にはマッタク意味が分からない。

「若頭も、当然。アンタに惚れとる。」加納は栞のパニックに、追い討ちを掛けるように言った。

「・・・・・。」

「二人は、愛し合うとる、ちゅうことやろ?」

「あ・・・愛し合う?」栞は呆然としていた。

「・・・栞。」

 アキレタような加納の言葉に、栞は微かに首を振って呟いた。

「好きだからって、必ずしもセックスしなきゃいけないってモンでも無いでしょう!?」

 東京で間宮に好きだと言われ、自分でも訳のわからない衝動に突き動かされて大阪まで彼を追い掛けて来たのは事実だ。確かにそれ(・・)を恋だとも認識していた。だが、身体を重ねたいとは思わない。それに心のどこかで思っていた。間宮には、彼に似合いの美しい恋人が居て当然だと。

「好きやったら。相手の何もかもが欲しいやろ?それが、普通やろ?」

「な、何もかも・・・?」栞は顔を引き攣らせた。

「そや。」

 栞は小さく呻いた。それが当然なのかもしれない。だが。

「・・・・少なくとも。俺は違います。」栞はポツリと呟いた。

 欲しくない。何も。欲しがっては、いけない(・・・・)

「・・・・。」

「・・・・・。スミマセン。俺。帰ります。明日も早いんで。」

 栞は踵を返した。混乱していた。これほど身体が疲労している時に、こんな話をしたくは無かった。逃げるように加納から離れる。

「・・・・。」そんな栞の後姿を、加納は呆然と見送った。

 

 

「どや?怒っとったか、栞?」

 バーのVIP席で華やかな女性たちに囲まれながら。どこか落ち着か無い様子でタバコを吸っていた間宮は、加納が帰ってきたのを素早く見つけると、席を立って近寄ってきた。

「怒ってはいはりませんでしたが。」加納は眉間に皺を寄せて、間宮を見た。

「どないした?」間宮が訊く。

「若頭は手が早いので有名なヒトやから、こんなコト訊くのもバカバカしいとは思うとったんですが。・・・栞に。何もしとらへんて。ホンマでっか?」

「・・・・・!!」間宮が目に見えて動揺した。

「若頭ァ!?」加納は、思わず大声を上げた。

「いや。全然という訳や。最後までは、いっとらんだけや。」

 間宮はチラチラと加納を見ながら、小さな声で呟いた。

「はあ!?チュー坊ですか、アンタ方!?」加納の声が、益々大きくなる。

「加納。」困りきったように、間宮が言う。

「マサカ。ヤり方が分からんとかや無いでしょうな?」加納は声を(ひそ)めて、間宮に囁いた。

「あほ!!俺を誰やと思うとるんや!!男でも女でも、思うまま鳴かせる自信はあるんや。けどな。」

「・・・・。」

「栞は。初めてがアンナ事やったし。ハッキリと口には出さんが、コトに及ぼうとすると。目が何ちゅうか、俺を。子犬みたいな目ぇで・・・。怖い怖いと言うとるんや。俺は栞に無理強いはしとうないんや。」

「そら。まあ。若頭の気持ちもわかりますが。二人が付き合いだして、もう、一月以上経つんでっせ?何も無い、ちゅうコトがキズになる場合もあるでっしゃろ。優しゅうしてやったら良えんです。アンナ事、カケラも思い浮かばんほど、気持ち良う、させたったら良えんです。」

 間宮は、大きく溜め息を吐いた。

「けどな。優しゅうするつもりでも。もし、我を忘れてもうて、栞を酷い目に遭わせてもうたら、と考えると。」

「若頭。」

「しゃあ無いやろ。こんなに好きになってから、抱くのは初めてなんや。力入れたら。思いっきり愛したら、壊してしまいそうで。」

 加納は、あきれたように溜め息を吐いた。

「人間は、そう簡単に壊れまへんて。栞はそら若頭に比べたら華奢かもしれまへんが、男で大のオトナなんですぜ?」

「理屈では、わかっとるんやが。」

「・・・・・。」

 辛そうに長い睫毛を伏せる間宮を見て、加納は小さく笑った。

「何や?」間宮がムッとしたように、顔を上げる。

「いや・・・・。栞は大したもんや、と思いましてな。」

 その場限りのラブアフェア。薄っぺらい愛の言葉を甘く囁きながら、明日になれば昨夜熱い愛を語ったオンナの顔も覚えてないような、愛のゲームをタダ楽しんでいた。

 間宮を、ココまで変えたのだ。

「ふん。どうでも良えがな。お前、栞を呼び捨てんな。」

「栞は、栞ですがな。例え、姐さんになったとしても。」

「・・・・。」間宮は、不愉快そうに加納を睨んだ。加納はまだ笑っていたが、ふいに笑顔を収めると、マジメな顔になった。

「若頭のお気持ちは、俺は分かりましたが。栞は、分かってないんちゃいますか?」

「え?」

「若頭の恋人やろう、いうたら、ビックリしてましたで。それに、若頭が綺麗な女と一緒に居るのは、当たり前のようなコトも。栞は、確かに変わり者やとは思うとりましたが。何か、ちょっとヤッパリ考え方が変でんな。」

「・・・・。」

「ヤキモチとか。焼かんのでしょうか?大阪まで追い掛けて来るほど、若頭に惚れとるいうのに。」

 間宮は小さく首を捻った。

「ヤキモチか。」

 間宮は小さく呟いた。そして、顔を上げると。

「加納。ちょっと、栞の生い立ちとかを調べてくれんか。」

「はい?」怪訝そうに間宮を見る、加納に。

「栞は・・・。自分の息子を愛せんかったと言うとった。確かに栞は感情面で、妙に反応が鈍いというか、天然ボケというか。確かに妙なトコロがあるんや。何か、子供の頃にあったのかもしれへん。トラウマいうのか?何かそういったモノの気配を、感じるんや。」間宮は言った。

「・・・わかりました。大至急、調べてみますわ。」

 加納は小さく頷いた。

「・・・しかし。栞が、ヤキモチか。ちょっと焼いてみて欲しい気もするな。」

 店を出て行く加納を見ながら。間宮は苦笑気味に呟いた。

 

 

 

(間宮は。俺とセックスしたいのだろうか?)

 仕事場のコンビニで。

 棚の商品の在庫を確認しながら、栞はぼんやりと考えていた。

「・・・・。」

 正直。二人きりの時に、間宮にそういう気配を感じないと言ったら嘘になる。どこか飢えているような瞳が、何かモノ言いたげに栞を見るコトがある。その意味に気付かないほど、栞は初心ではない。だが。

「・・・俺は。見ているだけで、充分なんだ。」

 栞は溜め息を漏らした。怖い。セックスで掛かる身体の負担も勿論だが。間宮にのめり込むコトが。間宮と身体を重ねるコトで変わってしまうかもしれない自分が。

「店長!レジ入ります。」

 バイトの大学生が栞に声を掛ける。

「あ。お願いします。」

 栞は、一旦思索を中断して、店の掛け時計を見た。

 時刻は午後11時を回ったトコロだった。

 平日のこの時間帯は、酔っ払いが多くて閉口する。だが今日のバイトは栞以外に男子学生が二人。万全に近い。何とか乗り切れるだろう。

 そう栞が考えていた時。

「!!」

 駐車場の方で、争うような声が聞こえた。

 数人の若い学生風の男たちが、誰かを取り囲んで叫んでいる。

 真ん中に居るのは。

「!!!!」

 見慣れた制服。

 もう一人のバイトの男子高校生だ。モトモト鼻っ柱が強くて、客ともしょっちゅうトラブルを起こしている。

「どうした!?」

 栞は店を飛び出した。

 飛び出した瞬間には。

「舐めんな!!!このクソぼけがあっ!!!!!」

「!!!!」

(は、始まってしまった。)

 しかも。仕掛けたのは、コチラのバイトの高校生。凄くまずい。

 だが、栞がおろおろしている間に、あっという間に。乱闘は始まった。

「止め・・・・・!!!」

 飛び交う凄まじい迫力の大阪弁の怒号に、栞は足が竦んだ。

「店長!!警察呼びまっか!?」

 大学生のバイトがレジの方角から、蒼白な顔で叫ぶ。

「ああ!!!頼むっ!!」

 栞は少しだけ振り返ってそう言うと、乱闘の方に目を戻した。いくら鼻っ柱が強くとも、所詮多勢に無勢。バイトの高校生はボコボコにされかかっていた。

(まずい・・・!!)

 最近の子供は加減を知らない。下手するの殺されるかもしれない。

「止めなさいっっ!!!!」

 栞は意を決して、目を瞑って乱闘に参戦した。

 

 当然だが。

 何の役にも立たなかった。

 

「・・・・・・っ・・・!!!」

 何発か殴られ突き飛ばされ、メガネが吹っ飛ぶ。

 こうなると、栞にはもう何も見えない。

「あ・・・・!!!」

 誰かが汚い言葉で栞を罵りながら、仰向けに転がった身体に圧し掛かってくる。

「!!!!!」

 首に手を掛けられた。両手で圧迫される。

 相手の顔はボヤけて見えない。息が・・・・!!出来ないっ・・・・・!!!

「うわあああああああ!!!!!」

 栞はパニックに襲われた。大声を上げて暴れ回る。

「お母さんっ!!!ごめんなさいっ!!お母さん、許してっっ!!!!」

 自分でも思いもよらない言葉が、口から漏れた。

 その瞬間。

「栞っ!!!!」

 誰かが叫んだ。と、同時に、身体の上の重みが無くなった。

「栞っ!!!しっかりせえ!!もう大丈夫やっ!!!」

 大きな逞しい腕が、栞を抱き起こし、抱き締める。

(ああ・・・・。)

 この腕は知っている。栞は思った。

 前も、俺を助けてくれた。

「栞っ!?」

「・・・・・・・・助けて・・・。」

 そう呟いたのを最後に。

 栞は意識を失った。

 

 

「・・・・・!!!」

「・・・!!!」

 怒鳴り声が頭上で聞こえた。

 栞はゆっくりと覚醒していった。

「コンビニの仕事なんか、辞めさせえっ!!!首を絞められたんやぞっ!!気付くのが遅かったら、どうなってたか分からんやないかっ!!」

 誰かが叫んでいる。

「栞は、自分の意思で働いとるんです。自分で辞めると言わん限り、強制は出来まへん。」比較的冷静に、もう一人が答える。

「!!!!」

 最初の男の苛立たしげな舌打ちが聞こえる。

 首?

 ああ。そうだ、俺は誰かに首を絞められて・・・・・。

 栞はゆっくりと目を開いた。

「・・・!!!!」

 ゾクリ。

 背筋に冷たいモノが走った。

 メガネが無くて、ハッキリしなかった視界。自分に圧し掛かって首を圧迫してきた大きな両手。

「お・・・・お母さん・・・・・・。」

 栞の口から、吐息のような言葉が漏れた。

「栞!!」

「栞!!気付いたんか?」

 ぼんやりした視界の中で。大きな人間が真上から栞を覗き込むのが分かった。

「いやだっ!!!」

 栞は叫んだ。

「栞?」

「お母さんお母さん、ごめんなさいっ!!!!」

 栞はパニック状態で両手を振り回した。寝かされているベッドから逃げようと暴れる。

「栞っ!?俺や!!間宮やっ!!!大丈夫や!!!お母さんなんか、どこにも居らん!!!大丈夫やっ!!!」

 間宮は力ずくで、暴れる栞の身体を、その腕に抱き込んだ。

「はあっ!はあっ!はあっ!!!」

 栞が大きく息をする。

「大丈夫やっ!大丈夫や!俺が居る。ここに居るから、大丈夫や。」

 間宮は栞の耳元で繰り返す。

「間宮・・・?」

「そうや。言うたやろ?お前が助けを求めたら、俺が必ず行くと。」

「間宮。」

「そうや。」

 栞は、間宮の腕をぎゅっと掴んだ。そして目を閉じた。先ほどの恐慌がだんだん収まるのが、自分でもわかる。

「間宮。ごめん。め、迷惑。掛けたな・・・・。」

「迷惑なんかや無い。栞。無事で良かった。」間宮は栞の背中をゆっくりと撫でた。

「うん。」

「良かった。」

「・・・・うん。」栞の目から涙が溢れた。間宮の胸に顔を押し付ける。嗅ぎ慣れた。間宮のいつものコロン。栞はやっと安心して、溜め息を吐いた。

 

「・・・・・・。」

 加納は、ベッドの上で抱き合っている二人の姿を確認してから、無言で間宮のマンションの寝室を出た。

『お母さん、ごめんなさい。』

 ドアを閉じると同時に、泣き叫んでいた栞の顔が脳裏に甦る。

 

『栞は、一家無理心中事件の生き残りだそうですわ。』

 加納が間宮にそう報告したのは、昨日のコトだった。

『父親が経営してた小さな町工場が倒産して。借金を抱えた親が子供たちを道連れに心中というお決まりの図式ですな。両親と兄貴と妹。皆、その時死んでしもうて。栞だけが生き残ったらしいんですわ。』

『何で、栞だけ助かったんや?』

『母親が。当時7歳だった栞の首を絞めたらしいのですが・・・。つまり。絞めきれんかったというコトなんでしょうな。妙な気配を感じた親戚が、慌てて駆けつけた時はもう遅うて。でも、家族の中で栞だけが息を吹き返したそうです。』

『・・・母親にか・・・。』間宮は息を呑んだ。

『栞が自分でそう言ったそうです。母親に首を絞められた、と。・・・地獄でんな。』加納も遣り切れなさそうに、眉間に皺を刻んだ。

『可哀想に。なんぼか怖かったやろう。』間宮は唇を噛んだ。栞のどこか不可思議な言動がアタマを過ぎる。

『それからは、親戚の間を転々と・・・。たらい回しされたらしいでんな。微妙に変わっとるのは。そんな生い立ちのせいでっしゃろ。子供の頃に、家族とうまくコミュニケーションが取れんかったのが響いたんでしょう。前のカミさんも言うとりました。栞はソレナリに家族を大切にしてたようやったけど、愛されているという実感がどうしてもわかんかったと。誠の話とかを考えれば。やっぱり栞は、カミサンも息子も愛してなかったんでしょうな。いや。家族とは。栞にとって愛する対象や無いのかもしれまへんな。』

『・・・・・。』

『その家族に殺されかけたのやさかい・・・。』

『・・・。』

 俺はヒトとしての何かが欠けている。

 そう自嘲していた栞の顔を、間宮は思い出していた。

『・・・親に殺されるなんて。俺は今まで、考えたコトも無かったな。』他にはイッパイ殺されかかったけどな、と。間宮は、独り言のように呟いていた。

 

 

(栞。可哀想に。)

 加納は唇を噛んで寝室のドアをもう一度見詰めると、ゆっくりとリビングに向かった。

 

 

「欲しいモンはないか?」間宮が腕の中の栞に訊いた。

「・・・・・・・。」栞は首を振ると、間宮を見上げた。

「みっともないトコロ。見られてしまったな。いや、今更か。間宮には、みっともないトコロばかり見られる。」

「みっともなくなんか無い。」

 間宮は、少し怒ったように言った。

「いきなり『・・・お母さん。』なんて騒いでしまって。間宮、驚いただろう?」

 二人きりの寝室。

 間宮の腕の中で。

 栞は重い口を開いた。

「・・・・・・。」間宮は何も言わない。黙って、栞の背中を撫でている。

「・・・・7歳の時。俺は母親に殺されかけたんだ。・・・首を絞められて。だから、つい。パニックを起こしてしまったんだ。」

「栞。言いたくないことは、言わんで良えで。」間宮が、小さな声で呟く。

 栞は首を振った。

「無理心中だった。多分、凄いショックだったんだろうな。俺は、その時死んだ、父のことも兄や妹のコトもマッタク覚えていない。7歳より前の、家族に関する記憶が、マッタク残っていないんだ。」

「・・・・・。」間宮は栞を抱く腕に力を込めた。

「だが。母の事だけは覚えている。」どこか漠とした視線を空中に彷徨わせて、だが栞はキッパリと言った。

「・・・・。」

「正確には。俺の首を絞めていた。般若のような形相を覚えているんだ。だが俺は、あれが、母だという事は分かっていた。」

 震える声が。呟いた。

「・・・・・。」

 間宮は何も言わなかった。

 栞は視線を床に落した。そして言った。

「そういった事情だったから。俺は子供の頃、親戚のウチを転々としていた。でもそれは皆に経済的な事情があって止むを得なかったからなんだ。皆。俺に申し訳ないと頭を下げてくれたよ。俺の親戚は皆、優しくしてくれた。両親が居ない分、イッパイ愛してくれたと思う。いつも気に掛けてくれていた。イマでもだ。皆でお金を出し合って、高校も卒業させてくれた。」

「そうなんか。」

「そんなオジサンたちが、俺に言うんだ。母さんを許してやってくれ、と。俺が唯一覚えている家族の記憶が。自分を殺そうとしている母親だというのが、親戚たちも辛かったんだろう。オジさんやオバさんは・・・・。」

「・・・・。」

 間宮はゆっくりと、栞の背中を擦り続ける。栞は続けた。

「母は。心から俺を愛していたと、俺の顔を見る度に言った。」

「・・・・。」

「皆が。お母さんが、俺を殺そうとしたのは、愛していたからだと言うんだ。お母さんは何よりも俺を愛していたんだ、と。必死で教えてくれた。」

「・・・。」

「でも、正直。俺は母のコトが怖かった。」栞の声が、微かに震える。

「・・・。」

「子供の頃は、母が俺を殺そうとした事情も全然分からなかったし。」

「!!!!」

 間宮は唐突に理解した。

 無理心中の意味すら理解出来なかった、幼い栞は。

 ヒトを愛するという事が。母親の般若のような形相と直結してしまったたのだ。愛するヒトの首を絞めて殺すという行為は、愛することとイコールになってしまったのだ。

「・・・栞。」

 親戚たちに、悪気があった訳では勿論無い。子供を手に掛けるまで思い詰めた母親に同情し、不憫に思っていたのだろう。栞が母親を恨まないようにしてやろうと思ったのかもしれない。だが、結果的に栞の心に消えない疵を付けてしまった。

 栞は言葉を続けた。

「オトナになって。色んな事情が分かって。イマは母親を憎いとも怖いとも思わない。だけど、俺は・・・。」

「栞。」

「ヒトを好ましいと思っても・・・。どうして良いのか分からない・・・。駄目な気がするんだ。何か悪いコトが起きるような気がしてならないんだ。」

「栞。」間宮は目を閉じた。

「間宮が好きだけど。だけど、怖いんだ。ヒトを心から愛してしまうコトが。間宮を愛して、どうなるか分からない自分が・・・。間宮とのセックスが怖い訳では無いんだ。いや、勿論少しは怖いけど。」

「・・・・。」

 間宮は唇を噛んだ。

 栞は。多分、無意識にだろうが。ヒトを愛すると、自分は母親と同じように般若になると思っているのだ。自分の愛するヒトも般若になると思っているのだ。そして。とてつもない怖いコトが起きると。栞はヒトを愛するコトにより、信じられないホド怖いコトが起きるのを無意識に避けようとしているのだ。無意識に、自分の感情にブレーキを掛けているのだ。

(何てことや。)

 怖い怖い。母親に首を絞められながら、信じられない思いで。誰よりも信頼し愛していただろう母親の顔を見詰めて泣いている幼い栞を思い浮かべ、間宮は鼻の奥がツンと痛んだ。

 ごめんなさい。

 栞は叫んでいた。

 悪いことをしたから、こんな酷い目に合わされているのだと。幼い栞は、思っていたのだろうか。

「・・・栞。」

 間宮は込み上げるものを抑えようと、奥歯を噛み締めた。

 栞が、微かに笑った気配がする。笑いながら呟いた。

「俺は。やっぱり、どこか可笑しいんだと思う。どこか人間として、歪んでいるんだよ。だから、もし間宮がイヤなら・・・。俺は東京に帰るよ。」

 間宮は弾かれたように栞から身を離すと、その肩を両手で掴んで顔を覗きこんだ。

「・・・アホなことを言うんやない。栞は少しも可笑しゅうなんか無い。」

 間髪入れずに間宮は叫んだ。そして栞を引き寄せて、腕の中に抱き込んだ。

(・・・知らないだけや。)

 両腕に力を込める。

 ヒトを愛するという事の素晴らしさを。抑えても抑えても胸に湧き上がる、愛しさという名の、何にも代え難い大きな大きな優しい想いを。

 この人を守るためなら、命を捨てても良いと思える胸の甘酸っぱい痛みやトキメキを。

 これから全部。全部俺が教えてやるから。

 間宮は思った。子供を育てるように。全部、全部はじめから。

「アンタの両親は、確かにアンタを愛していた。けど愛し方を間違えたんや。アンタの首を絞めたんは、間違いや。」

「・・・間宮・・・。」

「栞。俺は・・・。あんたを甘やかしてやりたいよ。」間宮は心から言った。

「・・・・。」

「あんたが、いつも心地良うしていられるよう、いつも安心していられるよう。小さな子供を育てるように。アンタを愛してやりたい。愛するって、そういうコトや。」

「・・・・。」間宮の腕の中の栞の手が。

「やから。ずっと、俺の傍に居り。離れるなんて言うんやない。」

「・・・・。」間宮のワイシャツの胸元を掴む。

「言うたやろ。俺が守ったる。アンタが助けを求める時は・・・・。俺が必ず行くさかい。」

「間宮・・・。」栞の指先に。力がだんだんに篭もってくるのを、間宮は感じていた。

「何や?」

「・・・・・俺のお母さんは。間違えたのか?」

「そうや。」

「間違えたのか・・・・。」

「そうや。良えか、栞。悪いのは、お母さんの方や。アンタやない。」

「間宮。」

「ん?」

「・・・・・ちょっとだけ。ちょっとだけ、泣いても良いか?」その声は。既に掠れていた。

「良えで。ここ(・・)は。あんたのモンや。アンタだけのモンや。優しゅうてアッタカイやろ?それは、あんたを愛しているからや。愛はな、栞。深くて広いもんなんや。」間宮は自分の胸を目線で示すと、綺麗に笑った。

「・・・・っ・・。」

 間宮の胸に顔を押し当てて。栞は声を殺して泣き始めた。

「・・・・。」

 間宮は、栞をしっかりと抱き締めた。髪の毛に顔を埋めて、囁いた。

「栞。俺はヤクザや。」

 栞の嗚咽は止まない。

「・・・・。」

「正直。あんたより長生き出来るかどうか、わからへん。でもな。」

「・・・・。」

「例え死んだとしても。俺はアンタを絶対に守る。未来永劫。」

「・・・イヤだ。」栞が小さな声を上げた。間宮のシャツを掴む力が一際強くなった。

「栞。」

「死なないでくれ。間宮。」泣き顔が、間宮を見上げる。縋るように。

「栞。」間宮は涙にまみれた栞の頬に、唇を寄せた。

 

 愛してやる。

 母親よりも。父親よりも。

 少しも怖くないように。少しも不安を感じないように。

 いつでも、愛に包まれているのだと、実感できるように。この生命(いのち)が続く限り。

 

 この生命(いのち)が終ったアトも。

 

「愛している。」

 間宮は静かに呟いた。

 

 

 

 

 

『・・・ほんで、どうしたんです?栞と寝たんでっか?』

 電話の向こうで加納が探るように、訊いて来る。加納は夜半に、間宮のマンションを後にしていた。

「ああ。寝たで。朝までひとつの布団で、ずっと抱き締めてやっとった。」

 間宮は笑いながら、答えてやった。性的な意味では、栞には指一本触れていない。

『・・・・。』

「何や?」

 黙りこんだ加納に、間宮は声を掛けた。

『若頭の自制心を見直しとったトコロです。』

「ふん。」

『いや。マジで。けっこう感動しました。』

「・・・・。」

 まんざらウソでもなさそうな加納の言葉に。夕べ泣きながらそのまま眠ってしまい今朝、間宮の腕の中で目覚めて、うろたえて真っ赤になっていた栞の姿を思い出して、笑った。

『いや、ホンマ。栞は。たいしたもんでんな。』

「やからっ!!何で栞を褒めるんや!?」間宮は怒鳴った。

 加納はひとしきり笑ったアト、ふいに真面目な調子で。

『そうや。それから・・・。夕べ回った言った店で、変な噂が流れてましたで。』

「変な噂?」間宮は眉間に皺を寄せた。

『何か。若頭がゲイでしかもネコだということになっとるんですが・・・。』

「・・・あ。」間宮は、今朝の栞の言葉を思い出してアタマを抱えた。

 

 

 栞の。照れて、困りきったような真っ赤な顔は、仕事に行くために間宮のマンションを出る瞬間まで直らなかった。

「・・・・。」

 そんな栞を。にやにや笑って見ている間宮の態度に、最後には栞はキレた。そして。

「昨日。ルミとかいうホステスさんが、店に来た。」

 栞はにこやかに、そう言った。

「えっ!?」玄関先まで、栞を見送りに来ていた間宮は見る見る青くなった。

「・・・・・。」

「・・・・。」

「・・・な、何か。言われたんか・・・?」

 暫らく。栞は凍りついたような表情を浮かべる間宮を、にこにこと見ていた。そして。

「『何や。冴えないオッサンやないの。亨の物好きにも呆れるわ。アンタ。いい気にならんことね。飽きたらスグにポイされるんやから。』と言って、出て行った。」

 一言一句間違えず再現しているという態度で。さらっと栞はセリフを言った。

「・・・気の強いオンナや。」間宮は舌打ちをした。

「若くて。綺麗な(ヒト)だったよ。すごく頭の回転も早そうだった。気の強そうなトコロも可愛いと言えるかも。ああいう女性が好みなんだな、間宮。」

「・・・な、何や?何が言いたい?別にあのオンナとは何でもないで?あのオンナは何か勘違いしとるんや。」間宮はしどろもどろに弁解を始めた。

「だけど、ゴメンな。俺も。ちょっとアタマにきたもんだから。」

「え?」

「仕方ないでしょう。間宮くんは、俺に抱かれて眠るのが大好きみたいですから、と言っておいた。」

「ナニッ!?」

「真っ青になって出て行ったよ。スグに携帯電話でどっかに連絡していた。間宮はネコやったんや、とか言っていたなあ。」

「し、栞。お前・・・。」

「現実問題として。」栞はキッと間宮を見た。

「それもアリだよな。俺は痛いのはイヤだし、間宮は俺とセックスしたいんだろう?」

「・・・・。」

「俺は、誠を創ったという実績もあるし。案外、間宮より上手いかもしれない。何といっても。ハルカに年上だしな。」

「・・・し、栞?」

 栞は、メガネを右手の人差し指で押し上げると、キッパリと言った。

「俺に抱かれる決心がついたら、言ってくれ。スグにでも応じる。」

「栞!?」

「それじゃ。」

 栞はそう言い捨てると、踵を返して玄関のドアを閉めた。

「・・・・。」

 間宮は呆然と、閉じられた玄関のドアを見詰めていた。

 

 

 

『若頭?どないします?』

 電話の向こうで、加納の声がする。

「・・・・。」

『若頭?どないしますか。噂の元凶をつきとめますか?ちょっと、シメますかね?』

「・・・ほっとけ。」間宮は苦笑した。

『はい?』

「それは。東京で拾うた変わりモンの、可愛いヤキモチらしで。」

 そうや。ヤキモチや。

 間宮は口元が緩むのを抑え切れなかった。

『・・・。ホンマに忍耐強うなられて。いや、ホンマ栞は・・・。』

「・・・・。」

 ミナまで言わせず、間宮は電話を切った。

(本人が。ヤキモチと認識しているかは、別の話やけどな。)

 間宮はそう思いながら、声を出して笑った。

−fin−

2003.12.18

 ごめんなさいっ!!いやホントにクリスマス企画以降は削除してしまうかも。速やかに逃走・・・・・。大阪のマチをマッタクといって知らないから。いや、困ったな(笑)。一応、状況説明です!!アトガキすら、支離滅裂(笑)。

 

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